爪弾き
「おはよう結夢。」
「おっす紫野月。」
「おは野月~。」
「おはよう紫野。」
「おはよーさん結夢。」
「おはようございます結夢先輩!」
教室へ入った途端挨拶の嵐。しっかりと、凛華に潜んだハニエルは結夢の教室まで来ていた。何かしら行動が起こしやすいからだろう。又は、何かしら行動を起こすからかも知れない。そんな事を考えながらも、クラスメイトとの挨拶はこなしていく。嬉しくないと言ったら嘘になるが、これが虚像であると思うと酷く虚しい。それでも挨拶は返すもの。結夢は律儀に一人一人へ挨拶を返した。
席へ着けば、クラスメイトの雨逆 利栖葉が寄って結夢に話しかける。
「結夢~。見て見て~。」
「おぉ、可愛いネックレスだな。」
「駅前のブティックで買ったんだ~。」
交わす、取り留めの無い会話。まさに日常である。いや……日常で"あった"。
天召を行った結夢には二度と戻ってこない日常。理解しているからこそ、悲しみが心にポッカリと大きな穴を空ける。そこに雪崩れ込むは、愉悦と言う名の毒。仮想世界を肯定してしまう甘い囁き。それは体を巡り内側から優しく蝕んでいく。
「そうだ!今度結夢も一緒に行こうよ!」
「えぇ~私はちょっと。」
「遠慮しないの。結夢はもうちょっとオシャレしなさい。」
「うぅ……痛いところを…。」
「あ~オシャレした結夢は絶対可愛いだろうな~。私見たいな~。」
「や、止めろよ恥ずかしいな…。」
楽しい。もう手に入らない筈の日常が、こうも近くに有る。確かに感じられる。何とも言えない多幸感。にやけ顔で迷う素振りをしていると、利栖葉は結夢にそっと耳打ちをする。
「ほら、志神に良いとこ見せないと。」
「っ!?」
瞬間、結夢は雷にでも打たれた様な衝撃を受けた。それと同時に、多大な後悔の波が押し寄せる。自分は何をやっているのだと。何を考えているのだと。自責の念は、暗く結夢の心を塗りつぶすが、反して今の状況を明確にさせた。
結夢へ遊関連の事柄を吊るせば、時間稼ぎが出来るだろうと踏んだザドキエル。その為、利栖葉と言う駒を使い、そんな発言をさせたのだ。勿論、実際はそうはいかない。
結夢は暫しの沈黙を以て利栖葉との会話を中断する。そして、こちらの様子を眺めていた遊へ笑顔を向けた。自責の念は、結夢の笑顔を引き吊らせたりはせず、寧ろ怖いくらいの無邪気さを作り上げた。
「何やってんだよ志神ぃ。一緒に話でもしようぜ?」
遊を巻き込んでしまえば、決意の揺らぎは極力抑えられるだろう。そう考えての発言だったが、遊は困った様な笑みを浮かべ首を横に振った。正直遊を含めての会話も楽しみにいていた部分があり、結夢は表面上ではなく、本心から残念そうな顔を浮かべた。
「なんだよ志神……そんな気にしなくてもいいのに…。」
「いえいえ、あれは結夢先輩の事を思ってですよ。」
「ちょっと待て。」
来た。前言撤回矢のごとし。話に交ざる気になったのかと期待したが、遊は凛華を見て言っている。どうやら違うようだ。結夢は内心残念ながらも、当初の目的は果たせる事に安堵した。
「お、やっぱり話をする気になったか?」
「遠慮しておきながら、すぐ手のひらを返すなんて浅ましい人ですね。」
「おいこら後輩。どうしてここにいる?」
笑顔でいる結夢とは反対に、遊は凛華に対して喧嘩腰。冷静に考えれば、一年生がここにいるのはおかしいだろう。それに加え、先程の出来事と今の発言で、あまり心象も良くない。
「このブ男が…よくそんな事を聞けましたね?」
「どういうこ………おい、お前今人のことブ男って言ったか?」
恐らくハニエルが操作しているのではなく、基本的には記憶に準じて凛華を動かしているのだろう。男に対する凛華の口の悪さや雰囲気が、絶望的にまでそのままだ。
「そんなに聞きたいなら教えてあげます。」
「無視か?無視なのか?」
今、明らかにこの場は凛華に支配されている。皆が凛華へ視線を送り、皆が凛華の言葉を聞く。この状況は明らかに繋ぎ。次の言葉によって、何か大きな事が起こる繋ぎなのだ。それは結夢も理解していた。だからこそ、いつでも動けるよう神経を集中させる。
「私がここにいる理由………それは、先輩との関係を終わらせるために決まってるじゃないですか!」
その言葉をキリに、空気がガラリと変わった。糸を張る様な締め付けられる緊張感。その後に漂う明確な殺気。クラスメイトの男子は、鋭い目付きでゾンビの如くゆらりゆらりと近づく。
「は、ははは………どうしたんだよ皆?」
両手を控え目に突き出し、引きつった笑みを浮かべながらそう言った遊。クラスメイトは誰一人答えることはなく、一歩、また一歩と距離を詰めていく。
結夢の記憶を探り、作り上げた展開が"これ"。漫画か何かを模したのだろう。端的にいってベタだ。しかし、だからこそ分かりやすい。これは追いかけられる展開だ。結夢は理解すると同時に遊の手をとった。
「何かよく分からんが、逃げるぞ志神!」
教室を飛び出してからは、階段を上って下りての繰返し。休む間もなく直走る。隠れてなどいられない。しかし、ノンストップで走り続けているせいか、遊の息は上がりつつあった。反面、結夢は仮想世界の特性を利用し、体力の増強を図っていた為十分な余裕を残している。
「紫野つ──」
「あっはっは!楽しいな志神ぃ!」
遊の心配を遮るように笑顔を向けた。それは作り笑いだったのか、それとも本心からだったのか、結夢自身も定かでは無い。そんな事を考えるよりも、今は逃げる事が大切である。ハニエルは表面上、ザドキエルに協力している体を装わなければならない。だからこそ、捕獲できる場面では捕獲するだろう。結夢は握っている遊の手へ力を込め、更に加速をする。
「うおっ!?」
作戦の詳細など知らされていない。それはハニエルも同じ。行き当たりばったりの作戦。どうすれば成功なのか、何をすれば終わりなのか、全く先が見えない状況であったが、結夢の笑顔は崩れなかった。
どれだけ絶望的であったとしても、仮想世界で起こっている出来事は二度と味わえない喧騒なのだ。不謹慎と言われても否定は出来ない。しかし、結夢は自らの気持ちに嘘をつく事も出来なかった。楽しいと言う気持ちは揺るぎ無い。例え…………前後挟み撃ちの絶望的状況だとしても。
「志神ぃ!前も後ろも挟み撃ちだ!」
寄り、詰め、迫る人。走り続けたここは渡り廊下の四階。当然教室が有る筈も無く、精々窓があるだけ。絶体絶命万事休す。遊に至っては、諦めたのか悲しそうな笑顔を浮かべていた。
(…………やるしかないか。)
結夢は思わず震える体を抑えつけ、すぐ側にある窓を見据える。遊の手を痛いくらいに握り締め、自身を鼓舞する様に叫ぶ。
「何してんだよ!"跳ぶ"ぞ!」
「え?……………ふぁっ!?」
遊の返事など聞かず、決心が鈍る前に窓に足を掛け飛び出した。完全に虚を突かれた遊は踏ん張る間さえ無く、引きずられる様に同じく窓から飛び出した。
「くそったれええぇぇぇ!!!」
結夢が何故窓から飛び降りると言う無謀な事に挑戦したのか。それは、ハニエルが言っていた仮想世界から直ぐに脱出する方法に関係している。
「もし……もしも直ぐに仮想世界から脱出したい場合は、一つだけ方法があります。」
「方法?でも、そう言うのは決まって条件が厳しいんだろ?」
「いえ、条件はありません。方法は簡単です。」
「なんだそれ。そんな簡単なら、さっさとやっちまえば良いだろ。」
「それはそうなのですが…。」
「……………………。」
「それは…………この仮想世界で"死ぬ"ことです。」
「なっ!?」
「仮想世界とは所詮夢。意識を取り込み隔離しているだけなのです。だからこそ、その意識を殺してしまえば目が覚めるのです。」
「ここで死んでも現実には影響は出ないのか?」
「現実で死ぬ事はありませんが、記憶は残されます。どれだけの心的外傷を残すかは個人に寄りますが。」
「そっか……出来るだけやりたくないけど、もしもの時はやるしかないよな…。」
「結夢……私は心配です。あんな事をしておいて言える立場ではありませんが、私は志神遊よりも貴女の方が大切なのです。」
「ハル…………ありがとうな。」
落下運動が起こる。全く抗えない自然の力。最近味わった恐怖が奥から沸き上がった。ハニエルの心配とはこの事を言っていたのだろう。死ぬと言っても方法は様々。しかし、簡単で道具も必要ないとなると、飛び下りが最有力候補。それを分かっていたからこそ、自身の行いを持ち出した上で言っていたのだ。
(ごめんなハル。それでも私は志神を助けたい。)
窓を飛び出してしまえば勇気はもう不要。それを押し退け競り上がる恐怖。結夢の手は自然と震えてしまう。
コワイ。こわい。怖い。恐い。落ちるまでの時間が酷く長く感じられる。心拍数は上がり、呼吸が儘ならない。決意はした筈だったが、もう必要無いと分かると後悔が顔を出す。堪らず目に涙が浮かんだ。
「……バカ野郎!」
遊の叫び声。明らかに結夢へ向けた言葉。突然の叫び声は、結夢を恐怖から引き上げる力を持っていた。結夢の腕を引き、庇う様に胸に抱き込む。それだけで大きな安心感に包まれる。しかし、この先待っているのは死。それだけは免れない…………筈だった。
突如遊の背中を伝い、バキバキと枝の折れる音が響く。そして土袋でも落とした様な音。それは、柔らかい何かに落ちた裏返しでもあった。
「あ、あれ………無事だ。」
遊の声を聞いて無事である事に安堵する。目的は失敗したが、それで良かったのだと思えた。結夢は恐怖で閉じていた目を開こうと………したが出来なかった。目だけでは無い。体もピクリとも動かないのだ。何か見えない力に押さえ付けられている感覚。勿論考えなくとも分かってはいるが。
「っ!紫野月!おい紫野月!目を開けてくれ!」
(ごめんな志神。今はハルに止められてんだ。)
目的は不明だが、ハニエルによって体が動かなくなっている。仕方の無い事なのだが、必死に声を掛ける遊へ後ろめたさを感じ、心の中で謝罪をした。
そんな事は露知らず、ショックによる気絶の可能性が高いと考えた遊は、結夢の肩を揺すり、呼び掛ける………が、当たり前のように返事は無い。次に感覚を刺激しようと考え、頬を軽くタップする。
「……いっ…。」
「………………え?」
ほほを伝う小さな痛み。つい声が漏れてしまった。遊は不信感を抱きながら再度結夢の頬をタップする。今回は少し強めに。
「痛っ!…………。」
「…………………………。」
先程よりも強い痛みに、結夢は一瞬顔をしかめた。その後平静を装おうとも、どうもニヤけてしまう。そこでやっと体が動く事に気付いた。一方、ニヤけ面を見ていた遊の不信感は確信に。ため息を吐いた後、黙って手を思い切り振りかぶる。
「うわ~!ストップストーップ!」
「やっぱり起きてたのかよ…。」
「……えへ?」
事情を言えない結夢はイタズラな笑みでどうにか誤魔化す。そもそも、どうしてハニエルが体を動けなくしたのか見当がつかない。が、その理由は直ぐに明かされる事となる。
他愛ないやり取りをしていた結夢の耳に、幾つもの足音が聞こえた。どうやら追っ手が来たようだ。
「隠れるぞ志神!」
遊の手を引き木の裏へ。二人の姿が隠れる正にタッチの差で、追っ手が姿を現した。先頭には凛華。その後ろには、整斉とした列を作る軍隊のようなクラスメイト達。一行は凛華のハンドシグナルを合図に、遊と結夢の隠れている木の前に止まった。
「A班はそのまま前進!B班は左折して昇降口方面へ!C班は私と一緒に校内を捜索する!七分後に現在地に再度集合する事!では、別れ!」
二個小隊はそれぞれ指示の出された場所へ向かう。残る一個小隊がC班なのだろう。凛華は直ぐには移動せず、怨嗟の表情で呟く。
「あのブ男、絶対見つけますよ………かくれんぼは終わらせないと。」
それは遊に向けての言葉。しかし、必ずしも悪意がある訳では無い。ザドキエルの能力を聞いていた結夢は、これはメッセージなのだと理解するのに時間は掛からなかった。そして、ハニエルが結夢を動けなくした理由も。
「いや~、久留ってカリスマ持ってんだな~。将来が楽しみだ。」
「将来は楽しみかもしれないけど、俺は今が不安でたまんねーよ。」
軽口を叩きながらも冷静に状況を整理する遊。七分後の追手の位置や、危険箇所の想定の為、一度時計に目を向ける。
「………………は?」
思わず呆けた声が出た。時刻は8時28分………教室へ入る前から二分しか進んでいなかったのだ。
絶句。急に非現実を突き付けられたのだ。当然の反応だろう。頭に巡るは疑問ばかり。勿論答えなど出ない。
「くそっ!何をされている!?」
堪らず悪態をついた。結夢は時計を見た途端豹変した遊の様子を見て、同じく遊の時計へ目を向ける。指し示していた時刻は8時53分。何もおかしな点は無い。しかし、それだと今の状況に説明がつかない。そこで結夢は、一つの仮説を立てた。
志神の様子の豹変は時間が原因。「何をされている」と言う事は、攻撃を受けている事に気付いたと言うこと。恐らく時間の遅延又はその反対だろう。だが、今見た限りでは何もおかしな点は無かった。ならば、それは既に修正されたとした場合はどうだろうか?
志神の反応に慌てて修正を加えた。それはつまり、すぐ近く、志神が感じた異変を同時に感じられる場所に、ザドキエルがいる事になるのではないか?
そうすれば全ての辻褄が合う。そもそも、登校途中すれ違う一般人や、教室でのクラスメイト、それら全ての反応が細かすぎた。記憶を元に動かしているとしても限度がある。一人一人が目的地へ向かい歩き、一人一人視線を向ける。クラスメイトの挨拶。久留の言葉に全員が反応し、行動を起こす。後者はハニエルが操ったのかも知れないが、もし、そうでないとしたら?ザドキエルが仮想世界の住人を動かしているとしたら?
結夢は自問を問うて理解した。ザドキエルの位置、その隠れ場所を。後は伝えるだけだ。結夢は背中を向けて考え込んでいる遊の肩へてを伸ばす。
「久留が黒幕…なのか?」
「……!」
遊の答え、呟きは意外なものだった。しかし、妥当でもある。考えを否定する事も出来るが、それよりもザドキエルの場所を伝える方が先決だろう。そう考えた結夢は、考え込む遊の肩を叩き振り向かせた。
「違う。違うぜ志神。久留は味方だ。」
「は……え?」
意外な言葉をぶつけられたと言わんばかりの遊の表情。それは結夢も同じ思いだった。無理もない。自分の言いたい事とは全く違う言葉を吐き出しているのだから。
「見つけるんだ志神。」
ザドキエルの正体を伝えようと口を動かすが、出る言葉はやはり違う。勿論ハニエルが操っている事は理解できるが、何故最も有益な情報では無いのか理解が及ばない。
「久留と力を合わせて。そうすれば志神は元に─」
言葉も半ばに、結夢の意識は完全に途切れた。




