第3話「旅立ち」
※作品の中に、一部トラウマやフラッシュバック、怪我や心の痛みを感じる表現があります。
フラムと話すのは楽しかった。
旅で見てきた色々な場所の話。蒸気管の仕組みが街ごとに違うこと。ある街では管を地下に通し、別の街では壁の中を這わせている。設計思想が違うと、作られ方も違う。
ヒウミの帝都は北に大規模な蒸気供給所があり、街の中の様々な蒸気機関にそれが送られている。とても大事な設備だ。
蓮要はフラムの話を聞きながら、頭の中に知らない街の形が浮かんでいくのを感じていた。
見たことのない管の配置図が、フラムの言葉だけで組み上がっていく。
合流したフレアは初対面から遠慮がなかった。
「あんた背ちっちゃいね。ちゃんと食べてる?」
「...食べてるよ」
「ふうん。まあいいけど。フラムからあんたの話は聞いてる。蒸気機関の件、やるね!」
フレアの言い方にはフラムとは違う鋭さがあったが、蓮要の話を聞く姿勢は真剣だった。
図書館のひび割れの件も、蓮要がぼそっと話したら「見せて」と言って一緒に見に行ってくれた。
「これ、結構まずいね。館長に言った?」
「言った。でも、取り合ってもらえなかった」
フレアは天井のひび割れをしばらく見上げた後、蓮要と一緒に館長のところへ行った。
フレアが構造的な説明を添えると、館長は少し真剣な顔になった。
「今度の予算で修繕を検討します」
帰り道、フレアが言った。
「あんたが言ったことは合ってんだよ。ただ伝え方が上手くなかっただけ」
蓮要はその言葉を、しばらく黙って噛んでいた。
図書館の仕事、フラムやフレアと過ごす時間、毎日が楽しくて、朝が来るのが楽しみになっていた。
その日フレアと別れ、蓮要が家路に着いた頃、作業を終えたフラムが宿に戻って来た。
「治安部隊の巡回、今日も同じ人が俺を見てた」
「それってさ、結構若くて目つきの鋭い、背の高い人じゃない?|蓮といる時にも何回か見かけた。蓮、全然気付いてなかったけど」
「多分同じ人。なんか、調べてんのかな」
山からの風に冷たさを感じるようになる頃、街は来週行われる秋の収穫祭の準備で賑わっていた。
二人が出発する日が三日後に決まった。収穫祭の前日だ。
フラムが言った。
「蓮も、一緒に来ないか」
フレアも横で頷いている。
「俺たちは、これから国内の他の都市を回る。蒸気機関の保守と点検。蓮の目があれば、もっといい仕事ができる」
蓮要は少し黙ってから、首を横に振った。
「ありがとう。でも行けない」
「なんで?」
理由は一つではなかった。外の世界が怖い。知らない街知らない人。ここなら少なくとも図書館がある。それに...。
「母さんのお墓があるから。ここを離れたくない」
フラムは何も言わなかった。フレアも珍しく黙っていた。
「分かった」
フラムはそう言って笑った。
その夜、蓮要は荷物の整理を始めた。
旅に行くわけではない。ただなんとなく、引き出しの中を片付けたくなった。
古い服、使わなくなった道具、母が使っていた裁縫箱。
裁縫箱は、使い込まれていた。
母は、蓮要の持ち物に可愛らしい花の縫い取りをしてくれた。
「女の子が持つような物は買ってあげられないから、せめてお花だけでも」と。
引き出しの中も、家の中も、笑ってしまうほど物が無かった。
引き出しの奥で、手に何か触れた。
小さな箱だった。
「あ、ここにあったんだ」
蓮要は箱を取り出した。いつ、しまったのか覚えていない。捨てられなかった。開けることもできなかった。ずっと、引き出しの奥で、布の下に埋もれていた。
開けた。片方しかない。
「え...」
片方がない。いつから。泥棒。いや、この家に泥棒が入るようなものは、何もない。落としたのか。いつ。どこで。
蓮要の手が、箱の中の片方に触れた。
指先に金属の冷たさと、精細な意匠の凹凸が伝わった。
その瞬間、記憶が堰を切った。
一昨年、十六歳の早春だった。
幼なじみで二つ年上の|雪凪が「これ」と言って差し出した。小さな箱。
中に繊細な意匠の一対の耳飾り。明らかに職人の手による物。
「雪凪、これ高かったでしょ。もらえないよ」
「いいから」
雪凪は耳まで赤かった。目を合わせられずに横を向いている。
耳飾りを耳につけた。冷たかった。それからじわりと温かくなった。
雪凪がやっとこちらを見て笑った。
「…似合ってる」
「ありがとう」
あの笑顔が好きだった。飾らない、不器用な優しい笑顔。
耳飾りを贈られた翌月、雪凪は遠方の士官学校へ入学した。
全寮制、二年間はなかなか会えない。手紙をやり取りするだけだ。それでも幸せだった。
雪凪が士官学校へ発つ日、耳飾りを着けて駅に行った。
彼の迷惑になる気がして、隅の方からそっと見送った。
雪凪は気付いて、小さく手を上げてくれた。すごく嬉しかった。
雪凪を見送った帰り道、いつも笑顔で話かけてくるおじさんに、路地へ引き込まれた。
必死に声を絞り出した。おばさんが出てきて、おじさんを引き離してくれた。
服を破られただけだったが、震えてその場から動けなくなった。
その時おばさんが言った。
「あんたのせいだ!あんたが来てからこの人はおかしくなった。」
あの言葉が、今でも心の底に残っている。
耳飾りが汚された気がして、箱にしまい込んだ。
破れた服と、掴まれた左手首を見て、母はすぐに察してくれた。
母はすごく悲しい顔をした。
震え続ける蓮要が落ち着くまで、母は
「大丈夫、大丈夫」
そう言って優しく抱きしめてくれた。
この事は、手紙でも雪凪には言えなかった。
今でも、男の人が怖いと感じる時がある。
母から、膨らみ始めた胸を布で巻くこと、男の子のように振る舞うことも教えられた。
髪も短く切った。
「母さんも、若い頃はずっとそうしてきたんだよ」
「蓮要にも遺伝しちゃったんだね。ごめんね」
去年、十七歳の春。
雪凪の母親が訪ねてきた。
上品な人だった。良家の女性らしい所作で、でも一歩も引かない強さがあった。
土間で対面した。母は仕事に出ていて不在だった。
「あの子の為に、どうか分かれてやってほしい」
身分の違い。社会的立場。一族の代表。直系の長男。弟妹への影響。
「あなたが近くにいることで、あの子は苦しむのです」
あの日のあの時と同じ意味の言葉だった。
『私がいる、せいで...』
反論できなかった。反論するための言葉を持っていなかった。
手切金は受け取らなかった。受け取れば雪凪との間にあったものが「そういうもの」になってしまう気がした。
程なくして雪凪本人が来た。別れを告げられた。
精一杯の笑顔を作って言った。
「家族が一番大事だよ。最後まできっと味方になってくれるから」
「耳飾りは捨ててくれ」そう言って、雪凪は士官学校へ戻っていった。
彼が去った後、やりとりした手紙を燃やした。声を殺して泣いた。
母が病気になったのは、去年の秋だった。
薬代がかかった。あの手切金があればと、一瞬だけ思った。そう思ってしまった自分がたまらなく嫌だった。
何も考えたくなかった。稼がなくてはいけなかった。売れるものは全て売り、進修学舎を辞め、できる仕事は何でもやった。男の恰好が幸いして、賃金の良い力仕事ももらえた。
母は冬を越せなかった。
指先が震えていた。
胸のあたりに手をやって。自分で自分に、いつものように「大丈夫、大丈夫」。と言い聞かせる。
蓮要は箱を閉じた。
みんな、もう終わったことだ。
雪凪も明後日には祝言を挙げる。
遠くで、収穫祭のお囃子を練習する音が聞こえていた。
翌朝、蓮要はいつもより早く図書館に行った。
別館の地下、いつもの仕事場。返却本の山はまだ来ていない。
蓮要は薄暗い部屋の片隅の、半分欠けた古い鏡の前に立つ。
誰もいない事を確かめて、花の縫い取りのある小さい手拭いに包んだ、片方だけの耳飾りを取り出す。そっと左耳に着けてみる。
半分割れた鏡に映る自分の顔。短い髪。毛先の緑。耳元に小さな金属が光っている。
これをつけるのは、二年ぶりだった。
午前中に清拭を終えた本を荷車に載せ、本館へ運ぶ。
渡り廊下を押していく。車輪の音が石畳に響く。
前から人が歩いてきた。
長身。完全な銀髪。帝都治安部隊の制服。
『え、雪凪、なんで...』
あわてて耳飾りを手で隠そうとした。
が、一呼吸先に雪凪の視線が蓮要の耳元に。
雪凪の表情が変わったのが見えた。
荷車を回り込んで、こちらに来た。歩幅が大きい。二歩で距離が詰まった。
伸びてきた手が、左手首をつかんだ。
瞬間、頭が真っ白になる。
「いきなり触らないで!」
反射的に言っていた。自分でも驚くほど強い声だった。
雪凪が手を離した。
「や、ごめん。でも、それまだ...」
雪凪は笑っていた。恋人同士だった頃の、二年前と変わらないあの不器用な笑顔で。耳まで赤くして。蓮要の胸の奥で、閉じたはずの蓋が軋んだ。
雪凪の母親の言葉が脳裏によみがえる。
–あなたが近くにいることで–
『...ダメ!』
目を伏せる。手の、声の、震えを必死に抑える。言葉を絞り出す。
「...雪凪、ご祝言、おめでとうございます」
雪凪の笑顔が凍ったのが気配で分かった。
それから傷ついた顔になった。傷ついたことを隠そうとして、隠しきれていなかった。
「...ありがとう」
それだけだった。
雪凪の背中が見えなくなっても、蓮要はその場を動けなかった。
その日の夕方、蓮要はフラム達の宿を訪ねた。
「一緒に行く。旅に出る」
フラムは驚かなかった。少し間があって頷いた。
「いつ出られる?」
「明日」
フレアが奥から顔を出した。
「明日って。荷造りは?」
「あんまり、持っていくものがない」
フレアは何か言いかけてやめた。蓮要の顔を見て、何かを察したのだと思う。
「分かった。港に来て。昼前には蒸気船が出る」
翌朝、まだ暗いうちに蓮要は図書館に行った。
館長はもう来ていた。朝が早い人だった。
「館長、急なお話で申し訳ありません。旅に出ます。お世話になりました」
館長は蓮要の顔をしばらく見た。
「そっか。気をつけて。体、大事にしてね」
あっけなかった。館長は少しホッとしたように見えた。
蓮要は一礼して図書館を出た。
家の前に張り紙をし、戸を開け放つ。
「中の物は必要な方に差し上げます。大事に使ってください」
物が無くなった頃に次の入居者が入る。このあたりでは時々ある方法だ。
今月分の家賃は数日前に払ってあった。鍵も返した。
低層街の外れ。街道から逸れた小道を登った先に、小さな墓地がある。
母の墓は一番奥にあった。
墓石は小さい。名前と日付しか彫っていない。蓮要が稼いだ金では、これが精一杯だった。母の好きだった花が一株、寄り添うように植えてある。
墓前にしゃがんで手を合わせた。
何を報告すればいいのか分からなかった。旅に出ること。知らない街を回ること。一緒に行く人たちのこと。
言葉にならなかった。ただ手を合わせて目を閉じた。
風が吹いた。晩秋の冷たい風だった。
立ち上がって墓地を出た。
小道を下り街道に出る。街道沿いに歴史の長い料亭がある。
格式の高い、蓮要が一度も入ったことのない店。
今日、この中で雪凪の祝言が行われる。
中は見えない。門の前に飾りが付けられている。松と紅白の布。正装した人の出入りがある。
蓮要はそのまま料亭の前を通り過ぎた。
足は止めなかった。振り返らなかった。
整えられた室内。
雪凪は、形式的な祝言の場にいる。
相手の人柄、性格、容姿、何の問題もない。父も母も満足している。
弟妹たちも晴れやかな顔をしている。
言葉は整っている。関係も整っている。未来も保証されている。
「雪凪さん」
隣の声で意識が戻る。
杯を交わす。口上を述べる。形式に沿った所作を体が自動的に行う。
蓮要の細い手首、翠玉色の瞳、髪、耳元の光が、まだ目の奥に焼き付いている。
触れた時に感じた、香のような花のような匂いも。
港。
中型の蒸気船が停泊していた。
フラムとフレアが船の上から手を振っている。
蓮要は桟橋を渡った。持ってきた荷物は小さな風呂敷包み一つだけだった。
船に上がるとフレアが袋を差し出した。
「そのひらひらした格好じゃ目立つし、動きにくいでしょ? 上だけでもこれに着替えて。男物の方がいいんだよね?」
蓮要はフレアの顔を見た。
「...フレア、知ってたの?」
フレアは微笑んだ。
「何か事情があるんでしょ?」
蓮要の目が潤んだ。唇を噛んでこらえた。
「ありがとう。フレア」
個室を借りて服を着替えた。
白い衣はシャツ、小さな歯車の装飾がついた、袖の無い革の羽織り物はベストと、フレアが呼んでいた。
ヒウミの民族衣装を模した図書館の制服を脱ぐ。畳んで椅子の上に置く。袖を揃え襟を整える。丁寧に。それを見下ろした。
これまでの自分の形をした布が、椅子の上に四角く折り畳まれている。
白いシャツに腕を通す。革のベストを羽織る。ガラス窓が付いた扉に姿が映る。
甲板に出るとフラムが口笛を吹いた。
「お、似合うじゃん」
蒸気船の汽笛が鳴った。船体が揺れ桟橋から離れていく。
蓮要は、船尾に立って遠ざかる港を見た。
低層街の屋根が小さくなっていく。図書館の煙突が見えた。その向こうに街道沿いの料亭の屋根があるはずだったが、もう見えなかった。
風が強くなった。
蓮要は港に背を向けた。
前方に広がるのは、見たことのない海だった。




