母親
限界の足音は、レイフの六歳の誕生日に、最も残酷な形で鳴り響いた。
その日は、神童と称えられるようになったレイフを祝うため、ささやかな宴が開かれていた。
いつもは冷え切っていた食卓に、豪奢な料理が並び、夫も義理の祖父母も、見たこともないような満面の笑みでレイフを囲んでいる。
その輪の中に、リアの居場所はなかった。彼女はただ、給仕をするメイドたちと同じように、部屋の隅にぽつんと佇んでいるだけだった。
ふと、上機嫌な義父が、父親の隣に座るレイフに向かって笑いかけた。
「レイフ、あそこにいるお母様にも、少しは感謝しなければな。お前をここまで育てたのだから。まぁ、たりなかったことも多いにはあったが。」
それは、感謝を促す言葉というよりも、リアを蔑むための当て擦りに近かった。
言われたレイフは、ちらりと部屋の隅のリアに視線を向けた。だが、その瞳にはかつて自分を求めて泣き喚いた面影など微塵もなく、ただただ冷淡で、無関心な光だけが宿っていた。
だが母から祖父母に目をむけたレイフは、ふっと無邪気に、愛らしく笑って言い放った。
「お母様? 違うよおじい様。あれは、僕の使い(使用人)だよ」
心臓が、冷たく凍りつく音がした。
「何を言っているの」と咎める者は、誰もいなかった。それどころか、夫も、義理の祖父母も、レイフのその言葉を聞いて「ははは」と愉快そうに声を上げて笑い出したのだ。
「なるほど、使いか! 確かにその通りだな!」
「賢い子は、物の価値がよく分かっているわ」
楽しげな笑い声が、豪華な食堂に響き渡る。
その瞬間、リアの中で、張り詰めていた最後の糸が音を立てて切れた。
(ああ、そうか……)
彼女は、自分がどれほど愚かだったかを悟った。「母親だから」と自分を騙し、恐怖に蓋をし、心をボロボロにしながら耐えてきた日々。その結末が、これだった。
この館において、自分はもう、人間としてすら存在していない。妻でも、母でもない。ただの、いらないもの。いつの間にか誰も彼女を必要としてなどいなかったのだ。
ここにいてはいけない。ここに自分がいない方が、きっとこの人たちは幸せなのだ。何より、これ以上ここにいたら、自分の心が完全に消えてなくなってしまう。
リアは静かに、ただ静かに、夜が来るのを待った。
時計の針が深夜を回り、館の全てが深い眠りに落ちた頃。
リアは部屋の扉を開けた。華美なドレスも、伯爵夫人の地位を示す高価な宝飾品も、全てその場に置いていく。
きらびやかな宝石類に、リアは一指しも触れなかった。そんなものを持っていけば、それがやがて自分とあの冷酷な家族を繋ぐ忌まわしい印になってしまうような気がしたからだ。この家に関わるものは、何一つとして持っていきたくはなかった。
だが、机の引き出しの奥を開けたとき、リアの指先が止まった。
そこにあったのは、一つの小さな、古ぼけた木の実だった。
まだレイフが幼く、ただ無邪気に母親を慕っていた頃。
『これ、ママにあげる! 僕の宝物なんだ!』
そう言って、満面の笑顔で手渡してくれた、かつての息子の「宝物」。
リアは、その木の実を前にして激しく躊躇した。
(持っていこうか……。いや、でも……これも置いていくべきだわ)
置いていこうと手を離しかけ、けれど、どうしても諦めきれなかった。
あの子に石を投げられた痛み、冷たく拒絶された絶望、けれど確かに存在した、あの子を愛おしいと思った日々。楽しかったこと、悲しかったこと、愛憎入り混じる様々な思い出が走馬灯のように脳裏を駆け巡る。
全てを捨てると思い定めたはずなのに、この木の実だけは、どうしても捨て去ることができなかった。
リアはそっと手を伸ばすと、その木の実を大切に拾い上げ、手元にあったハンカチで優しく、包み込むようにしてポケットに仕舞った。彼女がこの家から持ち出した財産は、これだけだった。
外は、冷たい夜風が吹き抜けている。
どこへ行くべきか、当てなどなかった。北の実家を頼ることもできない。行き先など、どこにも分からなかった。
(……それでも、いい…たとえ朽ち果てようともここ、以外なら…)
痛む足を一歩、また一歩と進めるたびに、ハンカチに包まれた小さな木の実が、彼女のポケットの中で静かに揺れていた。
こうして、六歳の英雄を残し、一人の母親が歴史から姿を消した。




