破壊の天使
「くそ!くそ!くそ!何だって栞が…!」
悪態をつきながら夜の町を駆ける。体力に自信のある遊ではあるが、ここ十分程を全力で走っている為、息が上がり心臓は悲鳴を上げていた。しかし、足を止める訳にはいかない。栞の無事を願いながら、目的地まで直走る。
『芦谷 栞を誘拐した。』
その声は、電話越しでも厳格さを彷彿とさせる女性の声であった。
似つかわしくない内容と話し方に、遊の思考は一瞬固まり、聞こえた筈の言葉の理解を出来ないでいる。
「…………は?えっと、何を──」
『場所は天隋士高校グラウンド。』
質問に答えることもなく、ブツッと短いノイズ音を立て、通話が途切れた。
「あ、おい!もしもし!?もしもし!?」
只それだけ。それだけの内容ではあったが、危機感を持つには充分すぎる。イタズラの考えは無い。そんな事をする人間など、遊の周りには存在しないからだ。
息を荒げ、残り僅かな距離の間、時間にすれば五分と無いだろう。その間で誘拐犯の像を固める為、酸素の不十分な頭をどうにか回転させる。
不可解な点は四点。
一点目、誘拐犯からの要求が無かった事。誘拐犯は栞の名前と場所しか示さなかった。金品等の明確な要求がなかったのだ。そう…………"明確"な要求は。
要求されないまでも、相手の目的は分かっていた。それは遊が指定場所に来る事である。ただ呼ぶだけでは行かない選択肢を与えてしまう。だからこそ栞を誘拐し、膝詰めにしたのだ。
二点目、栞と遊が友好的であることを知っていた事。誘拐に当たって、要求を宛てる人物と所縁の無い者を誘拐しても、要求を呑む確率は絶望的だろう。そもそも、それこそイタズラと一蹴されてしまう。踏まえて、栞を誘拐したのは偶然ではないと考えるべきである。
しかしこの点に関しては、候補が上がりすぎることが難点。中学から今に至り、関係を知っている又は察する人間は多いだろう。この条件は大した手掛かりにはならない。
三点目、注意換気が無かったこと。本来ならば警察への連絡を制限したり、一人で来るよう伝えたり等、何かしらの注意換気をされるのが一般的だろう。誘拐犯が忘れていた可能性も考えられるが、声から分かる落ち着き様から、それは無いと判断せざるを得なかった。確証とする要素としては皆無だが、忘れたとはどうしても思えなかったのだ。それは既に、犯人像が凡そ確立しているからかもしれない。
四点目、電話番号を知っていた事。これは調べれば簡単に手に入るもの………ではない。
個人の情報保管は昔と変わらぬものの、それを扱う人間の保全意識が非常に高くなっていた。どれだけ金を積まれようと、天界へのフリーパスは買うことが出来ないのだ。目先の金よりも天界へ行く確立の方が遥かに大切。それはある意味、恐怖心から来ていると言っても過言ではない。
皆が皆、天界を望むと同時に思う事がある。それは、天界へ行けなかった場合"何処へ"いくのか。過去幾度と無く天使へ質問をぶつけたが、「答えられません」の一点張り。多くの憶測が飛び交うものの、やはりと言うか、当然、地獄が一番有力な候補だった。
地獄で行われる拷問が囁かれ、それは酷く凄惨なものばかり。形を持たない曖昧な恐怖に上限など存在せず、徒に恐怖を煽る事は人間の性でもある。故に地獄へ行きたくない一心で、バレなければ良いと言った犯罪も行われないのだ。
以上の四点を上げ、主犯である者は誰かを想像するのは易い。遊が来る事を望み、栞との関係を知り、警察を呼ばれたとて関係なく、個人の電話番号等を手に入れることの出来る者…………"天使"。
「着いた!」
校門まで辿り着いた遊は、勢いをそのままに、閉鎖されている門の上端を掴み、体全体を一気に門の内側へと投げ込んだ。
着地を考えず、投げ出される形で地面へと転がった遊は、そのまま衝撃を分散させた後、直ぐ立ち上がり再度走り出す。目的のグラウンドまで残り三百メートル。
その間悪魔は忙しなく目を動かしていた。いつかのラグエルの時の様に、悪魔が遊を運べばここまであっという間の到着だっただろう。そうしなかったのは、これから起こると予想される天使との闘いのにおいて、武器となるものを探していた為だ。そしてもう一つ、ザドキエルの時に立てられた"仮説"を立証する為に。
ようやくグラウンドへ到着した遊は、その場に立ち止まり、栞や天使の姿を探しながらも、堪らず肩で息をする。酸素が足りず、視界は僅かに暈けている為、今の時間帯ではマトモに探す事は叶わなかった。
「はぁはぁ……マクア、悪い。はぁ…周りに誰か、いないか、はぁ……見てくれないか?」
自身の目では確認が難しい事項を、近くにいるであろう悪魔へ託す。しかし、遊の予想に反し悪魔からの返事は無い。それもその筈。悪魔は既に、先の四十メートルの距離に目標を捉え、いつでも動けるよう全神経を集中させているからだ。
遊の予想は当たっていた。悪魔の捉えた目標は天使。しかし、予想外の天使だった。
髪を後ろで高く束ね、顕になる瞳は、射抜かれたら竦んでしまいそうな程、攻撃的な輝きを秘めている。腕、胴、脚にはそれぞれ甲冑を装備しており、右手には鞭を握り、左手は何も持たないものの、左手の甲冑には謎の紋様が刻まれていた。
その天使も悪魔の姿を捉えており、瞳孔の開いた光の無い目で悪魔を見据える。感情の無い機械の様な天使は、先程から体をピクリとも動かさず、視線だけ悪魔にピントを合わせ動かしていた。
暫く息を荒げていた遊も、落ち着きを取り戻し天使を視認するに至る。天使は未だ遊を見ず、悪魔にだけ意識を注ぐ。それは遊にとって幸いだった。視線が交わっていないにも拘わらず、全身が総毛立ち、酷い焦燥感が襲う。もし見据えられたなら、金縛りの様に動けなくなっていただろう。それだけで、今までの天使と一線を画す事が感じ取れた。
「ふん、相も変わらず嫌な目をしている。どこまでも己を殺したような目だ。」
「マクア……あの天使って…。」
「容姿は聞いていたが、見るのは初めてか?奴の名はクシエル。秩序を乱す者の排除を勤める、破壊の天使だ。」
言葉の終わりを合図としたかの様に、クシエルは右手に持つ鞭の柄を左手で掴み、引き抜く。
左手を通過した途端、鞭身は燃え盛る炎に包まれた。それは全てを焼き尽くさんとする灼熱の炎。無感情なクシエルに反して、今にも暴れんと燃え盛る炎は、離れた位置からでも空気を焼く音が響き、触れただけ、否、近寄っただけでも無事では済まない事は容易に想像できた。
「人間……おふざけでも近寄ろうなど考えるなよ?」
「はは、そこは問題ないぜ。今にも逃げ出したいくらいだからな。」
引き吊った笑みで冗談を返す。幾分か余裕があるのかと思えるが、それは全くの逆。余裕を持った様を装わなければ、自身をそうして偽らなければ、簡単に押し潰されてしまいそうなのだ。一度恐怖に覆われたなら、果たして再起は不可能だろう。空元気だろうと虚勢を張らずにはいられなかった。
「人間、俺から絶対に離れるな。アレはラグエルの放った光弾とは比べ物にならん。生身の人間が一瞬でも触れたならば、文字通り消滅だろう。」
「分かった。マクアに守ってもらいながら、俺は武器になりそうな物を探せば良いんだな?」
「その通りだ。出来れば遠距離から攻撃できるものが望ましい。」
「遠距離か…。」
ラグエルの時の様に、悪魔が武器を飲み込み変型させるのだろう。しかし、飽く迄"変型"。刃物なら剣、鈍器なら鎚や斧。全く別のものへ変えることは恐らく出来ない。だとしたら、遠くへ飛ばす機能、又は概念を持った物でなければならない。
(ウチの高校に弓道部とかは無いし、ボールなんかじゃ武器として扱えるか分からない。飛ばす……ぶつける……投げる──)
「来るぞ!人間!」
「!?」
思考の世界へ没頭していた遊の意識を、悪魔の一声が即座に呼び戻した。瞬間、鉄板に水を落とした様な音が響き、遅れて熱波が遊を襲う。クシエルの鞭は長さと言う概念を蹴り飛ばし、遊たちの元まで突如として伸びたのだ。
威嚇だったのか、その攻撃は当たらずに済んだが、襲う熱波は言葉の通りでは無く、文字通りのもの。全身を火に当てられた痛みが走り、堪らず膝を付く。幸いにも痛みは一瞬で解放されたが、反射的に目と口を閉じていなかったら、水分を持っていかれていただろう。
「ぁ──かっは…!」
「大丈夫か人間!辛いだろうが今は立て!立って走れ!」
これまで聞いた事が無い悪魔の切羽詰まった声。その直後、又も強烈な蒸発音が響き、熱波が広がった。
「くっ!おぉ…!」
苦悶の声が滲み出る。しかしそれは、遊ではなく悪魔の声。襲い掛かる灼熱の鞭を、遊を守る為正面から庇ったのだ。弾いてしまえば、先程と同じように熱波が遊を焼くだろう。そうさせない為にも悪魔は正面から受ける必要があった。
「マクア!」
「気にするな!走れ!見つけろ!それが貴様に出来る唯一の事だ!」
「…………っ!」
遊の心配をはね除け、悪魔はクシエルから目を逸らさない。遊を守る事が、今悪魔の唯一出来る事。明らかに負担が釣り合っていないが、だからと言って遊にはどうすることも出来ない。示された事、武器を探す為遊は走り出した。
(ちくしょう!ちくしょう!また俺はこんな事しか出来ねぇのかよ!)
己の無力さが恨めしい。仕方ない事だとしても、そう割り切れるほど遊は非情にはなれなかった。ラグエルの時も、ハニエルの時も、ザドキエルの時も、必ず誰かの助けを得て切り抜けている。後悔が邪魔をして考えが纏まらない。焦りは更なる焦りを呼び、宛もなく校舎に向かって走るだけ。
(考えるな!今は武器だ!遠距離、射つ…スターターピストル……はダメだ!校舎の体育館教官室は遠すぎる…!近場、近く、近く……早くしないとマクアが…!)
煩雑に巡る遊の思考を、突如として衝撃音と瓦解音が吹き飛ばした。咄嗟に音の方へ顔を向けると、近場にあった体育倉庫が大破して砂煙を上げていた。
何故そんな事になっているのか、訳も分からず立ち止まっていると、風を切る音が側面から響く。それはクシエルの鞭。撓り、うねり、凶悪な蛇の様になって遊を襲う。明らかな死の切迫。体は動かないのに対し、襲い掛かる鞭は妙にゆっくりと見えた。体が、脳が、本能が、『死』を受け入れたからだろうか。それとも『生』を諦めたからだろうか。意味も無く緩やかに見える鞭と、遊の最期を刈り取らんとしている状態はまるで他人事の様だ。
目前まで迫った鞭。動かない体。姿の見えない悪魔。そのどれもが絶望を運び届けようとしている。
(ぁ………終わ──)
「避けろ人間!」
「っ!?」
悪魔の一喝が響く。切り離されていた精神は体に還り、考えるよりも先に大きく右に跳んだ。直後遊のいた場所を灼熱の鞭が削り、否、溶かし抉り、辺りに粉塵を撒き散らした。
目前まで迫っていた筈の鞭を回避できたのは幸運か奇跡か、答えを出す間もなく遊は立ち上がり、悪魔の声が響いた体育倉庫へ走り出す。
「マクア!ありがとう!」
「何故礼を言われているか分からんが、声が出ると言う事は生きているのだな!」
晴れかかった砂ぼこりを再度起こし、悪魔は大破した体育倉庫から姿を現した。お互いの無事に安堵したがそれも束の間。先程聞いた風切り音が通り、遊と悪魔の間に叩きつけられる。
攻撃を目的とするより、二名を別つ事を目的とされたであろうそれは、地面を深く抉り、強力な風圧によって吹き飛ばす。
「く、ぅ…!」
「うわっ!?」
悪魔は耐え凌いだが、遊は堪らず二メートル程悪魔とは反対方向に飛ばされた。砂煙や抉られた地面が熱を吸収してくれた為、火傷等無い事がせめてもの救いだろう。
目的を達したクシエルの鞭は、次に目標を捕捉する。一度振り上げられた鞭は、クシエルの手の動きと僅かなタイムラグを持って遊に襲い掛かる。
「っく!」
降り下ろされた速度は、一般人、例え格闘や武道に精通した達人でさえも、肉眼で捉える事の出来ないものだった。当然遊が避けれる筈もない。
「うっぐ…ぅ!?」
我武者羅に跳んでどうにか直撃を避ける。完全に避けきるには至らず、灼熱の鞭は僅かに遊の右足を撫でた。鞭身は鋭い刃の様になっており、触れた場所に裂傷を起こしたが、熱に焼かれ直ぐ止血される。加えて熱波により右足全体を焼かれ、軽度の皮膚の爛れを引き起こした。
(痛え……痛え…!少し触れただけでこの痛みかよ!)
後悔が押し寄せる。こんな苦しいとは、こんな辛いとは思わなかった。憤りと後悔が身を焼く。しかしそれは、弱音による後悔ではない。
(……何で…どうして……どうしてこんな苦痛をマクアに受けさせてんだよ俺は!)
「おおおぉぉぉああ!!!」
力を入れるだけで、風が吹くだけで、空気が触れるだけで激痛が走る。たが、それがどうした。そう言わんばかりに、悲鳴を上げる体を無理矢理立たせ、走り出す。時に大きく振れ、時に小さく振れ、時に直線を全力疾走。目標を簡単に捉えさせない為にも、変則的な移動を繰り返す。
その間に周囲に目を配る。クシエルの方へは一切目を向けず、武器となる物を探すために全神経を注ぐ。すると、悪魔が衝突したことにより破壊された体育倉庫に、あるものが転がっていた。
それはスターターピストル……ではない。それは凡そ武器と呼ぶにも、遠距離攻撃にも適しているとは言えない物。しかし、概念としては武器であり、遠距離においても効果を発揮するものである。
遊は目標を定めると、蛇行移動を止め、直線の全力疾走へと切り換えた。その距離約七十メートル。いくら直線に切り換えたとて、先程までは蛇行して移動をしていたのだ。一撃目から捉えられる事はないだろう。そう考えた遊の予想は的中した。
一撃目、左側から地面を抉る音。当たりはしないものの、熱波によって露出している腕が焼かれる。
二撃目、右側から地面を抉る音。抉った際に砕けた岩が頭部へ直撃し、意識を持っていかれそうになる。
三撃目、遊の直ぐ後ろから地面を抉る音。威力を重視したであろう攻撃の風圧により体が浮くが、どうにか耐える。
次はもう外さないだろう。遊の命を狂わず狙い、確実に刈り取る。背後からは熱気、そして殺気が立ち上っている。熱気に関しては、遊の体が上気しているからかもしれない。兎に角ここが山。体の苦痛などとうに忘れた。ランナーズハイと言うのもか。加速、加速、振り向かず、恐怖を圧し殺し、一点を見て、加速。
走る。残り十五メートル。
走る。残り十メートル。
走る。残り五メートル。
間に合う。武器を取って横に跳べば、丁度鞭を避けるタイミングに当たるだろう。遊はそれに手を伸ばす。取ったら横へ、取ったら跳べ。頭の中では次の行動を命令する。一歩、二歩、残り二メートル。
「──っ!?」
突如、体が意思とは無関係にその動力を停止させた。ここに来て限界、それさえも越えて酷使しすぎたのだ。受け身もとれず、慣性により目標物まで滑り込む。咄嗟にそれを掴んだものの、その後はもう絶望的なまでにどうしようも無い。
背後では何度も聞いた風を切る音。今の遊には死神の鎌が降り下ろされた様に聞こえるだろう。
「ごめん……マクア。」
最後に出た言葉が謝罪とは、何とも情けないことではあったが、それは本心である。結局最後まで助けられ、結局最後で達する事はできなかった。そして、諦めの言葉。
「諦めるには早いぞ!人間!!!」
物凄い衝撃音が轟く。その後に熱による蒸発音。蒸発音は一時的ではなく、鳴り続けている。つまり、灼熱の鞭に触れ続け、焼かれ続けているのだ。
「マクア!?」
間一髪遊の間に割って入った悪魔は、クシエルの一撃を受け、驚く事に手で鞭を掴んでいた。追撃をさせない為ではあるが、いくら悪魔と言えど相当に答えるのか、口元は苦痛に歪んでいる。
「俺の事はいい!貴様の行動からするに、武器となる物を見つけたのだろう!?ならば渡せ!流石の俺でも長くは持たん!」
怒号にも似た悪魔の指示に、遊は手に取ったそれを、残りの力を振り絞って投げつける
それの長さは三メートル近い。両端が尖り、空気抵抗を減らすために洗練されたシンプルなフォルム。現代では武器として使用はされておらず、然れど過去には武器として使用されていた。本来は刺突用であり、物語と現在では投擲用として用いられる。
それの正体は"槍"。悪魔は投擲された槍を視野に入れると、つかんだ鞭をそのままに、ボロボロの衣服で先端から飲み込む。明らかに槍の方が悪魔より丈があるのだが、飲み込まれた端から、異空間に飛ばされたかの様に衣服の中に収まってゆく。
「ついでだ。天使……貴様の炎ももらうとしよう。」
苦痛に歪めていた口元は、いつしか笑みに変わっていた。鞭を掴んでいた手を離すと、鞭は即座にクシエルの手元に戻ったが、悪魔の裾には、引火したであろう炎が僅かに残っていた。裾ごと、体ごと衣服の中へ潜り込み、形を不安定に変えていく。
飲み込んだ槍と同じ長さに変型し、柄を地面に突き立てる。まだ布は剥がれていない。しかし、それは遊に「掴め」と命令している様であった。
「……何だ、よ。こっちとら限界だってのに…。」
悪態をつきながらも地べたを這って手を伸ばす。掴んだ途端布は腕に巻き付き、肩までを被った。何処からともなく声が聞こえる。頭に直接響く声。
「さあ行くぞ人間。あの天使の目に物を見せてやれ。」




