46.ネロの素顔
冷たい石造りの床に倒れ伏したアミミ。
ネロはそんなアミミに見向きもすることなく、アルティスの方へと歩みを進めた。
ネロとの距離が近づくたび、アルティスの方がびくりと震える。しかしアルティスはそこから動こうとはしなかった。彼女の背後には、いまだ意識を失ったままのゲロとカスが倒れている。まるで2人を護る母親のように、両手を広げて自分の背中に2人を隠していた。
そんな健気な抵抗も、ネロからすれば自分が楽しむためのスパイスにしかならない。フードの奥からくつくつと笑い声が漏れてくる。
「いいね。その恐怖に引きつった表情。それでいて、他者を護ろうと抵抗の意思を見せている。でもダメだよ。そんな表情したら、ボクがますます興奮してきちゃうからね」
すっと人差し指をアルティスへと向けると、指先から細かな糸が束になった綱糸が伸びた。その糸はアルティスの脇を通り過ぎ背後のカスの体に突き刺さる。
「ぐぅ」
「カス!」
痛みに声を漏らすカス。2人を護ろうとするアルティスの感情を嘲笑うかのように、ネロは再び綱糸を伸ばすとアルティスを避けて今度はゲロへと突き刺さった。
寄りかたまったことで太さを獲得した糸は、ゲロの体に穴を開ける。アルティスは必死に糸を取り払おうとするが、触れた自分の手がまるで刃物に触れたかのように血が滲んだ。
「痛ぅ!」
反射的に糸から手を放してしまう。両手に滲んだ血がアルティスに恐怖を感じさせた。
「ほらほら。他の人のことなんて気にしたっていいことなんてないよ? 自分が傷つくだけなんだからさ。でもそうやって抵抗してくれたほうが個人的には嬉しいけどね。ボクみたいな人間は、必死に抵抗して、それでもどうしようもない現実に打ちひしがれる姿を見るのが、何よりの楽しみなんだから」
そう言い放つネロに、アルティスはきっと睨み返す。アルティスの歯ぎしりが周囲に漏れ聞こえた。その音にネロが肩をぶるりと震わせる。
アルティスは両手をぐっと握りしめると、羽織っていた上着を脱ぎ去った。上半身は下着1枚と心許ない状態で、脱いだ上着を糸に被せる。その上から両手で再び糸を掴むと、今度は手が傷つくことなく糸を握ることができた。
さすがトールがくれた衣服だと、アルティスは感心半分、申し訳なさ半分といった感情で、ぎゅっと両手に力を込める。幸い太さがあるので掴めないことはない。ゲロに突き刺さった糸を何とか引きはがそうとするが、しかしアルティスの力ではその糸はびくとも動かなかった。
それでもアルティスは諦めることなく、糸を引っ張ってゲロから引きはがそうとする。そんな様子に、ネロは両肩を抱いて恍惚の吐息を漏らした。
「……は、あぁぁ。いい、いいよ。キミ、いいよぉ」
ネロはそんなアルティスに向けて、もう片方の人差し指を向ける。
悲劇とはいつも唐突で、無慈悲なものだ。ネロは世界が非情なものだと知っている。だからこそ、人の運命は非情なものでなければならない。ネロの歪み切った感情は、アルティスに絶望と悲劇を齎そうとしていた。
「カァ!」
ネロの行動に気づいたワシが、アルティスの肩から勢いよく飛び出した。そしてネロに向けて嘴を伸ばす。
「トリには興味ないんだ」
ひゅっと小さく指を振るうと、糸がワシの体を両断するように通り過ぎた。ワシの体が、ネロへ届く前に2つに分かれる。勢いを失った体に片方は地面へと落下し、頭の残った一方はそのまま翼を広げて滑空するようにネロを通り過ぎて墜落した。
「ぁ」
地面に落ち半分になったワシの体を目にし、アルティスの目の前が真っ白になる。
自分を助けようと敵に向かっていったワシ。自分を護ろうとしたがゆえに、命を奪われた。自分のせいで、殺された。その光景は、アルティスの心に忌まわしい記憶を想起させ、糸を握る手が力なく落ちる。
「んん? もう抵抗は終わり? つまらないな……」
呆然とした表情で固まるアルティス。その瞳にネロの姿は映っていない。それは相対しているネロにも伝わり、だからこそ胸の奥に理不尽な怒りが湧いた。
「はぁ。もういいよ。ボクは壊れた玩具には興味がないんだ」
そうして再び、アルティスに向け指先を伸ばす。その先端から、まるで弾丸のように魔力で紡がれた糸が小さな球体を形作る。
「バン」
ネロの掛け声と同時に指先から放たれた糸の弾丸は、一直線にアルティスへと飛来する。アルティスへと着弾する直前、それは見えない壁に防がれ弾き飛ばされた。
「……魔防壁。他者の敵意に対して自動発動する魔道具かな? いいもの持っているね」
「…………」
ネロは未だ反応のないアルティスの元へと歩み寄る。そして、その額に指を伸ばした。
「そういった魔道具の弱点は2つ。他者の敵意に対して発動するから、敵意や殺意を込めずに攻撃したり、天井を砕いて落とした岩までは防げないこと。そしてもうひとつ。魔防壁の内側からの攻撃は、防げないこと。じゃあね。少しの間だったけど、キミを揶揄うのは楽しかったよ。バイバイ」
ネロは指先に力を込め、糸の弾丸、糸弾を飛ばした。
ギィン!
甲高い音を響かせネロの腕が弾き上げられる。
見ると、先ほどまで倒れていたはずのアミミが目の前にいた。刀の峰で自分の腕を下からかち上げて、アルティスに伸ばされた弾丸の軌道を逸らしたようだ。糸弾は、少し離れた天井にぶつかり岩を抉った。
そのまま返す刀でネロの脇腹に刀を食い込ませる。腰の回転を利用してネロの体を強引に部屋の中央の方へと吹き飛ばした。
「ぐ、ふぅ」
体に纏った糸のおかげで両断は免れたが、それでも気闘法で強化されたアミミの力はネロの防御力を上回る。苦痛に顔を歪ませながら、糸を伸ばして強引に自分の体の勢いを止めた。
「ぅぐっ、やってくれたね、死にぞこないが!」
アミミが気づいたのは、ネロが自分の横を通り過ぎた時。壁や天井に叩きつけられたことで、途中から完全に意識を手放していた。その事実に、自分が情けなくなった。
未だ朦朧とする意識の中、ネロの向かう先を追う。その先にアルティスが、ゲロとカスを庇うように両手を広げていた。
アルティスには戦う力がない。それでも、決して敵わないと分かっていても、2人を護ろうとする意志がその姿から感じられた。
自分もこんな所で倒れている場合ではない。少しでも動いてアルティスを護らなければ。
しかしそんな思いとは裏腹に、体が言うことを聞かない。起き上がることすら叶わない。そんな自分の弱さを歯痒く思い、切れた口端から血が滴る。
次第にネロとアルティスの距離が縮まる。
ネロはまるでアルティスの気持ちを弄ぶかのように、背後で動けないゲロとカスへ攻撃を加えた。悲痛な表情を浮かべて何とかしようと行動するアルティス。その光景を目にし、腹の底から怒りが止めどなく溢れてくる。
全身どこか動かないか、片っ端から力を込める。右手、左手。右足、左足。指の先から髪の一本まで。しかし動かせるのは口と目ぐらいで、そして声を発することすらできない。ネロの注意を引くことすら、今のアミミにはできなかった。
奇しくも、それはネロの望む絶望の姿。しかし今ネロはアミミに一分の意識すら払っていない。それがよりアミミの絶望を強くした。
アルティスの肩からワシが飛び立つ。
その姿に心が騒めく。やめろと唇を動かす。声なき声を発する。しかし決して、その言葉は届かない。
一瞬、ワシはアミミの方へ視線を向けて、笑った気がした。次の瞬間、ワシの体が真っ二つに両断された。
アミミの心に深い空虚が去来する。
生まれてからずっと一緒にいた、まるで姉妹のような存在。何をするでも一緒で、修行が厳しく投げだしそうなときも、ワシはいつも側にいてくれた。声は伝わらなくとも、気持ちは伝わっていた。文字通り同じ景色を見ていた。
友であり、姉であり、母であり――――大切な家族だった。
ワシの体が地面へと落ち、未だ宙を舞う体がアミミの元へとやってくる。最期に大切な人に寄り添うように。
アミミの顔の側に、その体が落ち、横たわった。口元から血を吐き出し、アミミの頬にかかった。
ワシはその瞳をアミミへと向けていた。まるで姉が、妹をあやすように、優し気な瞳を向けていた。
アミミの頬を雫が伝う。それがワシの血と混じり、口端から口中へと流れていく。口の中に、ワシの血の味が広がった。
『ほら、まだ動けるでしょ?』
声ではない。想いが、まるで頭の中に直接語り掛けてくるかのような感情が、アミミに降ってきた。それが目の前のワシのものだと直ぐに気づく。不思議と、アミミの体が暖かくなり、力が戻ってきた。指が動く。足が動く。これなら、刀が振れる。
きっとワシが自分にくれた力。まだ戦えと、ワシがそう言っている。
(人使いの荒いお姉ちゃんでござるな)
涙を流しながら、心の中で愚痴を言う。その気持ちが伝わったのか、ワシが少し口を歪めた気がした。
動けるようになったとは言え、それでも体はボロボロだ。攻撃できたとしても、あと2、3回が限度。先ほどアルティスが不思議な光の壁で攻撃を弾いていた。もう一度、同じことができるとは限らない。
ネロが油断している今を置いて、勝機はない。
重い体にムチ打ち立ち上がると、トールから受け取っていた3本の回復薬の最期の1本を呷り、駆け出した。ネロの人差し指がアルティスの額に突き付けられ、その間に割って入る。
腕を切ったとしても弾丸を止められなければ意味はない。アミミは咄嗟に峰打ちで腕を跳ね上げ、人差し指の軌道をアルティスから逸らした。返す刀で居合をネロの体に叩き込む。
斬れないことは分かっている。今はただ距離を離せればそれでいい。強引に力でネロの体を持っていき、部屋の中央、四方に糸を伸ばしても最も距離のある場所へと弾き飛ばした。
ネロは床と天井に糸を飛ばして自分の体にかかった慣性を押し込める。勢いが止まったのはアミミの狙い通りの位置、この部屋の中央だった。
ネロが状況を理解し、アミミに糸弾を飛ばすより早く、アミミは腰だめに刀を構えた。居合の構え、放つは彼我の距離を無視した流派の秘奥。
しかしそれではネロに傷をつけられないことは実証済み。だからそれだけではない。もうひとつ、ネロの体に届きうる奥義を、先ほど届かなかった刃を、アミミは一刀のもとに撃ち放つ。
「彼我一刀・紅燕」
距離を跳躍し放たれたアミミの一刀は、ネロの立つ位置に紅い赤光を爆ぜさせた。
炎を纏った斬撃がネロの灰の糸を容易く切り裂き、その体に深々と突き刺さる。糸とともに皮膚、肉体を溶断し、筋肉の断裂の痛みを超えて焼夷の苦しみをもって貫いた。
遅れてネロが放った糸弾がアミミの二の腕と腿を貫く。
「うぁ」
アミミが自重を支えきれずその場に蹲る。
ネロは自分が切られたと気づくのに、然程時間はかからなかった。じくじくとした痛みが、焼けるような熱が体を駆け巡る。遅れて傷口から炎が爆ぜ、溢れ出た。
「ぐ、あぁぁぁぁぁ!!!」
ネロの体はあっという間に炎に包みこまれ、その場で転げまわった。劈くような叫び声がアミミの耳に届く。
「あ、アミミ……。大丈夫なの?」
我を取り戻したアルティスはボロボロになったアミミの元へ慌てて駆け寄った。
「大丈夫……ではないで、ござるな。もう動けないでござるよ」
「アミミ……」
ぎゅっとアミミに寄り添うと、その手を両の手で包み込む。そこから伝わる温もりで、不思議とアミミは体力が戻ってきたような気がした。
「ゲロ殿と、カス殿は?」
「うん。2人は何とか大丈夫」
話すだけでアミミが辛そうに顔を歪めるのに気づき、アルティスが優し気な声をかける。しかしアミミは依然、手に持つ刀に込める力を緩めることはない。その瞳は未だに炎に包まれのたうち回るネロへと注がれていた。
やがてネロの体の動きがゆっくりと、そしてぴたりと止まり、逆に炎は勢いを増して燃え続けた。暫く炎が爆ぜる音が室内に響き、直ぐに燃えるものが尽きたのか、炎が勢いをなくし一筋の煙となって消え失せた。後に残ったものは黒い塊。人の原型を留めておらず、丸々とした塊がそこにあるだけだった。
アミミの手の力が緩み、やがてその刀を地面に取り落とす。カシャンと刀が地面を跳ねた。
「勝った……のよ、ね?
「そう、で……ござるな……」
「アミミ……」
勝ったというのに、アミミの顔はどこか悲しげだった。
その気持ちはアルティスも同じだ。自分たちは無事だったとは言え、犠牲がなかったわけではない。アミミにとっては大事な存在。その命が奪われたのだ。
アルティスはそれ以上、言葉を掛けることができなかった。ただぎゅっと、両の掌に力を込めてアミミの手を包み込む。
そんな中がさりと、部屋の中央から音がした。
「ほんっと、嫌になるよね……」
燃え殻の中にある黒い球体が、するりと紐解かれた。中から現れた人影がさがさと燃えがらとなった灰をどかす。
まるで割れた卵から生まれたひなのように、ひとりの人間が立ち上がる。
「お、お主……」
そこにいたのは小柄な少女。腰まで伸びる長い髪に、くりんとした瞳、少女特有の可愛らしさを備えた容姿。美少女という形容が嘘にならない顔貌だ。しかし吊り上がった目元がむき出しの刃物のような鋭い雰囲気を漂わせている。そして何より特異なのは、銀にも見える白の髪にギラリと光る真紅の瞳、そしてつんと尖った長耳。
ネロは一糸まとわぬ姿でその場に佇んでいた。自分の姿に気づくと、周囲に辛うじて残ったぼろ切れを拾い上げ、その華奢な体に巻き付け覆う。
先ほど切り裂かれた胸の傷は糸で塞いだのか、一見しただけでは気づけないほどだ。しかし焼けた皮膚と僅かに付いた血が、確かにアミミに斬られたことを物語っていた。
「まさかここまで傷つけられるとはボクも思ってなかったよ。けど、もうイイや。もう楽しい時間はおしまい。ボクは傷つけるのは好きだけど、痛いのは死ぬほど嫌なんだ。だから――」
ネロは妖しげに紅い瞳を光らせると、口から牙を覗かせる。そして感情の籠らない平坦な口調で答えた。
「さっさと死ねよ、ムシケラども」
ネロくん実は女の子でしたねー。
まだ詳しくは明かしませんが、一応エルフちゃんです。ただ普通のエルフではありません。この姿の異様さが彼女の歪んだ性格に大きく関わっています。
そのうちどこかで理由とか過去について明かすかもしれません。




