第二十九章 星の見える場所
翌日の夕方、セリアは一人で古塔の階段を上っていた。
昨夜から考えていた。
ノクスのこと。
ルークの言葉。
そして翼の紋章。
聞きたいことがたくさんある。
それなのになぜか焦る気持ちはなかった。
答えを急かしたいわけではないからだ。
ただ知りたかった。
あの人が何を見てきたのかを。
階段の先には屋上へ続く扉があった。
押し開ける。
冷たい風が頬を撫でた。
空は茜色から群青へ変わろうとしている。
遥か遠くまで山並みが続き、その上に最初の星が灯り始めていた。
そしてそこにノクスはいた。
古びた欄干にもたれ、静かに空を見上げている。
まるで最初からセリアが来ることを知っていたみたいだった。
「探したのか」
振り返りもせずに言う。
「少しだけ」
セリアは答えた。
ノクスは何も言わない。
追い返しもしない。
だからセリアも隣までは行かず、少し距離を空けて立った。
風だけが二人の間を通り抜ける。
「昨日の話」
セリアが口を開く。
「翼のこと」
ノクスの視線は空に向いたままだった。
「星祈りが封じたって言ってた」
「ああ」
「どうして?」
しばらく返事はなかった。
夕暮れの空がゆっくり色を変えていく。
やがてノクスが言った。
「人は救いを求める」
静かな声だった。
「それは悪いことじゃない」
「うん」
「だが救われたいと思うあまり」
そこで言葉が止まる。
「時に救う者を壊す」
セリアは息を呑む。
アイシアの言葉が蘇る。
自分を救う方法は教わらなかった。
その言葉が胸に刺さる。
「翼は力だった」
ノクスが続ける。
「世界の声を聞き、繋ぎ、受け止める力」
「……浄化じゃなくて?」
「浄化はその一部に過ぎない」
セリアは黙って聞く。
ユークが解読した古代文字。
世界の声を聞く者。
全てが繋がり始めていた。
「ならどうして封じたの?」
今度こそノクスは答えなかった。
金色の瞳が少しだけ伏せられる。
その表情を見て、セリアは気づいた。
これは知識の話じゃない。
傷の話だ。
だから無理には聞かなかった。
代わりに別のことを尋ねる。
「あなたは何を見てきたの?」
風が止まる。
ノクスが初めてセリアを見る。
まるでその質問を予想していなかったみたいに。
「……何故それを聞く」
「知りたいから」
セリアは正直に答えた。
「あなたのことを」
沈黙。
長い沈黙。
遠くで鳥が鳴く。
古塔を吹き抜ける風の音だけが聞こえる。
「変わった人間だな」
ノクスがぽつりと言った。
少しだけ呆れたように。
少しだけ困ったように。
その顔を見て、セリアは初めて思う。
この人は怒っている顔より、
困っている顔の方が似合うのかもしれない。
「昔にもいた」
ノクスが空を見上げる。
「お前みたいなことを聞く男が」
ルークだ。
セリアはすぐに分かった。
「お兄ちゃん?」
「ああ」
短い返事。
けれどそこには柔らかさがあった。
ほんの少しだけ。
ノクス自身も気づいていないほどに。
「面倒な男だった」
「そうかな」
「そうだ」
即答だった。
セリアは思わず笑う。
するとノクスがわずかに目を細めた。
それは笑ったというにはあまりにも小さかったけれど。
確かに昨日より人間らしい表情だった。
その時、胸元のペンダントが光る。
白銀の光。
そして一瞬だけ。
雪の結晶の両側に、淡い翼の輪郭が浮かび上がった。
「……!」
セリアが目を見開く。
だが次の瞬間には消えていた。
幻みたいに。
ノクスの表情が変わる。
今度は明らかだった。
驚いている。
初めて見る顔だった。
「どうしたの?」
セリアが聞く。
しかしノクスは答えない。
ただペンダントを見つめている。
まるで信じられないものを見るように。
そして小さく呟いた。
「まだ……残っていたのか」
その声は誰に向けたものだったのだろう。
セリアには分からなかった。
けれどその時だけ、
ノクスはひどく寂しそうに見えた。
そして同時にほんの少しだけ、
救われたようにも見えたのだった。




