第三十二章 止まった時間
古塔の夜は静かだった。
セリアは屋上へ続く階段を上っていた。
石段を踏む音だけが響く。
今日で何度目だろう。
気づけば足が向いていた。
星が見たかったのか、それとも別の理由だったのか。
自分でもよく分からない。
扉を開ける。
夜風が頬を撫でた。
見上げれば満天の星。
まるで空いっぱいに銀砂を撒いたようだった。
そして、やはりそこにノクスはいた。
古塔の欄干にもたれ、夜空を見上げている。
セリアは少しだけ笑った。
「いると思った」
「そうか」
相変わらず短い返事だった。
だが追い返されることもない。
それが少しだけ嬉しかった。
しばらく二人で星空を見上げる。
不思議な時間だった。
沈黙が苦にならない。
むしろ心地良い。
「昨日」
セリアがぽつりと言った。
「記憶を見た」
ノクスの表情がわずかに動く。
「アイシアさんの」
夜風が吹く。
長い白銀の髪が揺れた。
ノクスは何も言わない。
否定もしない。
「優しい人だったね」
しばらく沈黙が続いた。
やがて
「そうだった」
静かな声。
たった四文字。
けれど、その一言に何百年もの時間が詰まっている気がした。
セリアは空を見る。
「怒ってた?」
「何がだ」
「私が勝手に記憶を見たこと」
ノクスは首を横に振った。
「記憶はお前を選んだ」
その言葉にセリアは少し驚く。
自分が選んだのではなく記憶の方が。
「じゃあ」
セリアは少し迷った。
「アイシアさんは幸せだったのかな」
ノクスが初めて視線を向ける。
金色の瞳。
その奥に揺れる感情は読めない。
「どうしてそう思う」
「最後まで笑っていたから」
セリアは正直に答えた。
「だから少し気になった」
ノクスはしばらく黙っていた。
長い沈黙だった。
そして
「幸せだったと思う」
その答えは意外だった。
もっと苦しそうな答えが返ってくると思っていたから。
「でも」
ノクスは続ける。
「だから良かったとは思わない」
セリアは何も言わない。
続きを待つ。
「幸せだったから失っていいわけじゃない」
静かな声だった。
怒りでもない。
悲鳴でもない。
ただ、何百年も抱えてきた痛み。
「……うん」
セリアは小さく頷いた。
それはきっと正しい。
幸せだったことと。
失った悲しさは別だ。
ノクスは再び空を見上げる。
「私はずっと考えていた」
珍しく自分から話し始めた。
「何を?」
「別の結末があったのではないかと」
セリアは息を呑む。
それはきっと。
何百年も続いた問いだった。
「答えは出た?」
ノクスは苦く笑った。
本当にわずかに。
「出ていたらこんな場所にはいない」
その言葉にセリアも少しだけ笑った。
確かにそうだ。
その時だった。
胸元のペンダントが淡く光る。
白銀の輝き。
雪の結晶の両側に、
ほんの一瞬翼の輪郭が浮かび上がった。
前回よりも少しだけ鮮明に。
ノクスが目を細める。
驚きではない。
確かめるような視線だった。
「やっぱり」
小さな呟き。
「やっぱり?」
セリアが聞く。
だがノクスは答えない。
代わりに空を見る。
そして、今までで一番静かな声で言った。
「お前は違うのかもしれないな」
セリアは意味が分からなかった。
「何が?」
しかし、ノクスはもう答えなかった。
ただ夜空を見上げている。
まるで昔の誰かと今の誰かを重ねながら。
そして少しずつその違いを認め始めるみたいに。
◇
その頃古塔の客室。
レオンは窓辺に立っていた。
屋上に小さく見える二つの人影。
セリアとノクス。
「……また行ったのか」
ため息。
深いため息。
今日三回目だった。
隣ではリリカがリンゴを齧っている。
「過保護」
「うるさい」
「お父さんみたい」
「うるさい」
即答だった。
リリカは笑う。
そして少しだけ真面目な顔になった。
「でもさ」
「なんだ」
「セリアってルークさんと違うよね」
レオンが黙る。
それが、
一番分かっていて
一番認めたくないことだった。
窓の外では星が瞬いている。
そしてレオンもまた少しずつ変わり始めていた。




