大切なもの
ゴチ!という鈍い音。遊の拳はハニエルの頭頂に振り下ろされた………いわゆる、げんこつである。
ハニエルはそのまま前のめりに倒れ、叩かれた頭を押さえて唸る。
「~~~っ!」
泣くのを必死に耐えようとしているが、その目の端には、大粒の涙が流れんと待機していた。
それと同時に、操られていた人々は正気に反り、自分の行動に首をかしげたが、すぐ各々の家へ戻った。屋根に登る際は梯子を使っていたようで、屋根にいた人も、混乱していたが問題なく帰路につく。
途中、遊たちに気づく者もいたが、天使が側にいたため近寄らず、そのまま歩き去っていった。
残されたのは遊、ハニエル、悪魔、そして気絶している結夢の四人。
結夢は、悪魔に投げ飛ばされた際に、既に気絶していたようだが、あの時の表情から察するに、落下時の恐怖が原因だろう。そしてそれは、結夢の心に大きな傷を残した証拠でもあった。
「グス……わ、私は天使、なんで…す…。あなたみたい、な……グス……悪魔に、負けるわけに……ズビッー(鼻をすする音)!」
「ふん!自惚れるな。貴様が負けたのは、俺ではなく人間だ。俺は何もしていない。」
ハニエルの言葉が言い終わらぬうちに、悪魔は不機嫌そうな顔で、スッパリと否定した。
「………マクア。」
遊は思わず悪魔の方を見た。自分は人間として勝てたのか?その答えをハッキリと口にしてくれたからだ。
せっかくだったので、『ま、口は出したけどね(物理的に)…。』という言葉は飲み込んだ。
今にも泣き出しそう(ほぼ泣いているが)なハニエルだったが、悪魔の言葉に納得がいかないのか、悪魔の方をキッ!と睨み付けて、遊を指さす。
「悪魔である貴方が何かしたんでしょう!でなきゃ、この人間に私の能力が効かない理由がわかりません!」
遊は、先程も同じ言葉を聞いたのを思い出した。『貴方に私の能力が効かない理由はわかりませんが』………確かにそう言われていたのだ。
だが、思い返してみるも、悪魔に何かをされた記憶がない。もちろん、気付かれずに何かをされた可能性も否定できないが。
しかし、何故か確信があった。マクアは何もしていない。俺は自らの力で打ち勝ったのだと。
「俺の言葉は変わらん。俺は何もしていない。」
遊の予想を裏付けるように、悪魔はそう告げた。しかし、ハニエルはまだ納得いかないようだ。
「そんなはずありません!私の能力は、『愛の隙間に入り込み、内側から支配する』のです!愛の隙間とは、"愛されたい"という気持ち………それが無い人間なんてありえません!」
「現に効いていないのだ。それが答えだろう。」
「だったらこの人間は、元から愛が欠如していると言うことですか!?」
その言葉を聞いた遊は目を見開く。そしてすぐ鋭い目つきとなり、奥歯に力を込めた。拳を握り、ワナワナと震えている。
「……やめろ。」
ひどく悲しそうな遊の声。下唇を噛み、怒りを必死に堪えている。しかし、興奮しているハニエルの耳には届かない。
「愛を感じず!愛を受け入れず!愛を認めず…!」
「やめろ…。」
遊はハニエルを睨み付ける。その言葉には、呪詛にも近い感情が含まれていた。しかし、またもハニエルの耳には届かなかった。
「誰からも愛を与えられなかったと言うことなんで─」
「やめろ!!!」
ついに遊は叫んだ。
ハニエルは驚き、体を縮込ませてしまう。自分の能力が通じない相手故か、その表情には怯えが含まれていた。
だが、そんな事は気にしていられない。それほどまでに遊は憤りを感じていたのだ。
その叫びは、言い当てられたからではない。その叫びは………遊の"最も大切なもの"を汚されたからである。
「ふざけんな…ふざけんなよ!……俺は愛を知っている!誰よりも、何よりも知っている!その力だって、尊さだって、喜びだって、悲しみだって……全部知ってるんだよ!……持ってないわけ無いだろ!認めないわけ無いだろ!与えられてないわけ無いだろ…!」
怯えた表情をしていたハニエルだったが、ひどく悲しそうな遊を見て胸が痛んだ。
この痛みは同情ではなく、明確な罪悪感。
きっと私は、彼の大切なものを汚したのだろう。そしてそれは──彼にとっての愛。
「ごめん……なさい…。」
ハニエルの口から出た言葉は謝罪だった。
所詮人間の事、殺そうとした相手の事……そう割りきってしまうのは簡単だ。しかし、そうしたらいけない、そうすれば後悔する気がしたのだ。
予想外の謝罪に、遊はハッと我に返った。
「貴方にとって、愛は掛け換えの無いものだと分かりました。それを軽視してしまい、本当にごめんなさい…。」
そう言ってうつむいてしまうハニエル。
少しの間を置いて、遊は優しく微笑えんだ。そしてハニエルの頭に手を置き、そっと撫でた。
「……ありがとう。ハニエル、お前は………俺の知っている天使とは違うんだな。」
俺にとっては、ついさっきまで命を狙われていた相手だったが、もうそんな事は忘れてしまった。
ただ嬉しかったのだ。初めてこんな純粋な、人間の事を思える天使に出会えて…。
空は既に暗く、街灯が眩しく感じる。
遊は結夢をおぶり、右にハニエル、左に悪魔を連れて歩いていた。
「その先のT字路を左です。」
ハニエルは正面に見えるT字路を指差しそう言った。
遊が向かっているのは結夢の家。ハニエルはやはりと言うか、全く力がない。故に結夢を運ぶことは不可能だった。さすがに気絶したまま放っておくわけにもいかず、ハニエルの案内の下、遊が送っていくことになったのだ。
「……志神。」
T字路を左折したところで、おぶっていた結夢が遊の名前を呼んだ。
「気がついたか…。大変だったんだぜ?お前………急に転んで、頭からイッたかと思ったら気絶しちまったんだから。」
遊はとんでもない出任せを言った。
結夢を家に送る前、ハニエルと相談していたのだ。ショックによる気絶は、心に大きな傷を残すことになる。それを少しでも和らげるため、その時の記憶を無かったことにすることにしよう…と。
確かに支配されていた間の記憶はある。それは自分から行ったとも思っている。しかし、その理由までは明確でないならば、気絶したことにより、全て悪い夢だと思わせようと考えたのだ。
嘘はつけないため、その気絶した理由は遊に任せたハニエルだったが、正直、任せた自分を呪いたくなった(ついでに遊も)。
「そっか……迷惑掛けたんだな…。」
ハニエルの心配とは裏腹に、結夢は疑問を持った様子はない。
「ごめん志神。もう大丈夫だから、ここで下ろしてくれ。」
「ん、あぁ…分かった。」
遊は結夢の希望通りそっと下ろした。
振り向いて遊は結夢と顔を合わす。街灯が逆光になってよく見えないが、結夢の頬は薄く朱色に染まっている。
さすがに高三にもなって、男子におぶられるのは恥ずかしいのだろう。そう納得した遊は、それ以上気にするのをやめた。
「今日はごめんな…色々迷惑掛けて。」
「大丈夫だよ。じゃ、俺たちはこれで。」
踵を返し、来た道を戻る遊と悪魔。それに手を振り、結夢はそっと呟く。
「ありがとう。志神、マクア…。」
遊たちが家に到着したのは、20時40分。とにかく足を酷使した遊は、家に入ると同時に、玄関にうつ伏せで倒れた。
「疲れた~!過去最高に疲れたぞ~!」
正直このまま眠ってしまいたいと考えるほど、疲労はピークに達していた。
「だらしない奴だ。俺を見てみろ…ピンピンしているぞ?」
「飛んでるやつのセリフじゃねぇな…。」
「何を言っている。貴様も飛べばいいだろ?」
「ごめんなさいねぇ!こちらと舞○術はまだ習得してないもので!」
悪魔の軽口に、残り少ない体力を使ってツッコミを入れた。遊はそのイライラで得たエネルギーを、どうにか体の機動力に変換し、その場を立ち上がる。足に十分に力が入らないため、壁に手をつきリビングまで移動した。
「っはぁ~!」
リビングのソファに寝転がる。そこまでの移動が限界だった。疲れで飯も喉を通らないだろう。そして何よりも寝たい。
目をつむると、すぐに睡魔はやって来た。
「仕方の無い奴だ………今日の褒美に、少しだけ助けてやろう。」
悪魔が何か言っているが、遊の意識はほとんど沈み掛かっている。最後に見たのは、悪魔が遊の足に触れているところだった。
(何だ………すごく心地好い感覚が…。)
そして、そのまま遊は眠りに落ちた。




