33話
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「馬鹿者っ!!」
「キャァッ!」
激昂する声と頬を叩く音がレノズ侯爵家に響いた。
「なぜ王宮に行ったっ!? しばらくは大人しくしてろと言ったではないかっ! なぜわからんのかっ!!」
「ひ、ひどいわっ! 叩くなんてひどいわっ、お父様っ!!」
「黙れっ! お前のせいでこちらは大恥をかいたんだっ!」
夕刻、レノズ侯爵は執務室に届いた王室部局からの封書を見るなり急いで帰宅した。馬車に乗っている間もその封書を読み返してはぐにゃっと握り潰す。
付き添っていた側近のトーマスは何か物言いたげで、そんな彼にヨレヨレになった封書を押し付けた。それに目を通すとトーマスは驚きで顔を崩す。恐れていたことが起きてしまった。
「……何ということを……」
王室部局からの封書にはアレナがお茶会に参加するために押しかけた旨が書かれており、欠席扱いに不服を申し立て騒ぎを起こしたことに対する抗議文であった。
しかも王室部局からだ。そこは王族関連を担当するところであり、必然的に関係する人間は高位貴族となっている。部局長はツレク公爵が務めている。彼は国王の従兄弟という準王族でもある。その部局長の印がしっかりと押されており、レノズ侯爵家での再教育と王族関係の催し物に対して三ヶ月間の出会禁止が記されていた。
「このままではルゲイン公爵殿下との婚姻にも響きかねん」
幸い、イーグ王国のルゲイン公爵はすでに帰国の途についている。公に彼の耳に入ることは避けられたかも知れないが、レノズ侯爵家の状況が悪いことには変わりない。
屋敷につく頃にもその怒りはおさまることはなくレノズ侯爵は馬車から飛び降りる。
そのままアレナの部屋を蹴破るように入り、癇癪を起こしたのであろうその有様を横目に彼女の頬を叩いたのだった。
「お父様! あの女! 王太子妃の侍女だか何か知らないけど、あの女をどうにかしてっ! この私をコケにしたのよ! 許さない許さない! 絶対許さないっっ!!」
「家格が違うのがわからんのかっ!」
「私は側室になるのよ! だったら、私の方が──、キャァァァ!」
レノズ侯爵はもう一度その頬を叩いた。
「何よ! 何よ!」
「お前のその態度が側室から遠ざかっていることになぜ気づかないんだ!」
我が娘ながら、どうしてそれがわからないのか。こちらが何とかして王族に輿入れできるよう尽力しているというのに、本人がこれでは台無しもいいところだ。
外見は美しさで誤魔化せるとしても、品位のない粗雑な性格が顔を出せば意味もない。
「これ以上言うことを聞かなければ婿を取らせる!」
「そんなっ! いやよ! お父様が言ったんじゃないのっ。側室になれって!」
「ああ、言った。言ったが、お前自身の失態のせいで崩れ去った!」
このままではアレナ一人のためにレノズ侯爵は評判を落とすことになる。王族どころか貴族からも見放されてしまったら取り返しがつかない。
「子なしの王太子妃なんてすぐ捨てられるに決まっているわ! だって、私の方が絶対にいい女じゃない! クレイグ様だってそう思うはずだわ! 私が世継ぎを産むのよ!」
不敬すぎる言葉の数々にこれが王宮で発せられでもしたらと思うと侯爵は青ざめる。
「お前はしばらく屋敷から出ることを禁じる! わかったな! 破れば婿どころか修道院行きだと思えっ!!」
「─────っっ!!」
父親の言葉にアレナの顔が引き攣る。自分が最も縁遠いと思っている場所──修道院行きを口にしたのだ。
そんな捨て台詞を言った侯爵は苛立ったまま部屋を出ていった。
「…………………」
アレナは全身を震わせて立ち尽くす。いつもは綺麗に結われている金の髪は乱れ、ドレスの襟元は緩みきっていた。薄暗くなった部屋の鏡台がふと目に入る。映っていたのは、どこか狂った目をした女が一人。
「……違う。私じゃない。違う……」
鏡の中の女も同じように首を振り同じ言葉を綴る。
「……いや、いや……、────いやぁぁぁぁ!!」
アレナはローテーブルにある茶器を鏡に投げつけた。割れる特有の金属音が部屋に響いた。叫びながら夢中で目につくものを手当たりしだいに投げつけ激しい音が響く。
はぁはぁと息が乱れるまでそれは続き、そのまま糸が切れるように膝をついた。
「アレナ様」
その声に目だけを向けると、トーマスが憐憫を滲ませた顔で部屋に入ってきた。一度足を止めて荒れた部屋をくるりと見渡すと、再びアレナの元へと歩き出す。
投げた散らかした一部が窓ガラスを割り、その隙間から冷たい風が流れ込む。トーマスは同じように膝をついて目線を合わせるがアレナはその手を振り上げた。
「何よっ!!」
打たれたトーマスの頬が赤く滲む。それでも彼は動かずにアレナを黙って見ていた。
「お前なんかお呼びじゃないのよっ!! 出て行きなさいっ!!」
なぜにこんな男に憐れんだ目で見られなければいけないのか。これは今まで自分が他人にむけていた顔であり、決して自分が向けられていいものではない。
「アレナ様。私はわかっていますよ。あなたこそが世継ぎを産むべき方であることを」
「──っ、当たり前でしょっ!」
「ええ、ええ。そうなのです。そんな当たり前のことをお父上は分かってらっしゃらない」
「な、何をっ──」
彼の意外な言葉にアレナは怪訝な顔でトーマスを見やった。彼は目を細めて薄く笑っているが、どこか底知れない異様な瞳を向けていた。
トーマスはゆっくりと首に通しているペンダントを手に取る。それは円形扁壷状の上質な黒エナメルに金の文様がデザインされており、一見エレガントな装飾ペンダントのようにも見える。
「これ、何だと思いますか?」
アレナの目の前でそのペンダントを揺らす。
「実はこれ、中に魔法の液体が入ってるんですよ」
くくくと喉を鳴らすトーマスの笑みにアレナは思わず後ずさる。
「ああ、逃げないでください。ほら──」
そっとアレナの顔にそれを近づけてペンダントの上部を押す。スプレーヘッドになっているそれから霧状のものが噴射された。
「なっ」
いきなり顔にかけられたアレナは無意識に目を閉じる。
「何をっ! お前っ────」
キッと睨みつけたアレナだったが、その後の言葉が続かない。眉間をぴくぴくとさせたかと思うと、その目から光が消えていく。
「……ぁ、……ぁぁああぁ…………」
声にならぬ声が漏れ出し、目の焦点はトーマスを見ながらもどこか遠くを見ているようだった。そして、まるで酒に酔ったようにゆっくりと体が揺れる。
「……あ、ああぁ、ああぁあああぁ……」
「いい香りでしょう? さあ、ゆっくり大きく息を吸って」
そう言うと、もう一度アレナの顔に振りかけた。
「…ぁぁああああああぁ、……あぁあぁあぁ……」
惚けたような顔で、呻き声のような喘ぎ声のような、沸き立つ何かを求めるような、人の言葉にはならない声を上げる。
「ぁぁあぅぅぅ……、ぁおぉをぉっぉ……ぅうぃひぃ……」
「ほぅら、だんだんと気持ちよくなってきたでしょう?」
そしてアレナの美しい顔が歪んでいく。目は充血し涙が流れ、そこから鼻水と涎が混じり、顎を伝って床へと流れ落ちた。口元はヘラヘラと小さく狂ったような笑いが出てきた。
そんな様子をトーマスは興奮した熱い眼差しで見つめる。
「これはあなたを幸せにする香りなのですよ」
「……ぁあ、いいぃぃ、いいかおりぃ……」
「ええ、とてもいい香りでしょう?」
「……と、ても……、いぃぃぃかおりだわぁぁ」
「そうでしょう? ああ、こんなにだらしない顔をして。くくくく、本当に醜くくてだらしない素敵なお顔ですよ。くくくく」
「ええぇぇ……、ええぇぇ、だらしぃないがおぉ……、うぃひひひぃぃ」
アレナは風に吹かれているかのように体をふわりふわりと揺らしながらもにへらと笑う。
「あなたは必ず側室になられます」
「……ええぇぇ、ぇぇえ」
「あなたが側室になるのです」
「……そくしつぅぅ、なぁるぅぅ……そくしつぅぅなぁるぅぅ……そくしつぅぅ」
トーマスの囁く言葉を涎まみれの口でぶつぶつと繰り返す。
少しだけ冷たい風の音とアレナの不気味な声だけが部屋にこだまするように広がり、それをしばらく堪能するかのように見ていたトーマスは立ち上がった。
アレナを見下ろすその顔にはすでに笑みはなく、ただ凍るように突き刺すものへと変わっていた。
「……ねえ、アレナ様。あなたは今まで知らず知らずにこの香りを嗅いできたのですよ。そのだらしない顔も何度目でしょうか。まあ、覚えてないでしょうがね。今のこれも明日には忘れているでしょう」
だが植え付けたものは刻まれる。
疑うこともなくそれが確固たる己の意思となるのだ。
「しかし、あなたが余計なことをしたせいで一つの選択肢がなくなりそうですよ」
「側室」になることが当たり前だと思って、お茶会に乗り込んでいくという暴走行為をしてしまった。本来であればいくらその影響を受けたとしても短絡的なことはしない。
「……あなたの馬鹿さ加減を甘く見てましたよ」
この薬は体内に入れた一定時間だけの効力しかない。もちろん濃い濃度を多量摂取すれば死に至る劇薬でもあるが、実験に実験を重ねてようやく「ちょうどいい」具合のものが仕上がったのだ。だが、もともとの性格はどうにもならない。
「まあ、しょせんあなたもいい実験体になってくれているので大目に見てあげましょう」
トーマスは胸に下がっているペンダントを手にした。
────魔法の液体。
確かにその通りだ。多幸感や高揚感に支配され、それ以外の思考は切り捨てられる。だが、他の禁止薬のように中毒性が高くはないのが利点であり、暗示のような効果を示しつつも人格は保たれる。だからこそ周囲も当の本人にさえ気づかれにくい。すべては己の意思だと思いながら、疑いもせずに動くのだから。彼はこれまでも多くの場面で使い分けてきたのだ。
でないとしがない没落伯爵家の自分などここにはいない。
トーマスは床に蹲り狂女のような醜態で呪文のように口を動かしているアレナを見やる。
「ゲスな女め。無様だな、おい。……ああ、聞こえないか。いつも偉そうに反吐が出るんだよ」
トーマスは靴裏でアレナの額を軽く蹴った。抵抗もなくそのまま後ろへ倒れ込み、まるで蛙のような格好だ。それでも彼女は病んだ人間のようにぶつぶつと笑いながら呟いている。
「…………失禁はしてないようだな。この濃度では二回の噴射がギリギリか。まだ少し調整が必要だな。これではすぐに壊れてしまう。明日には元に戻るだろうが、多少は身体に熱と痛みが出るかもな。まあ、静かになって何よりだが」
誰に言うでもなくトーマスは腕を組んでその場で考え込んだ。
仮に明日起き上がれなくとも、医師は風邪症状と判断するはずだ。この薬はある意味強烈だが消えるのも早い。
屋敷の者には明日までは部屋に入らないように言っておけばいいだろう。何もこのように彼女が癇癪を起こすのは初めてではない。
「……それでは、───いい夢を」
トーマスは振り返らずに部屋を出て行った。
読んでいただき、ありがとうございました!




