登下校
あり得ない。耳を疑う。信じ難い。頭の中は、そんな疑問で満たされている。まるで箱に詰められた蒸気の様だ。在るのは分かるが、掴むことは出来ない。蒸気に満たされた箱は、不快感すら感じさせる。
「い…いやいやいや、おかしいだろ?私たちが元は天使?冗談でも笑えねーぞって。だったら、今までの歴史はどうなるんだ?原人は?猿人は?あれはどう考えたって天使じゃねーだろ。無理無理。信じろったって、そんなのは無理だ。天使の入る余地がない。そもそも、何で天界からこっちに来てんだよ?」
言いたい事を整理するよりも先に、考えるよりも先に、抑えきれない言葉たちが捲し立てた。正直、自分の言った事の半分も理解できていない。いや、理解できていないと言うよりは、覚えていないが近いだろう。揺るぎ無いものは、核となるものは単純。「あり得ない」只それだけ。
「私たちが元は天使なら、こっちには本来人間がいなかったって事になるよな?天召のできない状態で、どうやって来たんだ?失楽園か?堕天か?それとも生まれ変わりか?天使の魂が、偶々人間界に降り立ちましたってか?だとしたら──」
「落ち着きなさい。」
「っ!」
一言。ハニエルの静かな一言に、結夢は我に返った。独りよがりに散々捲し立てたせいか、気付いたら喉がカラカラだ。一度唾を飲み込み、喉に水分を張ってからハニエルの方を見る。
「先ほども言いましたが、これ以上話すつもりはありません。」
話を切るように、ピシャリと言い放つ。淡々と話すハニエルの様子は、何処か怒っている様にも感じられた。
いつもの強気は鳴りを潜め、只圧倒され沈黙する。結夢は、完全にハニエルに呑まれていた。
「ゴホンッ………さ、もう寝てしまいましょう!」
「え?あ……おぅ…。」
急なハニエルの明るく弾んだ声が、張り詰めた空気を引き裂いた。先程とは打って変わって、その表情は屈託の無い笑顔。混乱の覚め止まぬ結夢は、返事もあやふやの状態で、言われるがままベッドへ入った。
ハニエルは電気を消し、その場に佇む。天使には、睡眠と言う行為が存在しない。その為、結夢が眠りにつくまで、暗闇の中結夢の様子をジッと見つめていた。
二十分ほどが経過しただろうか。今日あった出来事や時間の関係で、結夢は簡単に眠りについた。それを確認したハニエルは、結夢の頬に手を置いて、そっと撫でる。
「すみません結夢。今言える情報はここまでです。これ以上は、それこそ悪魔の存在よりも広まってはいけない…。」
柔らかな日差しが結夢の顔を照らす。カーテンに遮られている為、意識を引き上げるには不十分な光量ではあるが、そんな事は関係無い。何故なら──
「はいはい結夢!起きてください!朝ですよ朝!」
勢いよく開かれたカーテン。柔らかであった日差しは、急激に強まり、痛いほどの光の束となって結夢に襲いかかる。
「う…!眩しい…。」
「起きましたか。さっさと準備をしなさい……って、なんで私がこんな事を…。」
自分の行動に納得がいかないのか、小声で愚痴を吐く。そもそも何故ハニエルが、こんな世話焼き女房の様な事をしているのか。それはほんの十分前。
朝、ハニエルが何とは無しにリビングへ向かうと、結夢の母親である羽慎に声をかけられた。
「あぁ丁度良かった。ハルちゃん…だったかしら~?」
「どうしました羽慎さん?あと、私の名は"ハニエル"なのですが…。」
「ちょっとハルちゃんにお願いがあるのよ~。豪快に寝ている結夢を起こしてもらえる~?あの子いっつも起きなくて、何度遅刻しそうになったことか~。」
「あの、私の名はハニエル…。」
「ハルちゃんを天召した日も寝坊してね~。本当に仕様が無い子だわ~。」
「だから、私の名はハニエ─」
「カーテンを容赦なく開ければ大丈夫よ~。ハルちゃんでも出来るから、頼めるかしら~?……あら、そう言えばハルちゃん何か言ってた?」
「あ、いえ……何でもないです。はい。」
「そう~?じゃあよろしくね~。私も結夢も気を使わないから、ハルちゃんも気を使わないでいいわよ~。」
いくらなんでも、天使相手にここまで遠慮が無いのは驚きだ。流石は結夢の親、と言ったところだろう。あの親にしてこの子あり。それを実感したハニエルであった。
「う~…眠みぃ…。」
「眠くても起きる!起きる時は起きる!メリハリはしっかりしなさい!」
「どうしたんだよハルぅ…。何か怒ってる?」
眠い目を擦りながら起き上がった結夢。「ちっちゃい」だのを言われなければ基本的落ち着いているハニエルが、こうも声を張っているのは些か疑問を持ち得ざる負えない。
「それは、今答えなければいけない質問ですか?そんな事よりも、シャワーを浴びる!着替える!朝食をとる!登校する!やることは沢山あるのですよ!」
「うぅ…やっぱり怒ってる…。」
天使である自分が何故こんな事を。当初、凛とした態度を示そうにも完全出鼻を挫かれ、ガブリエルからの指令も失敗し、今回羽慎からのお願いも断れなかった。正直とても情けない。ハニエルは溜まった鬱憤を、ここぞとばかりに放出していた。端的に言って八つ当たりである。しかし、上記二点は結夢、引いては紫野月家が原因である為、一概に八つ当たりとは言えないが。
結夢は半目になりながらも、モソモソと支度を始める。着替えの制服を持って、覚束ない足取りで風呂場へ向かった。
着替え、朝食を終わらせ家を出る。
まだホームルームまで一時間以上。こんな早い時間に登校したのはいつぶりだろうか。結夢の記憶を遡るも、高校入学以来は一度も無かった。
早起きは三文の徳。登校してからも時間が余り、余裕を持つと言うのは素晴らしい事だろう。結夢はスマートフォンの時刻を見て、今の素直な感想を漏らす。
「うわぁ……まだ三十分は寝れた…。」
「何か言いましたか結夢?」
「な、何でもありません…。」
ニッコリと、然れど目に光は無い。暗に、怒りが収まっていない事を明示している。それどころか、今の発言で三割増しの様子。
ハニエルの怒りの理由を理解していない結夢は、歩きながら首を傾げるばかりであった。
通学路を歩く。同じ制服の生徒が増え、中には同じ学年同じクラスの生徒も見受けられる。知り合いならば、軽くとも挨拶を交わすものだろうが、今の時代そんな事は"あり得ない"。少ないなどではなく、あり得ない。学校の敷地で挨拶を交わす事はあっても、外となると話は違う。何処で誰が見ているか分からないのだ。この場合の誰とは主に天使である。
主にと言うのは、天使だけでなく、天使を連れている。又は天使と関わりのある人間も含まれているからだ。そういった人間から恨みを買う訳にはいかない。
取り留めも無い会話が、他者からすれば耳障りになるかもしれない。唯の挨拶が、他者からすれば目障りになるかもしれない。所詮、かもしれない。然れど、かもしれない。そんな事無いと一蹴してしまえたら、どれだけ楽だろうか。小さな可能性でも、排除できる事はしておきたい。巻き込まれるのは勘弁だ。だからこそ通学路での会話は一切無い。校門を潜り、天使や天使関係者からの脅威が無くなって、初めて会話が始まるのだ。
ここで一つ問題が浮上する。ハニエルを連れている結夢はどうなるのか?
結夢は校門を潜ると、丁度隣で歩いていたクラスメイトへ声を掛ける。
「うっす。おはよ。」
「え、あ……おはよぅ…。」
クラスメイトは、驚いた表情を浮かべたかと思うと、尻すぼみな挨拶を返し、そそくさと走り去ってしまった。
残された結夢は立ち止まり唖然とする。昨日まで、笑顔で挨拶を交わしていたクラスメイトが、急に他人行儀になってしまったからだ。いや、他人行儀ならまだマシだろう。今の反応は、もっと違う感情が込められていた。
遠慮……それでは生ぬるい。
嫌悪……嫌われている訳ではない。
畏怖……言い得て妙。
天使を連れている結夢は、誰からも畏怖される存在となったのだ。思い返せば、昨日は凛華と遊以外話していない。いつも話し掛けてくれるクラスメイトは、離れた所で傍観しているだけだった。帰り際に挨拶をしてくれたクラスメイトもいた気がするが、ハニエルの能力下にあった為、顔を覚えていない。
確かに天召を行えば、周りから疎まれるのは理解していた。しかし、覚悟はしていなかった。ここまで顕著に変わるのだとは、ここまでショックを受けるとは、予想だにしていなかったのである。
「あ、結夢先輩!おはようございます!」
「…………え?」
急に呼ばれた自分の名前。ショックの只中にいた結夢は、最初自分が呼ばれているのか分からなかった。ほぼ、反射的に反応していたのだ。
声のした方へ顔を向けると、そこには、いつもと変わらぬ笑顔を向ける凛華がいた。
「……?どうしたんですか結夢先輩?顔色が優れないようですけど。」
「あ、いや、何でもないよ。おはよう久留。」
呆としたままの結夢に、心配な顔を向ける凛華。状況に理解が追い付いた結夢は、直ぐ様表情を戻し応じた。
最初の吃りに凛華は首を傾げたが、それ以上特に気にした様子も無く、自然と結夢の隣に立って歩き出す。
「先輩、昨日は早くに帰ってしまったんですね。」
「え、あぁそうだな。ちょっと用事があってな…。」
正直、昨日の帰りの事は答えられない。ハニエルの能力をバラす訳にもいかない為、曖昧な返事をする以外結夢に出来る事は無いのだ。
「用事ですか?」
「おう……あの、買い物とか色々…。」
「なぁんだ。私はてっきり、同じく天使を連れた、男の先輩の後を追いかけたのかと思いましたよ。」
「ぶっ!?そ、そんな事無いぞ!ってか、何で久留は志神の事知ってんだ?」
「休み時間に先輩の教室へ行ったら、楽しそうにお話ししている姿があったものですから。」
なるほどと納得。いつも休み時間になると来ていた筈の久留が、何故昨日に限って来なかったのか。来てはいたが、取り込み中だった為、素直に引き下がったと言う訳だったのだ。その際、結夢は悪魔の姿に興味を抱いており、自然と遊に詰め寄る形となってしまっていた。その姿を見た凛華は、果たしてどんな風に受け止めたのか。それは本人のみぞ知る事。
「あの時に志神の事を見てたんだな。別に遠慮せず来れば良かったのに。」
「もし迷惑だったら困りますし…。でも、次からはそうしますね!その先輩は、今日はまだ来ていないのですか?」
「あ~どうだろ?分かんねぇ。いつも私のが遅いから、志神がいつ来てるか知らないんだよな。」
「そうなんですか?まぁ家が反対なら、一緒に登校とかも出来ないですし、仕方ないですよね。」
「そうそう。しっかし、久留は登校するの早いな~……って、あれ?普段の私の登校時間でも、よく久留は校門で話しかけて来るよな。今日が偶々早く登校した日だったのか?」
「いいえ、いつもこのくらいの時間に登校してますよ。後は、結夢先輩が来るのを待ってるんです。」
「おいおい、そんな待ってなくて良いのに。」
「私がしたくてしてるんです!では、私は一年の靴箱なので。」
「おう、またな。」
昇降口に到着し、各々の学年クラスの下駄箱へ移動する。
いつもと変わらぬ凛華の様子は、先程まで感じていた疎外感を和らげ、結夢の心に余裕を与えてくれた。余程ショックが大きかったのか、凛華とのやり取りを頭の中で繰り返す。「いつも通りに接してくれる人はいる。」そう思うだけで幾分か救われる。教室に入ったら又、嫌な現実を突きつけられるかも知れないが、幸いな事に、クラスには遊がいるのだ。同じ天召経験者であり、昨日の出来事を共有した遊が。
教室に到着し入室する。いの一番に遊の席を確認したが、まだ登校していない様だった。クラスメイトは遠巻きに結夢を見ており、話しかける様子は無い。
また結夢から挨拶をして、クラスメイトを困惑させるのは申し訳ない。静かに自分の席へ着席し、準備をしながら漠然を頭を動かす。
「……ん~?そう言えば、何か見逃している気が…。」
何がそう言えばなのかは分からないが、結夢は確かに漫然とした違和感を感じ取っていた。しかし、いくら考えようとも答えは出ない。ならば大した事でも無いのだろう。そう納得し、教室で大人しく遊を待つことにした。
「さて、朝のホームルームは終了だ。日直。」
「起立、礼。」
ホームルームが終了した。遊の席には誰もいない。そもそも出欠確認で名前を呼ばれなかったのだ。欠席しているのは明白である。
「なぁハル。何で今日志神は来てないんだ?」
「まだ寝てるのではないですか?明確な状況は分かりません。」
「そっか。あ~早く来ねーかなぁ。」
「そんなにあの先輩が良いんですか!?」
「うひはぁ!?く、久留ぅ!?ビックリしたな…。」
大して意味もなく呟いた言葉。それを、いつの間にか来ていた凛華が、過剰な反応を示して耳元で叫んだ為、結夢は頓狂な声を上げて一度大きく体をビクつかせた。
「どうしてあの先輩が良いんですか!そんなにお気に入りなんですか!?」
「ち、ちょ!声がでかい!」
「もしかして、あの先輩の事が好──んむむ!?」
間一髪。凛華が変な事を口走る前に、結夢は手で口を掴むようにして塞いだ。かいた冷や汗を袖で拭い落とし、長く安堵の息を吐く。
正直な話、その前の言葉で色々と手遅れな気がするが、そこまで気にしていたら頭がパンクしてしまう。結夢は気付かないフリをして目を背けた。
「久・留~?少し落ち着け、な?」
笑顔だが後ろには炎。額には薄っすらと青筋が見える。凛華は無言で(と言うか口を掴まれるので喋れない)コクコクと頷く。しかしその顔は、結夢に触れてもらっているからか、恍惚とした表情をしていた。
凛華の反応を見て、掴んでいた手を放す。凛華は一瞬悲しそうな顔をしたが、それは誰も気付かなかったので良しとする。
「あまりこう言う話は大きな声でするなよ?変に勘違いされても困るし。」
「ごめんなさい。昨日から、ハルさんとその先輩に結夢先輩を取られて、少し寂しくなってしまいました…。」
「あ、あの……私は別に結夢を取ったつもりはありませ──」
「っせーですよチビ(ボソッ)。」
小声で。結夢にも聞こえないような小声で凛華は吐き捨てた。結夢にも聞こえないと言うことは、距離的にハニエルにも聞こえない筈なのだが、そこはハニエル。「ちっちゃい」に関してはプロの地獄耳。もしかしたら読唇術を使ったのかも知れない。おずおずと言った表情から一転。真顔と射抜くような視線で凛華を見やる。
「え?今なんて?チビ…え?チ…え?」
「幼児体型 (ボソッ)」
「な!?ななななな~!!!撤回!撤回を求めます!」
「ど、どうしたハル?急に大声だして。」
凛華の声が聞こえてないならば、ハニエルが急に叫び出したように見えるだろう。心配な面持ちをハニエルに向ける結夢。しかし、それさえも気に食わなかったのか、凛華は遂に声高らかにハニエルを侮辱する。
「チービ!チービ!幼児体型!結夢先輩から心配されようなんて生意気な!」
「うお!?久留まで!?」
いきなりヒートアップした凛華。結夢は状況についていけず、只々唖然とするばかりであった。
そして、「チビ」と貶されて黙っているハニエルではない。遊との闘いに負けた時よりも、三段階ほど険しい形相で応戦する。
「何ですってぇ!?この……特殊性癖の変態!」
「な!わ、私は変態じゃねぇですよ!」
「はん!どの口が言うのですか?貴女は明らかに結夢に好意を抱いて──」
「わー!言うなー!うるさい!うるさい!」
「いずれバレますよ?と言うか、何故本人が気付かないのか不思議なくらい白地でしょうに。」
「うるさい!黙れ!チビ!」
「喧しい!黙りなさい!変態」
「チービ!チービ!チービ!チービ!」
「変態!変態!変態!変態!」
「「ムキーッ!」」
二名揃ってグルグルパンチのポコポコ殴り。下らない理由と仕様もない悪口で喧嘩する姿は、正に小学生。無関心を決め込んでいたクラスメイトも、あまりの姦しさに、興味を隠せないでいる。
そして原因の一端となった結夢はと言うと──
「ふふふ……可愛えぇ…。」
万勉の笑みで今の状況を楽しんでいた。
放課後。
昼休みの間で教師に確認を取ったところ、遊の欠席に関して連絡は無かったらしい。昨日、ハニエルから聞いた話が頭を巡る。結夢は心配になり、帰りに遊の家へ向かうことにした。
操られていたとは言え、風景や道は覚えている。記憶をたどり、昨日遊に追い付いた地点まで到着。しかし、そこから一つ問題が浮上した。
「あ……私こっから先の道知らねぇや…。」
なんたる浅はか。心配ばかりが先行して、住所を聞くのを失念していた。引き返して住所を聞こうかと考えていると、空に見覚えのある何かが見えた。
三十~四十センチ程のそれは、ボロボロの布をはためかせ、所在なさげに民家の上を行ったり来たりしている。
「あ……マクアだ!お~い!」
見覚えのある何かの正体は悪魔。天召した、された者同士は、五十メートル以上離れられない為、悪魔のいる付近が遊の家であることを、結夢は理解している。結夢の呼び声に気付いた悪魔は、大きな目を向け結夢の姿を視認すると、鋭く尖った指をクイクイと動かし、「こっちに来い」と誘う。
「…………?」
理由は理解できずとも、意味は分かる。ならば行くべきだろう。結夢は悪魔の元へ駆け出した。
「丁度よかった。人間の女、少し手を貸せ。」
「手を貸せって……何があったんだよマクア?」
「天使からの攻撃を受けている。あの男……このままでは死ぬぞ。」




