仮想世界
「──はっ!?」
結夢は目を覚ました。何故か先程までの記憶が曖昧。どうして眠っていたのか、又は意識を失っていたのか、皆目見当がつかない。目の前には見慣れない天井。つまり、現状は建物の中であり、自身は倒れているであろう事が理解できた。
分かりきった情報ではあるが、記憶が混濁している結夢にとって、分かりきった事を明確にするのは、脱水状態の体を潤す水分の様に貴重だ。
「あ、気が付きましたか結夢。」
今度は馴れたもの、ハニエルの声。自分が置かれている状況を整理できていない結夢に、その声はすがりたくなる程の安心感を囁く。
馴れたものが恋しい。今すぐハニエルを視界に入れたい。安心をしたい。そんな願望が心の岸へ打ち上げられた。結夢は体を起こす為、ひんやりとした床に手をつく。
「…………あ、れ?」
只それだけの筈である。只、手を床についた。それだけの行動が、結夢に酷く違和感を与えたのだ。
自ら起こした行動であるが、目的あっての行動であるが、どうしても客観的になってしまう。どうしても"意味を見出だせ無い"。
「何だ、よ……これ?」
「どうかしましたか結夢?」
上半身を半ばに起こし止まっている結夢に、ハニエルは不思議そうな顔で覗き込んだ。
目の前の光景に違和感は無い。結夢の記憶にあるハニエルそのもの。そう──"記憶にある"ハニエルに。
「っ!」
瞬間何かが結夢の頭を過ったが、それは解釈を得る前に消えてしまった。まるで、その考えを表に出してはいけないと、思い浮かべてはいけないと、内側から押さえ付けられている様だ。
出てこないのならば仕方がない。結夢は思考を切り替え、正面にいるハニエルへ笑顔を向ける。
「何でもない。ちょっと記憶が混乱しててさ。とりあえず、此処は何処だ?」
「ここは志神遊の家です。私が目を離した隙に、結夢は天使からの攻撃を受けました。直ぐに気付いて対抗した為、大事には至ってませんが、副作用として記憶の混乱が起こっているのでしょう。」
「結構危なかったんだな私。ありがとうハル……ところで、家主の志神はどこ行ったんだ?」
意識を失った経緯は理解した。しかし、リビングの何処を見ても遊の姿を見つけられないのだ。天使からの攻撃を受けていたのが本当だとしたら、標的であった結夢の前後どちらかには、必ず遊が加わっている筈。ここに居ないと言うことは、天使に襲われている可能性が推測される。
「あの人間は悪魔と共に天使を追いに行きました。私たちは帰りましょう。」
「え、天使と戦ってんだろ?だったら志神とマクアを追わないと。」
「彼らならば大丈夫です。それに、結夢が目を覚ましたら、家まで無事送り届けるよう言われてますので。」
ハニエルが言うのだからきっと大丈夫なのだろう。今、結夢が行ったところで何か出来る訳では無い。結夢自身もそれは理解している。だが、心配な事に変わりはないのだ。そう簡単に引き下がる結夢でもない。その思いを伝えようと、真剣な眼差しでハニエルを見据える。
「分かった。大人しく帰る、よ………え?」
決意を固めた筈が、出た言葉は全くの真逆。自分で言っておきながら、結夢は思わずポカンとだらしなく口を開けて固まってしまう。
何故そんな事を。理由を考えようにも思考が阻害される。明確な意図は汲み取れなかった。
「では帰りましょうか。」
「お、おう…。」
先程からどうも様子がおかしい。勿論ハニエルではなく、結夢自身である。幾つもの疑問を残し、されど抗うことはできず、不完全燃焼のまま帰宅することとなった。
それから特に問題なく進む。過ごすでは無く進む。そう表現するのが適当だと、結夢は判断せざる負えなかったのだ。
滞りなく"進む"。その言葉が当てはまる様に。記憶のまま、記憶の通りに進む。変わり無い通路。変わり無いハニエル。変わり無い羽慎。変わり無い世界。思い浮かべた平穏が流れている。予想通りとも言える何かが、結夢の脳裏を小突いた。
「……はぁ…。」
自室のベッドへ仰向けになりながら、深いため息を一つ。妙に疲れた。平穏無事な日常を過ごしている筈だが、そこには何も無い。意味も、根拠も、喜怒哀楽も、危機も、もしかしたら平穏さえも無いのかも知れない。偽りが蔓延し、それが真実と錯覚する。そんな感じだ。
「あ~イライラする!もう知らん!寝る!」
そう叫び、壁際に寄せられている毛布を引ったくった。寝れば忘れられるだろう。問題を先伸ばしにしているだけな気もするが、どちらにせよ、今日に起こせる行動は無い。
結夢は電気を消し、目を瞑る。何故か睡魔は直ぐにやって来た。意識が落ちる。眠ると言うよりは、正に、落ちるが正しいだろう。脳裏で小突く何かを感じながらも、結夢は深い、深い奈落へ落ちていった。
意識が落ちきる寸前。カチリ、という音が確かに聞こえた。何かが合わさった様な、何かと一体化した様な音が。
「目……さい…夢。」
朦朧とする意識の中、何処からか声が聞こえた。それは頭へ直接響き、反響してフェードアウトする。
それから何度も同じ言葉が頭に響いた。反響する声は、内から結夢の意識を押し上げ、段々と内容を明らかにさせていく。
「目を開けなさい結夢。」
「ん……ハ、ル…?」
どれ程眠っていたのだろうか。窓からは朝日が射しており、暗闇に慣れている結夢の目には、直視できない光量を部屋全体へ振り撒いていた。
半目になりながら、声の主を探すため顔を右へ左へ。しかし、どれだけ見回そうともその姿は見受けられない。
「ハル~?」
「探しても無駄です。今の私に実体はありませんので。」
「ハル?え?」
またしても声が聞こえた。幻聴などではなくハッキリと。その声は確かに「実体は無い」と言った。唐突な告白も去る事ながら、何処からともなく声が聞こえる現象に、結夢は困惑するばかり。
「ここはザドキエルの創った仮想世界。今ならば"抑えていた記憶"を戻して問題ないでしょう。」
「いやいやいや、どう言うことだって?仮想世界?抑えていた記憶?ちゃんと分かるよう説明──!?」
言葉が言い終わらない内に、結夢の脳へ夥しい量の記憶の波が押し寄せた。うち上がった波は脳を包み、一点に向かい渦を作る。それはロートで注がれた水の様にゆっくりと、然れど確実に、脳へ染み渡らせた。
「そっか……そうだ…!そうだった!うっわ~ビックリした~。私の頭がおかしくなったかと思ったわ~。」
「状況は理解できましたか?」
「おう!今、この世界には私とハルしかいない……つまり!これから繰り広げられるのは、私とハルのグッチョングッチョンなラブストーリーって事だろぉ!?」
「それでは当面の方針ですが。」
「無視!?無視なのかハルぅ!?」
いつもの結夢ならば、ツッコミと同時にハニエルを抱き締めていただろう。しかし、今のハニエルに実体は無い。その為、結夢は声を上げる事しか出来ず、ハニエルは強気で対応する事が出来るのだ。
但し、結夢も本気で言っていた訳では無い。ツッコミでその場を流し、続くハニエルの言葉に耳を傾ける。
「先ず前提として、この仮想世界は私と結夢だけではありません。ここには加えて、志神遊と悪魔が存在しています。」
「え?ザドキエルって奴の能力は、仮想世界……つまり、夢の中へ標的を閉じ込めるんだろ?どうして私の夢の中に志神たちが入ってるんだよ?」
「ザドキエルは、複数人の記憶を統合させる事により、更に広く、現実に近い世界を創り上げる事が出来ます。この仮想世界は志神遊と結夢の統合された世界なのです。」
その言葉を聞いて、意識の落ちきる寸前に聞いた「カチリ」と言う音の正体を理解する。あれは遊と結夢の仮想世界が混ざり合い、そして一つの仮想世界として噛み合った音。あの瞬間から今まで、この仮想世界は一人だけでなく、二人で共有する場となったのだ。
「なるほどな。私と志神なら同じ磐城町な上、同じ学校同じクラス……私の仮想世界に統合するのは容易いって事か。」
「その通りです。しかし結夢、最後は逆ですよ……ここは志神遊の仮想世界。結夢は統合された側なんです。」
「あ、そうなのか。まぁ、どちらに統合しようがさして変わらないだろ。」
「いいえ。今の状況は私たちにとって、とても良いものになってます。もし結夢の世界がベースだったとしたら、私は話しかけることが出来ませんでしたからね。」
「はえ?何でだ?」
「結夢の世界がベースの場合、ザドキエルは結夢の近くに隠れますし、結夢の記憶を監視し続けます。そうなったら、私たちの計画は感付かれ破綻してしまうのです。」
「ん~……あぁ!もしかして、私の記憶が曖昧だったのってその為かぁ!」
結夢は遊の家で目を覚ました時の事を思い出した。確かにあの時の記憶は何もかもが曖昧だったのだ。思い出そうにも思い出せず、頭を過ったと思ったら瞬時に消えてしまう。あれは記憶の混濁等では無く、ハニエルが内側から操作をした為起こった現象。表面にザドキエルへ見せる記憶を固め、その水面下では、目的の混じった記憶と、結夢の感じた違和感を隠蔽していた。
加えて、その話が真実であった場合、実体のあったハニエルは、偽りである事が明らかとなる。遊と結夢の仮想世界ならば、本物はその二人のみ。それ以外現れる者は皆、記憶の産物となるからだ。今ハニエルの実体が無いのも、その証明である。
「でもさぁ、そうやって私の記憶を操作したから、スッゲー違和感を感じだんだぜ?あれは、流石にザドキエルにも不信感を与えたんじゃないか?」
「あれは態々違和感を与えたのです。」
「はえ?」
本日二度目の「はえ?」結夢は文字通り、何を言っているか分からないと言った表情を浮かべた。
「当然でしょう。それをしたからこそ、ザドキエルは志神遊をベースとしたのですから。」
「はえ?」
連続、本日三度目の「はえ?」結夢が違和感を感じた為、行動や思考には異常が現れていた。それは、ザドキエルを警戒させる材料に成り得ただろう。すれば、尚警戒を強めるのが道理。そう考えた結夢は又も何を言っているか分からないと言った表情を浮かべた。
「……例えばの話をしましょう。結夢が私と羽慎に嘘をついたとします。内容はそうですね……赤点を取った事の隠蔽としましょう。その嘘を私は信じましたが、羽慎は疑っています。さて、結夢ならばどうしますか?但し、結夢が出来る事は、嘘を塗り固める事だけです。」
「え、えと……どうするか…。」
結夢は顎に手を当て考え込む。
(やっぱ、母さんに信じ込ませるしかないよな。でも疑っているなら、変に行動を起こすと逆に怪しまれるし…。ハルはどうだろう?信じてるなら問題は無い?……あ、ハルは嘘をつけないんだ。じゃあそこを利用するのがいいか。もし母さんが質問しても、ハルの言葉なら信用するだろうし。だったらハルへ嘘を塗り固めて………あ!)
そこまで考え付いたところで、結夢はハニエルの質問の意図を理解した。言うなれば、この例えである結夢はザドキエル。羽慎は結夢で、ハニエルは遊に当たるのだ。
疑いを持っている者を無理に信じ込ませる必要は無い。例えの中で一番重要なのはハニエル。確かに羽慎にバレるのが恐ろしくはあるが、いくら疑いを持とうとも決定的な証拠を得られない。黒に近い白ならば問題ないのだ。その為結夢はハニエルへ嘘を塗り固め、虚偽を真実にしようとするのである。
「そうか!ザドキエルが一番恐れている事は、志神に仮想世界がバレる事!だから私じゃなく志神をベースにしたんだな!」
「その通りです。なので私は仮想世界に結夢が呑まれないよう、常に違和感を与えていたのです。」
「流石ハル!現実に戻ったら思いきり抱き締めてやるぜー!」
「あ、結構です。」
「ハルぅ!?」
やはり、実体が無ければ強気なハニエルであった。
ハニエルとの話し合いの末、当面の目的は決まった。ザドキエルはとにかく遊を仮想世界に留めたがる。理想としては何も出来ない状態……監禁に近い状態が好ましい。結夢たちの目的は二点。ザドキエルを手助けしつつ、しかし必ず回避する事。そして、意識の及びづらい場所へ大きな違和感を与え続ける事。
この仮想世界の本源は、記憶であり夢である。あり得ない事を起こすのが可能。実際先程に結夢は、あまり影響の少ない範囲へそれを試していた。
「ここは所詮仮想。現実でなく偽りの世界です。結夢が強く願えば、起こり得ない事も起こす事ができますよ。」
「マジか!じゃあ、そうだな…。」
「大きな変化は与えないで下さいね。流石のザドキエルも目を瞑っていられなくなります。」
「オーケーオーケー。よし、いくぞ~…………ザ・ワー○ド!」
「何ですかその掛け声とポーズは…。」
「まぁまぁ……ってスゲエ!落としたノートが空中で止まってる!こんな事出来るんだなぁ。」
と言った具合に、確認は万全である。後は遊と合流するのみ。寧ろそこからが本選なのだ。
結夢は偽者のハニエルへ遊が心配である事を訴え、家に迎え行く事を了承させた。素早く支度を済ませ、いざ出陣。目標は志神家。クラスメイトを助けるため、助けてもらった恩を返すため、結夢は闘志を内に秘め歩く。
世界崩壊の始まりである。




