第七十八章 風は語る
「忘却……」
セリアは静かにその名を繰り返した。
初めて耳にする言葉。
けれど、不思議と胸の奥に重く落ちてきた。
風が木々を揺らす。
誰も口を開かなかった。
◇
長老はゆっくりと腰を下ろした。
近くの切り株へ腰掛けると、杖を膝に置き、穏やかな目で五人を見渡す。
「四百年ほど前のことじゃ」
静かな語り口だった。
「今ほどではないが、世界のあちこちで同じことが起こった」
歌を忘れる者、道を忘れる者、約束を忘れる者。
そして、大切な人との思い出を少しずつ失っていく者。
「人々は恐れた」
長老は空を見上げる。
「何とか止めようとした」
魔法を探した者もいた。
原因を突き止めようと世界を巡った者もいた。
誰かを責める者もいた。
「……じゃが」
長老はゆっくり首を振る。
「忘却は討つべき魔物ではなかった」
その一言に、空気が止まった。
◇
「倒せ……ない?」
リリカが思わず聞き返す。
「うむ」
長老は穏やかに頷く。
「季節を倒せぬように」
「雨を止められぬように」
「人の生老病死を消せぬように」
「忘却もまた、元よりこの世界にあるものじゃ」
ユークが俯く。
「じゃあ……このまま世界は忘れていくしかないんですか」
長老はすぐには答えなかった。
しばらく風の音だけが流れる。
そして、小さく笑った。
「では聞くがの」
五人が顔を上げる。
「お前たちは、この旅で何をしてきた?」
突然の問いだった。
セリアは戸惑う。
「えっと……」
妖精国、風奏の街、雨音の街。
様々な景色が頭をよぎる。
「私たちは……」
言葉を探していると、長老は続けた。
「花の妖精は悲しみを花へと託しておった」
「風奏の街では、人々は歌を歌い続けておった」
「雨音の街では、手紙を書き、想いを残そうとしておった」
長老は一人ひとりを見る。
「お前たちは、それを見てきた」
セリアの瞳が少しずつ大きくなる。
「人は弱くない」
長老は柔らかく笑った。
その言葉は、不思議なくらい優しかった。
「悲しみを抱えながら花を育てる者がおる」
「忘れぬよう歌を歌う者がおる」
「想いを書き記す者がおる」
「語り合う者がおる」
「忘却は確かに人から何かを奪う」
「じゃが」
長老は静かに杖を握る。
「人は何度でも、新しく繋がり直すことができる」
◇
セリアは息を呑んだ。
胸の奥で、何かが繋がる。
雨音の街を出て、焚き火を囲んで交わした言葉。
『じゃあ私たちは共有しよう』
『思ったことも』
『気付いたことも』
『怖いことも』
『全部』
「あ……」
思わず声が漏れる。
長老は穏やかに微笑んだ。
「気付いたようじゃの。」
セリアはゆっくり頷いた。
「私たち……」
「答えを探していたつもりでした」
「でも、旅の中でもう答えに出会っていたんですね」
「うむ」
長老は目を細める。
「お前たちは、すでに見つけておる」
◇
風が吹く。
優しく、世界を包むように。
「これから先」
「世界には、もっと多くの忘却が訪れるじゃろう」
「その時」
長老は五人を見つめた。
「人々が、それぞれどう歩み、どう繋がろうとするのか」
「それを見届けてくるがよい」
セリアは仲間を見る。
レオンが静かに頷く。
ユークは目を閉じ、何かを噛みしめている。
ガルドは腕を組み、小さく笑った。
リリカはいつものように明るく笑っていた。
「うん!」
長老も笑う。
「ほっほっほ」
「それでよい」
風が五人の間を吹き抜ける。
もうその風は、不安だけを運んではいなかった。
人と人を繋ぐ、温かな想いもまた運んでいた。
忘却はこの世界の自浄作用です。
悲しみの感情が長い時間をかけてたまっていくことで、それに耐えられなくなった世界が忘却ですべてを洗い流そうとします。
でも、そこからまた新たな芽が生まれます。




