第5話「花吹雪の夢」
旅に出て初めての冬が来た。ヒウミの冬は深い。
船を泊めた街は屋根まで雪に埋もれていた。
朝、目を覚ますと世界が白かった。
窓の外は降っているのか、積もっているのか分からないくらいの雪だった。
その夜、蓮要は夢を見た。
小さなかけらがたくさん舞っていた。雪に似ていた。けれど白くなかった。
薄い赤。朝焼け色でもない。見たことのないやわらかい色。
風に乗って頬を撫でていく。すごくいい匂いがした。何の匂いか分からない。
けれど、ずっと昔から知っている気がした。
かけらの一枚が手のひらに落ちた。
それは花びらだった。
窓の外は雪だった。昨日と同じ白い冷たい朝。夢のあの色は、どこにもなかった。
蓮要は、しばらく天井を見ていた。あの、あたたかい薄い赤。胸の奥にまだ残っていた。
フラムが、蒸気暖房機の横で細い竹の先端を小刀で削っていた。
竹の硬筆を作っているのだ。見る見るうちに、まるで売り物のような硬筆が削りだされていく。蓮要が隣に座って、その器用な手つきを眺めながら話しかける。
「夕べね」「すごくきれいな夢を見たんだ」
「へぇ、どんな?」
「雪? じゃないんだけど、小さなかけらがたくさん舞っていて、すごくいい匂いがするなって思ったら、その雪みたいなのは花びらだった。よく見たらすごく薄い赤? 朝焼け色? じゃないな。なんか、見たこともない色の花だった」
「……桜、じゃないかな」『でも、ここに桜は……』
「さくらって言うんだ」
「じゃさくら色? きれいな夢だったな……」
「フラムは世界中旅してるから、やっぱり物知りだね」
「……まあな」
その日の仕事は、街の時計塔だった。街の真ん中の広場に立つ古い塔。
てっぺんに大きな文字盤があって、内側で蒸気仕掛けの歯車が時を刻んでいる。
その鐘が、もう半年も鳴らないのだという。
塔の下で世話役の老人が待っていた。
「もう、寿命なんだろうってみんな言うんだ」
老人は塔を見上げた。
「直すより新しいのを建てたほうが早いって。お上もそう言ってる」
フラムは塔の中に入り、しばらく歯車を見ていた。フレアは外から塔の傾きを測っていた。
蓮要は二人の間を行ったり来たりした。
「フラム、どう?」
「うーん」
フラムは油で汚れた手を拭いた。
「歯車はまだいける。けど鐘を打つ槌の心棒が折れてる。これは同じものがもう手に入らない。昔の鋳物で、今はこの型を打てる職人がいない」
「新しいの作れないの?」
「作れなくはないけど、型から起こすと広い家が一軒建つくらい金がかかる」
蓮要は塔のてっぺんを見上げた。
鳴らない鐘。
それでも塔は立っている。文字盤は半年前で止まったまま同じ時刻を指している。
蓮要はその止まった時計をしばらく見ていた。
その日の昼、蓮要は一人で広場を歩いた。
鳴らない時計塔の下に人が集まっていた。
雪をかいて火鉢を囲む者がいた。焼き栗を売る女がいた。
子どもが雪玉を投げ合っていた。みんな塔の足元でそれぞれのことをしていた。
蓮要は気づいた。
誰も塔を見ていない。誰も、てっぺんの止まった文字盤を見上げていなかった。
鳴らない鐘のことを気にしていなかった。みんな塔の足元で当たり前に暮らしていた。
塔は、時を告げなくてもそこに立っているだけで人を集めていた。
夕方、塔の中に戻った時、蓮要は、そのことをフレアに話した。
フレアは、塔の図面を手元の紙に書き写していた。
「あのね、フレア。鐘って、鳴らないとダメなのかな」
フレアが、竹の硬筆を持つ手を止めた。
「は?」
「広場の人、誰も鐘のこと気にしてなかった。塔が立ってるだけでみんなそこに集まっていて。だから……鐘が鳴らなくても、塔は塔なんじゃないかなって」
フレアは変な顔をした。それから少し笑った。
「あんた、相変わらず変なこと言うね」
「変、かな」
「変。でも、」
フレアは図面に目を戻した。
「嫌いじゃない」
結局、鐘は鳴らせなかった。折れた心棒は直らなかった。
だが、フラムは別のことをした。
止まっていた歯車をもう一度、回るようにした。鐘は打てないが文字盤の針は動く。半年止まっていた時計が、また時を刻みはじめた。
「鳴らなくても、時計としては生きてる」
フラムは油まみれの顔で言った。
「とりあえず、これで」
世話役の老人は動き出した針を見て、しばらく何も言わなかった。
それから、ありがとうと小さく言った。
「鐘は、まあいいさ。あれはわしが子どもの頃からもう調子が悪かった」
老人は笑った。
「動いてるってのが分かりゃあいい。生きてるって分かりゃあな」
蓮要はその言葉が、なんだか胸に残った。
直せないものがあった。でも、直せるところまでは直した。
失われたものを嘆くより、残ったものを大切にする。
それでいいのかもしれない。
蓮要は、また動き始めた針を長い間見上げていた。
——
夜、船に戻るとフレアがナッツの大袋から中身をいくつかの小袋へ分けていた。
そのうちの1つをフラムに投げる。
フラムは高めに投げ上げられた袋を、飛び上がって器用に受け取る。
蓮要はフレアの隣に座って、ナッツの袋を覗き込んだ。
茶色、薄茶、こげ茶。色んな茶色のナッツが入っている。
「ナッツにもさくら色のって、あるのかな」
「えー。そんな色の見たことないよ」
「でもでも、」
「もし、あったらきれいだと思わない?」
フレアは答えなかった。ただ、ナッツを一粒、蓮要の手のひらにのせた。
「ほら、茶色だけど」
「ありがとう」
蓮要はそれを口に入れた。ポリポリと軽い音がした。
少し離れたところでフラムが二人を見ていた。
優しい目だった。




