10.ずっと欲しかった
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『親の分までお前が――ん? どうした、何故泣くんだ』
ずっと受け続けて来た虐待拷問によりげっそりとやつれこけた頰を、滂沱の涙が流れ落ちていく。
自分に向けられることはないと思っていた言葉、優しく抱き上げてくれる腕、温かく労ってくれる声。とうの昔に得ることすら諦めていたものを、彼はこの一瞬で全てくれた。
ああそうだ、彼はアリステルが欲しいものをくれると言った。望むことを叶えてくれるとも。
欲しいもの。自分が欲しいもの。自分の望み。サーシャの衣食住と安全、幸福な未来。他には――
『俺は何か変なことを言ってしまったかな?』
「あ……んな、やつらっ……」
若干慌てている邪神に、アリステルはしゃくり上げながら返した。涙と喘鳴が絡まり、上手く発せない声を、邪神は的確に聞き取ってくれる。
『あんな奴ら親じゃない、人の皮をかぶった化け物? 自分に親はいない、ずっとお父さんが欲しかった、俺に父親になって欲しい?』
(あ……言い過ぎたかな)
自分が欲しいもの。望むこと。それを考えた瞬間、ポロリと言葉が零れ落ちていた。あんな化け物じゃなくて、父親が欲しいと。だが、さすがに出すぎた発言だったかもしれない。彼とは今ここで知り合ったばかりなのだから。
調子に乗るなと怒られるかもしれない。背筋が冷たくなりかかったが、返された応えは相変わらず寛容だった。
『……うん、よし分かった。俺がお前の父親になろう』
「え……良いん、ですか?」
『良いぞ、父親代わりだろ。召し出した以上、俺がお前の後見だ。だったら父親代行くらい追加したって問題ない。存分に甘えてくれ』
大らかに笑う邪神を見て、ふと考える。邪神が父親代わりになってくれたなら、鬼神は母親代わりになってくれるだろうか。だがそう思った瞬間、何故かその気持ちは違うと打ち消した。まだ見えたばかりなので断定はできないが、鬼神に対して抱くのは母性ではなく、もっと別の想いだ。
……実を言えば、これはアリステルの前世から持ち越した感情であり、前の世で鬼神を一目見て相思相愛になったことによる愛慕と恋情なのだが、今の時点でそれが分かるはずもない。ただ、鬼神に母親になって欲しいと望むのは違う、ということだけは本能的に理解できた。
『なぁ、アリステル。弟分のことじゃなく、お前自身の願いはもっとないのか? 父親代わりは俺がなってやるとして、他のことも望んで良いんだぞ』
重ねて聞かれ、アリステルは束の間沈思した。
「天界に来た時……暗い道に案内されたけど、別の方はすごくキラキラしていました」
『ああ、ここは悪神のエリアだからな。お前の感覚でキラキラしてるように見えたのが、一般的な神がいる区画だ』
アリステルが鬼神に連れられて天に来た時、暗い場所の入口まで迎えに出ていた邪神が、そのまま自領に転移させてくれた。悪神の共有領域を通るのは、今のアリステルには辛すぎるだろうから、と。
「……僕とシスは、あっちの綺麗な方に行けないんですか?」
『んー』
かなり失礼な質問である。『ここは綺麗ではない』と言ってるのと同義なのだから。だが、まともなコミュニケーションや対人関係を築いて来なかったアリステルは、その辺りの認識が曖昧だった。そして相手の価値観に寄り添う邪神も、それを理解した上で呑み込んでくれる寛容な神だった。……同胞限定でだが。
『元人間のお前が来るというから、かなり改造したつもりなんだが、まだ暗いかな』
そう言えば邪神の領域に入った瞬間、鬼神が驚いた顔で周囲を見回していた。もしや相当人間仕様に変えてくれていたのだろうか。悪神の神域は地獄そのものの恐ろしさらしいので、本来はこんな易しいものではないのかもしれない。
『ちょっと待っておれ、もっと人間に寄せた内装にするから驚かんよう、アイに念話しておく。俺の従神たちがいる場所は悪神仕様のままにするとして、変えるのはこの食堂とあそことあの部屋と……よし、これならどうだ』
声と共に、食堂の様相がガラリと変わった。黒と赤黄を基調にした広い室内。天上のシャンデリアからは神威の光が煌々と溢れ、床や壁は大理石のように輝いている。白いクロスがかかったテーブルには豪奢な花瓶が置かれ、椅子は座り心地が良さそうな肘掛け付きの物に変わっていた。重苦しかった空気が一気に軽やかになる。
「わあ、すごい……!」
アリステルは感嘆の目を食堂に一巡させる。壁際に配置された調度や絵画、置物なども、上質で気品を感じる物ばかりだった。
「綺麗な場所とおんなじだ。すごくキラキラしてる……」
全体的な色彩や花瓶の花々を見れば黒が多めなので、それなりに重厚感はあるが、上品で高貴な雰囲気と考えれば上手くマッチしている。
『すまない、アリステル。お前は鬼神様の愛し子で俺に召し出されたから、悪神のエリアで生活しないといけない。お前基準で綺麗な場所にも行けるんだが、そこで暮らすことはできないんだな。だから俺の神域をキラキラにしてみた。どうだろうか?』
「すごく素敵です」
『気に入ってもらえたかな?』
「はい!」
『それは良かった。で、望みはもっとないのか。何でも聞いてやるぞ』
そう言って、誰よりも恐ろしい存在であるはずの邪神は、誰よりも優しく笑ってくれた。
ありがとうございました。




