疑惑
制服に着替えて教室に戻ると、生徒は誰ひとり戻ってきていなかった。
教卓で本を読んでいたモス先生がこちらを向いて驚いた顔をした。それはそうだ。もともと時間割では午前中いっぱい買い物に費やす予定なのだから。
「早かったんですね。それにひとりなんですか?」
『はい。ハンカチを縫いたかったので別行動にしたんです。』
「そうなんですか。ソーイングセットは持っていますか?」
『持っています。』
そうですか で会話は終わり、私は席に着いて仮縫いを始めた。この時間からだったら簡単な刺繍もできるかもしれない。先生とふたりきりなんて気まずい、私は逃げるように没頭した。
結果、出来上がってしまった。歪みなく丁寧に縫われた長持ちしそうなハンカチが。名前の頭文字と花まで刺繍できてしまった。これ以上は品を損なうため何も手出しできない。
時間を大いに使ったのにどうして誰も帰ってこないんだ?
今思い返せばもう4限終了のチャイムも鳴った、なにかトラブルに巻き込まれているのだろうか?気まずい、気まずい気まずい…。いっそここで会話スキルを披露しようかとも思う。
ソーイングセットや糸の切れ端を片付けていると、先生が急に傍に立った。さっきまで教卓にいたのに、まるで瞬間移動のようだ。あの夜のことが思い出され急に背筋が凍る。先生は隣の席に座った。
「とても上手にできましたね。」
『えっ、あっ、ありがとうございます』
「ところでミュリーさん、買い物後の集合場所を覚えていますか?」
にこやかなモス先生の問いに、私ははっと思い出す。
講堂に集合して、学園長の話を聞くんだった!
昼休みのうちの10分間を使って話を聞いて、それから休み時間だと学年主任のモス先生自身が話していたではないか!
既に昼休みが始まって5分が経過している。まずい、時間厳守を破ってしまった。もしかしたら進級できないかもしれない。
『忘れてました…!モス先生はどうして』
講堂へ行っていないんですか?
その言葉まで待たずに先生は笑った。
「はは、そうだろうと思いました。そんなに青い顔をしなくても大丈夫、単位を落としたりはしませんよ。街で暴れないように少し脅していただけですから。」
そう言って先生は私に近寄って背中をぽんぽんと叩いた。それが不思議と気持ちが悪くて、さっきの悪寒がまたやんわりと背中を撫ぜた。
…この男、ロリコン?
劣情を向けられている感じはしない、親切にしてもらっている。それでも何かがひっかかる。
「それに、私がうまく言っておきますから。一生懸命ハンカチを縫っていましたからね、特別ですよ?」
『はい、ありがとうございます。…あっ、私レイアさんとランチの約束をしていました、失礼します!』
とにかくこの場にいたくない。嘘の約束で私が立ち上がると、先生はにこやかな表情のまま椅子にぶつからないように避けた。
「楽しんでください。でも時間の確認は怠らないように。」
『はーい!』
精一杯の無邪気な児童を演じてみたが、通用しているかどうかはわからない。とにかく私は荷物を鞄にすべてぶち込んで足早に教室を去った。
じっとりとした視線を感じたが、後ろは振り向けなかった。
飛び込んだ食堂にはまだ1年生の姿はまばらだったが、席に着いて少し待つとレイアたちは来た。主にロザリーに先に帰ったことを責め立てられたがそれは聞き流す。思ったよりも慕われていて嬉しいが、私にレズの気はない。完全にヘテロだ。
5人で列に並び注文した昼食を受け取り、全員が席に着くのを待って私は切り出した。
『モス先生のことなんだけど、私あのひとはロリコンなんじゃないかと思うの。』
「ロリコン?」
『モス先生のことなんだけど、私あのひとは小児性愛者なんじゃないかと思うの。』
全員に不思議そうな顔をされてしまったため私は即座に言い直した。質問タイムは与えず続ける。墓穴を掘るのは勘弁だ。妄言の変な令嬢というレッテルは要らない。
『さっきまで私は教室でハンカチを縫っていたの。特別に講堂へ行き損ねたことを何とかするって言って背中を触ってきて…。なんだか怖くて。レイアとロザリーも気をつけてね。自分の身は自分で守るのよ。ダミアン様とレウスも、女の子みたいにかわいいんだから安心しちゃダメ!自分は大丈夫なんて不要な自信が命取りになるのよ!みんな私なんかよりずっと綺麗なんですもの!』
セクハラ行為かどうかは怪しいが、気をつけるに越したことはない。私はみんなのことが心配だった。どこの何の界隈でも傷物はぞんざいな扱いをうける。
私の言ったことが衝撃的だったのか、全員唖然としていた。
「私なんかより…?」
ダミアンが呟く。それに私は大きく頷いて返した。
レイアは驚くほどに大きなため息をついた。今度は全員呆れたような顔をしている。もしかしてそれだけ?と言いたいのだろうか。証拠不十分なのはわかるが本当に気をつけて欲しいのだ。
「はぁぁぁぁあ〜…はいはい分かったわよ、でも狙われてるのはミュリーなんだし、気をつけなさいよ?」
「ボクもそう思う。もちろん注意喚起は大切だけどさ。」
「ミュリー様に不快な思いをさせるなんて…!許せません!」
「そうだね。そいつは辞めさせようか。」
『「「「えっ?」」」』
声が揃う。ダミアンは爽やかな笑みで、さも何でもなさそうに言う。
「だって心配じゃない?ミュリー、気持ち悪いって思ったんでしょ?嫌だったんでしょ?ならそれでいいよね、辞めさせる理由。」
『ダミアン様、お言葉ですがまだ確定したわけではありませんので、』
「確定してからじゃ遅いよね?」
『しかし私ひとりのこんな意見で』
「その意見が誰かを救うかもしれないでしょ?」
話を遮られる。さっきもモス先生に遮られたなぁとどうでもいいことが頭に浮かんだ。
気のせいかもしれないのだ。心配が排除されるのはこの上なく嬉しいが、ボディタッチに性欲は感じられなかったのだ。本当は優しい先生なのかもしれない、そんな思いが捨てきれずにいた。
「すぐ辞めさせられるんならもう少し後でもいいんじゃないの?理由無く解雇するにしてもさ、ミュリーが納得出来るまで。」
俯いてしまった私を見て、レウスが何を思ったか弁護してくれた。レイア以外にあまり自発的に発言するイメージがないため意外だ。
ダミアンは思案顔で渋々頷いた。
「危なくなる前に、絶対に僕に相談してね?」
『もちろんです。ありがとうございます。』
私が小さく礼をすると、レイアは退屈そうな声で言う。
「すっかり冷めてしまったわ、早く食べましょうよ。」
『本当にごめんなさい、食べましょうか。』
私はレウスに感謝しつつフォークを手に取った。




