世間ではそれは悪と呼ぶのか
「あなたが……レイフ様の、お母様……?」
少女は川の中に足をつけたまま、呆然とリアを見つめた。冷たさすら忘れてしまうほどの衝撃が、彼女の全身を駆け巡る。
リアはゆっくりと歩み寄り、少女の前にそっと手を差し出した。
「さあ、冷たい水から上がりなさい。あの男たちのために、あなたがその美しい命を擦り減らす必要なんて、どこにもないのですから」
その温かい手に引かれ、少女は引き寄せられるように川から上がった。濡れた足元を、リアは自分の上着で優しく包むように拭ってくれる。そのほんの少しの温もりが、館の誰からも与えられなかった優しさが、少女の瞳から大粒の涙を溢れさせた。
「レイフ様は……レイフ様は私に、お母様が自分を『使い』と呼んで責任から逃げていたと……そう仰いました。私は、それを信じて……」
「ええ、あの子はそうやって、自分の傷を美化しなければ生きていけなかったのでしょう。都合の悪い真実はすべて心の奥底に沈めて、自分を『可哀想な英雄』に仕立て上げた。あの子の父親や祖父母が、そうやって生きてきたようにね」
リアはポケットから、ハンカチに包まれたあの小さな木の実を取り出した。長年大切に持っていたため、少し色褪せているが、不思議なほど温かみを持った木の実だ。
「私はこの家を出てから、北の実家へは戻らず、遠くの街で小さな仕立て屋を開いてひっそりと暮らしています。身分も名誉もありませんが、そこには私を『置物』や『使い』として扱う人は誰もいません。毎日、自分のために笑い、自分のために生きられる……とても静かで、温かい場所ですよ」
リアは木の実を少女の手のひらにそっと乗せ、包み込むように握らせた。
「お嬢さん。あなたの心はまだ死んでいない。あんな呪われた檻に戻ることも、ここで命を絶つこともありません。もし望むなら、私と一緒に来ませんか? 稀代の悪女と、その悪女に拾われる哀れな嫁――ふふ、世間がどんな物語を作るか、想像するだけで痛快だわ。きっと素晴らしい歪で、優しい嘘にまみれた物語を作ってくれるわ」
少女は、手のひらの中の木の実を見つめた。それは、かつてレイフが持っていた、本物の、偽りのない純粋な愛情の破片だった。
しかし、今のレイフはその温もりを忘れ、空虚な称賛の中で生きている。
少女は涙を拭い、リアの真っ直ぐな瞳を見つめ返した。
もう、あの冷え切った館に戻るつもりはなかった。英雄の妻という、飾られただけの偽りの幸せもいらない。
「はい……。私を、連れて行ってください、お母様」
少女が初めてそう呼んだとき、リアの表情に、かつてレイフが「忘れることができない」と言った、本当の優しい笑顔が咲いた。
二人は馬の手綱を引き、鬱蒼とした森の奥へと歩き出す。
背後に残した「英雄の国」では、今頃、消えた妻を巡ってまた新たな『悲劇』が仕立て上げられていることだろう。しかし、二人がその呪いに囚われることは、もう二度となかった。




