第六章 兄の残した地図
覚醒騒動の翌朝。
《星灯り亭》の食堂には、焼きたてのパンの香りが漂っていた。
窓から差し込む朝日。
暖炉の残り火。
静かな時間。
セリアはスープの入った器を両手で包みながら、昨夜のことを思い出していた。
淡い光。
頭の中に響いた声。
そして
レオンの腕の中の温もり。
「……」
思い出した途端、耳が少し熱くなる。
「顔赤いよ?」
向かいからリリカが覗き込んできた。
「ち、違うの」
「違わない顔だねぇ」
にやにやしている。
「朝からうるさいですね」
ユークが呆れた声を出す。
そんなやり取りを見ながら、ガルドは黙々とパンを食べていた。
平和だった。
昨夜の出来事が夢だったみたいに。
けれど。
セリアの胸の奥には、小さな棘が残っていた。
あの力は何だったんだろう。
◇
食後、セリアは宿の裏庭で薬草の手入れをしていた。
すると足音が近づいてくる。
「エルドさん」
振り返ると、宿の主人が穏やかに笑っていた。
「少し話をしてもいいかな」
「もちろん」
二人は庭の木陰に腰を下ろした。
しばらく風の音だけが流れる。
先に口を開いたのはセリアだった。
「……昨日のこと、知っていたんですか?」
エルドは少しだけ目を細めた。
「どこまでかは分からない。でも似た話は聞いている」
セリアは唇を噛む。
やっぱり何かある。
兄も。
レオンも。
エルドも。
みんな何か知っている。
でも誰もまだ話してくれない。
「あの」
少し迷ってから、
セリアは聞いた。
「エルドさんは、お兄ちゃんを知ってるんですか?」
穏やかな空気が止まる。
「……ああ」
静かな返事だった。
「何度か一緒に依頼も受けたよ」
セリアの瞳が揺れる。
それだけで嬉しかった。
兄を知る人。
兄の話をしてくれる人。
◇
「ルークは」
エルドは懐かしそうに空を見上げる。
「優しい男だった」
セリアは小さく頷く。
知ってる。
それは知ってる。
「それだけじゃない」
エルドは笑った。
「意外と負けず嫌いだった」
「え?」
「レオンとしょっちゅう張り合ってた」
思わず目を丸くする。
想像できない。
「料理も下手だったな」
「えぇっ!?」
「塩と砂糖を間違えたこともある」
セリアは吹き出した。
「そんなのお兄ちゃんじゃないみたい」
「でも本当だ」
エルドも笑う。
そして少しだけ真面目な顔になった。
「ずっと何かを調べていた」
セリアが顔を上げる。
「調べる?」
「そうだ」
エルドは頷いた。
「旅先で遺跡を回ったり、本を集めたりしていた」
「お兄ちゃんが……?」
知らなかった。
そんな話、一度も聞いたことがない。
◇
その日の夕方。
宿の裏手。
湖へ続く小道を歩いていると、レオンがいた。
一人で剣の手入れをしている。
夕日が黒髪を赤く染めていた。
「レオン」
「……どうした」
セリアは少し迷った。
でも聞きたかった。
「お兄ちゃんと、どこで出会ったの?」
レオンの手が止まる。
静かな沈黙。
風だけが吹く。
「北の雪原だ」
やがて低い声が返ってきた。
「雪原?」
「ああ」
「どんな人だった?」
レオンは少しだけ笑った。
本当に少しだけ。
「面倒見が良かった」
「うん」
「お節介だった」
「うん」
「無茶もした」
「……うん」
だんだん誰かに似てきている気がして、セリアは苦笑する。
「そして」
レオンは空を見る。
「誰かのために動くことをやめられない奴だった」
その声は、どこか寂しかった。
◇
夜、食堂に全員が集まっていた。
エルドが一冊の古い手帳を持ってくる。
「そうだ」
彼はテーブルにそれを置いた。
「これを返しておこうと思っていた」
「……え?」
セリアが目を見開く。
見覚えのある革表紙。
「お兄ちゃんの……?」
「ああ」
エルドは頷く。
「最後にここへ来た時に忘れていった」
震える指でページを開く。
そこには見慣れた兄の字があった。
旅先の記録。
見た景色。
出会った人。
何気ない走り書き。
思わず頬が緩む。
まるで兄がそこにいるみたいだった。
そしてあるページで手が止まる。
『星降る湖』
『古い記録あり』
『次はここを調べる』
セリアは首を傾げる。
「調べる……?」
その瞬間、向かいに座っていたレオンの表情が変わった。
ほんの僅かに。
でも確かに。
「レオン?」
セリアは不思議そうに見つめる。
けれどレオンは答えない。
代わりにエルドが言った。
「そこはここから三日の場所にある」
「星降る湖……」
手帳の文字をなぞる。
兄が見た景色。
兄が歩いた道。
兄が知っていた世界。
知らなかった兄を、もっと知りたい。
ただそれだけだった。
「行ってみたい」
ぽつりと零れた言葉。
リリカが笑う。
「いいじゃん!」
「賛成です」
「おう」
ガルドも頷いた。
そして最後に。
レオンが静かに息を吐く。
「……分かった」
もう止められないと知っている顔だった。
「次の目的地は星降る湖だ」
誰も気づいていない。
この旅が。
ただ兄の思い出を辿る旅ではないことを。
ルークが残した妹を救うための足跡を辿る旅になることを。
そして星降る湖で彼らは初めて、
“星祈り”という存在の歴史に触れることになる。




