後編
カッセル=ブルーナに妻、ジェナの生家であるフレンドリナ家の当主からとある手紙が送られてきたのは遡ること約一年。
貴族的に遠回しな文章で形成されたそれは要約すれば妹を帰して欲しい訴える手紙だった。
その手紙を手にカッセルの頭にとっさに浮かんだのは焦りだった。いつか来るだろうその手が思ったよりも早かったのだ。
こうなる前にどうにか対処しようとそう思ってはいたものの、時間はいつまでも行動を起こそうとはしないカッセルの身を引きちぎるかのように刻一刻と等間隔に刻み続けていた。
そしてその手はもうすでに背後まで迫ってきていたのだ。
この手紙をカッセルが受け取る一カ月ほど前、フレンドリナ家の当主はジェナの父から兄へと変わっていた。
カッセルがジェナの兄と対面したのはたった一度。形式的に行われた結婚式の席だった。娘の存在を持て余していた彼女の父とは違い、彼がジェナへ向ける視線は愛する家族へ向けるそれだった。
カッセルが身内の誰にも向けられたことのない視線を受けるジェナにカッセルはほんのわずかに興味を引かれた。
初めは他の令嬢と何も変わらない、ただの少女としか思わなかった。
特別美しくもなければ賢くもない。ただ身分だけが釣り合いの取れる女だった。
未来を約束された、宰相という職に身を腰掛けたカッセルにはジェナ以上に自分を上手く魅せる技を身につけた女や彼と並んでも恥ずかしくないだけの才を持った女が次々に寄ってきた。それはもうよくもまあ飽きずに送り込んでくるものだと呆れを通り越して感心するほどには。
だからこそなぜブルーナ家がこの女を妻に据えたのか理解が出来なかった。
むしろ宰相として生きていく覚悟を決めたカッセルには邪魔な存在に思えることもあった。
それは宰相になると家族に掛け合った時に出された言葉が原因だった。
「何のためにフレンドリナの娘を婚約者に据えたと思っているんだ!」
その時初めてカッセルは自分に婚約者がいることを知った。
そしてそれが公爵家の中で唯一、時代の流れに身を乗せていくフレンドリナの娘であることを。
カッセルは現在ブルーナの次期当主として勉学に励む弟、セレンの能力を高く買っていた。5つも歳の離れた弟は未だに思慮の浅いところはあるものの、人を思いやるだけの心の広さがあると。彼ならば情勢がどう変わろうがブルーナ家と支えてくれる使用人達を導くことが出来ることを信じて疑っていなかった。そして弟こそが変化を好まぬブルーナを変えてくれる人だと。
だからこそカッセルはブルーナの次期当主としての地位は捨て、国のためという尤もらしい言い訳を掲げ、宰相の職に就いた。
今でこそ天職だと感じるその職だが、理由はただ弟に当主の座を押し付けたかったがために違いないのだ。
そしてジェナはカッセルが思い描いたことを実行するには邪魔な存在だったのだ。
カッセルがフレンドリナの娘を、ジェナを好ましく思っていないのを察してか、彼が高等学校を卒業するとすぐにブルーナは彼女をカッセルの妻として迎えた。フレンドリナはそれを拒むどころかブルーナと協力して事を推し進めた。
そして気づけばジェナ=フレンドリナはジェナ=ブルーナへと変わっていた。
屋敷に来てから初めて顔を合わせたジェナは金遣いが荒いわけでも、ワガママなわけでもなかったが、それでもカッセルにとっては邪魔な存在でしかなかった。
彼女がいる限り、ブルーナは家のために子を成せと迫ってくるのだ。そしてその子どもをブルーナに渡すようにと。
それは聡いカッセルの子を彼と同じように育て、当主の座を継がせるためだろうと容易に想像がついた。
だからこそカッセルは一度だってジェナを抱こうとは思わなかった。
そしてカッセルはブルーナがいつまでも子を成さない彼女を見限るまで待てばいいとただひたすらに時間が経過するのを待った。
そう決めたカッセルはブルーナの嫁に選ばれてしまった可哀想な少女に憐れみだけを向けた。
だがある日を境にカッセルがジェナへと向ける感情は憐れみだけではなくなった。
きっかけは仕事後にとある公爵に誘われ酒を飲んで帰ったことだった。
付き合いで飲むことなど別段珍しくもなく、自分を忘れるほどアルコールに溺れるようなことはなかった。
その日も馬車を降りた後、しっかりと自分の足で部屋へと向かった。
途中、過ぎるはずだったリビングから光が漏れているのが気になったカッセルはこんな遅くまでジェナは起きているのかと訝しんだ。
若い女が起きている時間ではないと、部屋へ戻るように諌めてから自分も寝室に戻ろうと思いたったのだ。
よくよく考えればそんなこと、使用人に声をかけて終わりにすれば良かったのだ。
それでもカッセルがこのような行動を起こしたのは彼の中に彼女への憐れみの気持ちがあったからだろう。
リビングへと足を向けたカッセルの目に入ったのは、ソファへ身体を預けて目を閉じるジェナの姿だった。
その姿は彼女の色素の薄い肌や髪と相まって、生気を感じ取ることが困難になっていた。カッセルは目を見開いてから彼女の首筋に手を伸ばした。
「生きてる……」
指先から伝わってくる微かな振動が彼女の生を示していることにカッセルは息することすら忘れていた自らの身体に再び酸素を送り込んだ。
そして確かに彼女がここで生きているという証から手を離しがたく思ったカッセルはもう一方の手も彼女の首にゆっくりと添えた。
確かに伝わる体温と振動にカッセルは囚われた。
一度だってしっかりと見つめたことすらなかった少女は聞かされていた年齢よりも幼く見え、そんな彼女がブルーナ家という欲深い人間に利用されていることにひどく苛立ちを感じた。そしてそれと同時に彼女を愛おしくも感じた。
未だかつて誰にも抱いたことのなかった感情を、カッセルは他ならぬ妻となった少女に抱いたのだ。
それは元より向けていた憐れみと、幼い少女を慈しむ気持ちが混ざり合って出来たもので、愛する女に向けるものとは違った。
けれどカッセルはその時確かに少女を愛しく思ったのだ。
それからカッセルはジェナをよく観察するようになった。
そして一つ、気づいた。
カッセルが屋敷を発つ度にジェナの瞳から光が失われていくことに。
真夏の海のようによく澄んだ瞳は光の届かぬ深海のように蒼く染まるようになったのだ。そのくせカッセルの視線に気がつくとすぐに何もなかったかのように取り繕う。
そんな僅かなことにさえもカッセルの心は動かされた。
屋敷というひどく狭い場所に閉じ込められた少女が自分の行動に一喜一憂しているのだと思うと心が踊るのだった。
いつしかカッセルは自分よりも小さな少女を囚えておきたいとさえ願った。
欲深いブルーナさえも利用して、彼女を自分の元に縛り付けておきたいと。
だからこそカッセルは一通の手紙に動揺した。
彼女を誰かに取られてなるものかと独占欲が疼いたのだ。
だがカッセルは彼女を確実に自分の元に縛り付けておく方法を知らなかった。
彼は一度だって家族から愛を向けられたことはなかったし、寄ってくる女でさえも心から彼に惹かれてはいなかったのだ。
初めは一通だった手紙は、何の行動も起こさないカッセルに苛立ってかまた一通、もう一通と送られてくる。
どれもやはり妹を実家に帰してほしいと願う手紙だ。
子を成せない妹をこのまま宰相殿の妻として居させるのはフレンドリナとしても心苦しいといいながら、ジェナを愛することが出来ないカッセルを責め立てるような手紙。
永遠と信じていたジェナとの生活に終わりを告げる手紙。
そして残された時間が僅かであったカッセルはとあることを思いついた。
それはジェナを永遠に縛り付けておくための方法だった。
彼女が永遠に他の男の元にいかないための、愛する方法を知らないカッセルができる方法。
規則正しく寝息を立てる彼女の首を絞め、二度とこの屋敷から出れないようにしてしまえばいい。
あの夜、ジェナの生存を確認した手に少しだけ力を込めればすぐに彼女の細い首は酸素を送る機能を停止させることだろう。
……だがカッセルはそれを実行するよりも先に彼女の目を見てしまった。
深海のように深い蒼ではなく、カッセルを見つめてくれる、わずかに和らいだ青い瞳を。
添えられただけの手はやがて彼女の首から滑り落ちた。
そしてカッセルはたった一つだけ思いついた彼女を縛り付けるための、彼女を殺す方法さえも実行することが出来ずに部屋へと帰るのだった。
あれから一年が経過する今もカッセルは一度だって彼女の首を絞めることは出来ずにいた。
そしてついに昨日、ジェナの兄から近々妹を引き取りにいくとの手紙が送られてきた。すでにブルーナからは了承を取っているのだと添えて。
結局カッセルは一年の猶予を与えられながらも彼女を繋ぎとめておくことは出来なかったのだ。
それでもカッセルは今日もまた彼女の首に手を添えた。殺すことすらできないくせに手をかけるのは彼女の瞳に見つめてほしいからだろう。
そして何より彼女の口から「また、明日がありますわ」と聞きたかったのだ。あるか分からない二人の明日を望んでくれているようなその言葉を。
近々ジェナは彼女を想う兄によって、彼女を愛してくれる、きっと身分以外の何もが彼女に釣り合う男の元へと行くのだろう。
身分しか釣り合わない、愛を伝える術を知らないカッセルを残して。
数日後、カッセルが仕事から帰宅するとすでにジェナの姿は屋敷から消えていた。フレンドリナの使いが来て、彼女を連れて帰ったのだ。
カッセルは主が居なくなってしまった部屋へと足を向けた。
そこには何も残ってはいなかった。否、元より憐れな少女以外の何もなかったのだ。
そしてようやくカッセルは気づいた。
彼女には何をしてやることも出来なかったという事実に。
「ジェナ……」
カッセルはその日、初めて妻の名前を呼んだ。
ジェナのものとは似つかない、己の太い首に手をかけて。
もうそこにはいない、殺すことのできなかった少女の名前を、愛おしい少女の名前を何度も口にするのだった。