悪女2
「ママのせい。ママが悪い...ママキライ」
幼いレイフにとって、それは世界の崩壊だった。
いつも自分を無条件に守ってくれるはずの存在が、なぜかあの時に限って助けてくれなかった。
ただその一事をもって、幼い心は、母が自分を裏切ったという歪んだ結論を導き出す。
「ママなんて嫌い! ママ嫌い, ママ嫌い……!」
拒絶の言葉は、終わりのない呪文のようにリアへと浴びせられた。
痛む足を必死に引きずり、泣きじゃくる我が子を抱きしめようと手を伸ばしたリアに、レイフは手近にあった石を掴んで思いっきり投げつけた。
乾いた音がして、石はリアの額に命中する。
じわりと赤い血が流れ落ち、彼女の視界を染めた。だが、その光景を見た義父母が向けたのは、孫への咎めの視線ではなく、血を流すリアへの冷酷な糾弾の眼差しだった。
「子供に怪我をさせたばかりか、怯えさせて石を投げられるなんて。本当に母親失格ね」
泣きじゃくるレイフをなだめながら去っていく祖父母をリアは、ただ、呆然とみていた。
母親失格…母親とはなんだろう……怪我をさせてしまった…
頭の中でぐるぐると同じ言葉が浮かんでは消えていった。
翌朝、夜が明けると、レイフは何事もなかったかのように「ママ、お腹すいた」とリアを呼んだ。
子供特有の、気まぐれで残酷な忘却。
しかし、リアの心に開いた抉るような穴は、二度と塞がらなかった。
チクチクと疼き続ける足の痛み。そして何より、昨日まで愛おしくてたまらなかった、自分を「ママ」と呼ぶこの小さな生き物が、心の底から「怖い」と思ってしまったのだ。
(駄目よ、怖がっては駄目。私はこの子の母親なのだから……こんなことでは駄目よ。)
リアは湧き上がる恐怖に無理やり蓋をした。
母親、という義務の重石で、壊れかけた心を厳重に閉じ込める。
だが、そんな歪な均衡すら、長くは続かなかった。
成長するにつれ、レイフは驚異的な才能の片鱗を見せ始める。
伯爵家の嫡男として剣術を習い始めると、名だたる師範たちが口を揃えて「なんと才能溢れる神童か」と驚嘆したのだ。
その瞬間、それまで凍りついていた館の空気が一変した。
これまでリアにも、息子にも、一切の感情を示さなかった夫が、手のひらを返したようにレイフへ愛情を示し始めたのだ。
「よくやった」「さすが我が息子だ」
それは、頭を撫でる指先のほんの少しの優しさや、中身の伴わない言葉だけの安っぽい愛情だったかもしれない。
しかし、これまで母親以外の誰からも優しく関わってこられなかった幼いレイフにとって、それは何よりも輝かしい、渇望していた「宝物」となった。
ずっと側にいてくれたリアの、当たり前にある無償の愛情など、もうレイフには価値のないものだった。
たった一度、父親から与えられた条件付きの承認こそが、彼にとって世界の全てになったのだ。
父親に褒められ、得意絶頂のレイフは、冷ややかに自分を見つめる母親へ向かって、言い放った。
「お母様なんて、大嫌いだ。僕には父上がいるから、お母様なんていなくていい」
父親の愛に盲目になった息子の言葉。それは、リアが「母親だから」と自分を縛り付け、必死に守ってきた最後の拠り所を、根本から叩き折る一言だった。
リアの心は、音も立てずに、少しずつ、少しずつ、修復不可能なほどボロボロに崩れていった。




