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悪女な母と英雄と  作者: 午前1時
母親と悪女

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5/7

英雄の妻

美談の真実を知る者は、誰もいなかった。


英雄レイフと結ばれたあの少女もまた、自分がどのような檻に足を踏み入れたのか、その時は知る由もなかったのだ。


結婚して間もなく、少女の幸福な夢は、静かにしかし確実に侵食されていった。


始まったのは、かつてリアを追い詰めたものと、まったく同じ「無視」と「拒絶」だった。

夫となったレイフは、戦いや公務、そして民衆からの歓声を浴びることに忙しく、屋敷に戻っても妻である彼女に視線を向けることはない。

恋人時代に温かい家庭の理想を語り、愛を囁いてくれたのは、手に入れるまでのこと。

今の彼にとって、妻は「英雄の家庭」という美談を完成させるための、ただの綺麗な置物に過ぎなかった。

その他の家族である祖父や使用人も同様だった。

彼らは少女を歓迎するどころか、彼女が何かをするたびに、あからさまに嫌悪の表情を浮かべ、冷淡な顔で「結構ですよ」と告げる。


何かを壊したわけでもないのに、彼女の前でこれ見よがしに深い溜息をつき、「これだから他家の娘は」「なんと情けない」と、わざと聞こえる声で囁き合った。

屋敷の使用人たちも、主たちの空気を敏感に察していた。生きるために必要な手助けはするが、彼女の話し相手になったり、一緒に笑い合ったりする者は誰一人としていない。

少女は、いつの間にか広大な館の中で完全に孤立していた。


ほんの少しの温もりすら手にすることができない日々。

昨日まであったはずの心が、毎日少しずつ、削り取られるようにして死んでいく。


(ああ、私はここに、いらないものなのだわ……)


夫に話そうとしても、振り払われる。彼女の父や母は英雄の妻になったのだから、我慢しなさいというばかり。

逃げ場のない孤独に狂いそうになったある日、少女は衝動的に馬を駆った。


冷たい風を浴びながら、彼女は疾走する馬のスピードをさらに上げた。このまま、この狂った世界から消えてしまいたい。その一心だけが彼女を突き動かしていた。

どれくらい走っただろうか。

気づけば、見たこともない知らない森の中へと迷い込んでいた。

木々が鬱蒼と生い茂る静寂の中、どこからか、さらさらと水が流れる音が聞こえてくる。音に導かれるように進むと、そこには美しい川が流れていた。

澄んだ水面を見つめているうちに、少女の心には「消えたい」という思いが澱のように広がっていく。この川の中に深く深く沈んでしまえば、この苦しみから解放されるのだろうか。


少女は馬に向かって、震える声で「どうどう、いい子ね……」と優しく声をかけながら、ゆっくりとスピードを落とした。そして地面へと降り立つ。


引き寄せられるように川べりへと歩み寄り、少女はゆっくり、ゆっくりと、片足を水の中へつけた。


「っ……」


あまりにも冷たい水だった。

肌を刺すような冷気。だが、このままこの冷たい水に全身を浸していけば、これまでの孤独も、凍りついた館の日々も、全てを忘れられるような気がした。

少女がもう一歩、深い底へと足を踏み出そうとした、その時――。


「――およしなさい。そんな風に命を投げ出しても、あの人たちは『気まぐれに逃げ出した悪女』として、あなたをなじるだけですよ」


そんな彼女を引き留めるように静かな声が響いた。


驚いた少女が弾かれたように振り返ると、川の傍ら、木々の隙間に一人の女性が佇んでいた。


その女性は、かつて世間が噂したような「派手でだらしのない娼婦のような姿」などでは決してなかった。

身にまとっているのは、質素だが仕立ての良い、落ち着いた衣服。その佇まいは、貴族のそれよりもはるかに気品に満ちていた。


女性は、怯える少女を安心させるように、優しい口調で、自身の過去をぽつりぽつりと話し始めた。


「昔々、ある館に、一人の母親がいました。彼女は『母親だから』と自分に呪いをかけて、壊れかけた心を隠し、ボロボロになりながらも我が子を大事に、大事に育てたつもりでした。けれど、その子は母親に石を投げ、挙句の果てには『あれは僕の使いだ』と無邪気に笑ったのです」


少女の息が止まる。そのエピソードには、あまりにも見覚えがあった。夫であるレイフが、かつて恋人だった自分に「悲しい思い出」として語っていた話の、全く異なる側面だったからだ。


「夫も, 義理の祖父母も、それを聞いて愉快そうに笑いました。だから彼女は、夜が来るのを待って、かつて息子がくれた、たった一つの小さな木の実だけをハンカチに包んで、そっとその家を出たのです。いない方がいいと、分かったから。ここにはいれないと分かったから。」


女性は、自嘲気味に、しかしどこか晴れやかな笑みを浮かべた。

その足元は、かつて挫いた傷のせいで、今もわずかに不自由そうに歪んでいる。


「世間は彼女を『稀代の悪女』と呼び、残された男たちを『可哀想な悲劇の家族』と称えました……

ふふ、滑稽でしょう? 私はね、その『悪女』のなれの果てですよ。お嬢さん」



目の前にいる女性こそが、夫が焦がれ、世間が呪った、レイフの失われた母親――リア・グリストフその人であった。


死んだはずの「真実」が、今、絶望の淵に立たされた彼女の前に、鮮烈に姿を現したのだ。



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