水脈
昔、美しい者を見た。それは山の奥深くにある洞窟にいた。
私の地元は湧水の多い地域だった。そこかしこから綺麗な水が湧き、飲料水や生活用水として昔から利用されていたらしい。地域住民の生活用水はすべてそこから汲まれたものだった。
それほどまでに湧水が豊富だが、それは特殊な地形が生み出す水脈によるものらしい。なんでも山からの水が全てこのエリアに集中しているのだとか。そしてその水脈を辿ると山の中の洞窟にたどり着く。
この洞窟は山の奥深くにあるものの、地元民からしてみれば親しい場所であり、子供達もちょっとした冒険がてら遊びに行く場所でもある。私も夏は涼みがてらよく行っていた。そしてソレを見たのは暇つぶしに一人で遊んでいた時。
硬い岩壁の奥。ひび割れから水が染み出し、小川ができている。その水源たる場所。本来なら行き止まりで、そこには窪みと小さな湧水だけがある場所。そしてそこにソレはいた。薄暗い洞窟でぼんやりと光を発し、こちらを見ていた。
男とも女ともつかぬ貌、鹿の足。明らかに人ではなかった。だがソレはこの世の何よりも美しくそこに佇んでこちらを見ていた。ソレに見られていると、なぜか逃げる気も起きず、私はただただソレを見つめていた。
ソレは最初、顔だけをこちらに向けていた。しかし体ごとこちらに向き直り、私を手招いた。行ってはいけない。分かっている、が体が言う事を聞かない。ソレに近づきたいという抗いがたい欲求が一歩、また一歩と私の歩みを進める。洞窟の奥に行くにつれ、空気はひんやりと冷え、密かに聞こえていたセミの声が遠くなり、湧水の音が濃くなってゆく。
私が洞窟の奥深くに入るほど、ソレは嬉しそうに笑みを深める。招いていた手はいつの間にか、私を迎え入れるように差し出されていた。あと数歩、それだけで手を取ることができる。私もゆっくりと手を伸ばす。
あと少し、もう少しで触れられる。指先が触れ合う直前、ワン、と真後ろで犬が吠えた。
振り返れば近所の猟師が飼っている犬であった。どうやら付いて来ていたらしい。犬は洞窟の入り口から何度も吠え立て、鳴き声が響くたび、私はじわじわとこの状況の異質さを理解した。ゾッと背筋に寒気が走り慌てて洞窟を出る。後ろを振り返って見ると、そこにはもう何もいなかった。
それ以来、私はあの洞窟には行っていない。大人になってからは地元を出て都会に暮らしている。が、最近妙にソレのことが強く思い出される。あの場所に行きたい。あの洞窟であの美しい異形にもう一度会いたい。でも絶対に行ってはいけない。けれど抗いがたい衝動に耐えられず、帰省のためのチケットを買ってしまった。
この後のことは、私にも分からない。




