第4話「坂と石段の街」
海風が大分冷たい季節になった。
蒸気船は大陸の海岸線に沿って走る。
港から港へ、内陸へは蒸気自動車で移動し、宿を起点にして周辺の蒸気機関の保守を行う。
「よかったらこれあげる」「新しいの買ったから、お古でごめんだけど」
そう言って、フレアがゴーグルと呼んでいる保護眼鏡をくれた。
「いいの? ありがとう」
蓮要はとても嬉しかった。
が、乗組員の中でフレアに憧れている女の子マチェルが、
「フレアねぇちゃんのゴーグル私が欲しかったのに!」
フレアがなだめる。
「ごめん。もう蓮にあげちゃったから。また他の時にマチェルにあげるよ」
涙目のマチェル。蓮要は思わず、
「良かったらマチェルが使って。きっと私より似合うよ」
マチェルの顔が輝く。
フレアは蓮要の顔を見て、
「あんた。いつも誰かに譲っちゃうよね」
「せっかくくれたのに、ごめんなさい」
「今回はまぁいいけど。それされると、あげた方も傷つくよ」
やり取りを見ていたフラムが言う。
「それに、今マチェルは”我慢する”っていう練習中だからね」
蓮要は思う。
誰かに譲ってもどっちかが傷つく。誰も傷つけたくないのに。
でも、きっとマチェルなら、大事に使ってくれると思う。
今までも、大変な思いをして手に入れても、私よりももっと、”それ”がほしいっていう人がいたら、いつも譲ってしまってた。物も立場も。
でも、譲った相手がそれを粗雑に扱ったり、壊れたからってそれを返してきたら、悲しい気持ちになる。自分であげたくせに。
相手のせいにしたり、怒ったりは違うような気がして、その矛盾にまた自分を責める。
「あんたね。その考え方はおかしいよ。なんで人の感情の責任まで背負おうとしてんの!」
フレアはそう言いつつも、怒っているわけではなかった。
ただただ、あきれていた。
「ま、良いから仕事行くよ!」
今度の宿は、坂と石段の多い港町だった。
仕事は、街はずれの建物の修繕だった。古い倉庫を建て直している現場で、蒸気仕掛けの巻き上げ機がうまく荷を上げられないという。
フラムが機械を見て、フレアが図面を引く。蓮要は二人の後ろをついて回った。
現場は足場が組まれていた。
材木と縄で組まれた何段もの足場。その上を作業員たちが石材を運んでいる。下では巻き上げ機が唸りを上げて大きな石を吊り上げていた。
蓮要はふと足を止めた。
足場を見上げた。
何もおかしなところはない。みんないつも通りに働いている。石が上がり、人が動き縄が軋む。
足場のすぐ横を、荷を抱えた人が通り過ぎる。
なのに、見えた。
縄が一本湿っている。下で巻き上げ機が吐く蒸気がずっとそこに当たっている。湿った縄は張る。
足場の左の柱に重さが寄っていく。その柱は地面のぬかるみに、片足だけ深くめり込んでいた。
次に大きな石が上がる。柱がもう一度沈む。
そうしたら――
蓮要の頭の中で順番が一息に組み上がった。
蒸気で濡れた結び目がすべって横木の縛りがずれる。
柱が傾く。横木が外れる。二段目が落ちる。その下に今、人がいる。
「危ない!!!」
気づいたら叫んでいた。
「その柱から離れて! 上の人も! 今すぐ!」
声が自分のものとは思えないくらい大きかった。
現場の手が止まった。何人かがきょとんと蓮要を見た。だが足場の上で石を抱えていた若い男が、とっさに身を引いた。
その瞬間だった。
ぎ、と縄が鳴った。
左の柱がぬかるみに沈んだ。横木が一本すべり落ちた。二段目の足場が傾いて――崩れた。
たった今まで男が立っていた場所に、材木と石が降り注いだ。
土埃が上がった。
誰も下にはいなかった。
現場が静まり返った。
それから、悲鳴とも歓声ともつかない声があちこちで上がった。
蓮要はその場に立ち尽くしていた。
心臓がすごい速さで打っていた。手が震えていた。
『...どうして分かったんだろう。』
崩れる順番が見えた。それはいつものことだった。だが今のは違った。
「その柱から離れて。」
と自分は言った。なぜ、あの柱だと分かった。なぜ、人が下にいると分かった。なぜ、今すぐだと分かった。
考えて言ったのではない。
口が勝手に動いた。まるでその崩れ方を前に一度見たことがあるみたいに。
知らないはずのことを、体が知っていた。
背筋が冷たくなった。
助けられた若い男が駆け寄ってきた。何度も頭を下げた。蓮要は、うまく言葉を返せなかった。
人だかりができはじめていた。
「行くよ。」
フレアが蓮要の腕を引いた。
「あんたが目立つと、面倒なことになる。」
人混みを抜けて路地に入った。フラムは少し離れてついてきていた。崩れた足場のほうを一度だけ振り返って、何か考えるような目をしていた。
路地の途中でフレアが足を止めた。
蓮要のほうを見た。
いつものからかいの色はなかった。蓮要の顔を静かに見ていた。
「ねえ、蓮。」
「...うん。」
「あんた、今の。」
フレアは少し言葉を選ぶように間を置いた。
「経験してないはずの失敗を、先に知ってたよね。」
蓮要は何も言えなかった。
その通りだった。自分でもたった今、それがこわかったところだった。なぜ知っているのか分からない。誰かに教わったのでもない。本で読んだのでもない。
ただ知っていた。
「...分からない。」
蓮要は震える手を握った。
「見たら、分かっちゃって。でも、どうして分かったのかは分からない。前に見たことあるみたいに...でも、見たことないのに。」
うまく言葉にならなかった。
フレアはそれ以上は聞かなかった。
しばらく蓮要の顔を見ていた。それからふっと表情をゆるめた。
「ま、いいや。」
蓮要の頭をぽんと軽く叩いた。
「あんた、やっぱり面白い。」
その「面白い」がフラムの言う「面白いな」と少し違う響きを持っていたことに、蓮要は気づかなかった。
フラムが追いついてきた。
蓮要には見えない角度で、双子が目を合わせた。
ほんの一瞬だった。何も言葉は交わされなかった。
夕方、蒸気船に戻るとフラムが”ナッツ”と言われる、色々な種類の木の実が混ざったものを食べていた。
ポリポリ、と良い音をさせている。
「蓮も、良かったら食べる?」
「ありがとう。」
と言って、差し出されたフラムの手のひらの上のナッツをもらう。
口の中でポリポリと軽い音がする。
「フラムって、よくリンゴやナッツ食べてるよね。好きなの?」
フラムは少し考えてから、
「...ん。歯ごたえが好きなんだ。口の中で形が変わっていく感触も良いよね。」
と、よくわからないことを言っていた。
霧の向こうに夕日が沈む海を、蓮要とフラムが、ただ並んで見ている。
お互いに何も話さない。言葉は無くても、隣にいることが当たり前のような感覚。
男の人が怖いと感じる時がある。でも、フラムとはなぜかいつも安心していられる。
二人の間にフレアが入って、抱きついてくる。
フレアの腕が、二人の肩をしっかりと抱きしめる。
三人で笑いあう。
『旅に出てよかった。二人とも大好き!』




