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トマトソース

規則正しいプラスチックの打鍵音は、

暖かい室温を押しのけるように部屋に響く。


彼は今、

モニターという白い膜の向こう側にいて、

キーボードを叩く指先だけが動いている。


私はキッチンの灯りの下で、牛刀の柄を握る。

スタンドと触れ合い、尖り澄んだ金属音が通り過ぎた。


氷のように冷たいステンレスの重みは、

私の体温を吸い、徐々に境界を失っていく。


トマトの形を失うまで煮込まれたソース。

彼が苦手なあの独特の酸味は、砂糖と蜂蜜で、

徹底的に丸く整えた。

 

仕上げに振ったオレガノの乾いた粒と、

熱で柔らかくなったバジルの深い緑が、

ソースの中に複雑な模様を描いていた。


「カラン――」


役目を終えた牛刀を横たえたとき、

薄いまな板を透過して、キッチン台が大袈裟に反響した。

 

その不器用な音が、

部屋の空気をふわりと揺らすと。

打鍵音が止まり、こちらを白銀に光るメガネが見つめていた。


椅子が引かれる音。近づいてくる足音。


待っていたみたいに、

少し冷えた腕が私の首元に、

吸い付くように巻き付いてきた。


「……お腹空いた」

彼は私の肩に顎を乗せる。


「仕事、終わった?」

私の肩の上で、子供みたいに小さく頷く。


さっきまでタイピングしていた指先が、私の腕をなぞる。


その指先は、甘酸っぱい色をしていた。

――その重みが、たまらなく愛おしかった。


「今日のは自信作だよ。トマトあいつ、跡形もないから」

「……さすが。わかってるね」


小皿に分けたソースをスプーンで差し出すと、

彼はそれを慎重に口に運んだ。


一瞬だけ、眉が真ん中に寄る。

徹底して消したはずの、その奥にある赤色の酸味。


彼の舌はそれを探し当てたように、

ほんの少しだけ酸っぱそうな顔をした。


私はそれを見逃さず、

ニコリと笑って彼を覗き込む。

「……どう? まだ酸っぱい?」


彼は降参したように喉を鳴らして飲み込むと、

満足げに目を細めた。

「……いや、負けたよ。めちゃくちゃ美味い」


その言葉が消えないうちに、

彼は私の腰に回した腕に力を込めて引き寄せる。


白い膜の奥で光を浴びていた彼の冷たい指先が、

トマトの熱を帯びた私の肌に深く沈んでいく。


「んっ……」


重なった唇からは、

砂糖で甘く整えられたトマトの爽やかな風味がした。


オレガノのウッディな爽やかさと、バジルの清涼感。

スパイスは彼の熱と混ざり合い、複雑だけど純粋な今日という風味に変わった。


彼が離れる度に、唇が温度を失う。

浅い呼吸が混じりあって、オレガノの香りが薄れていく。


「――っ」


唇が冷たくなる前に温度を求めて空を彷徨う。

それをお互いが追いかける。


彼の中にある苦手な酸味すら、温かな記憶に塗り替えていく。


この小さなキッチンの灯りの下、

一つの味を共有して、溶け合うように体温を分かち合った。


「……おかわり、いる?」


耳元で囁くと、

彼は離れるのを惜しむような表情をする。


その瞳はいつもより、真剣な色をしていた。


肩を震わせた彼の呼吸が、私の胸の奥に、

僅かな痛みに似た温度を残す。


そして、もう一度深く、

私の唇をついばんで息を吐く。

 

「いる。……このトマト煮、明日も食べたい」


私はニコリと笑みを返す。

 

最近作ってないなあ


一部改稿しました!

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