第十五章 旅立ちの朝
谷を発つ朝は、よく晴れていた。
雪解け水は今日も静かに流れている。
薬草畑は朝露をまとい、山々は淡い光に包まれていた。
「本当に世話になった」
レオンが頭を下げる。
エリオスは鼻を鳴らした。
「お前に礼を言われると気持ち悪い」
「そうか」
「そうだ」
相変わらずだった。
「先生」
セリアも頭を下げる。
「ありがとうございました」
短い時間だった。
でも大切な時間だった。
エリオスは少しだけ目を細める。
「薬草を見る目は悪くない」
「!」
「だが人を見る目が優しすぎる」
セリアがきょとんとする。
「それは長所でもあるが」
老人は少しだけ空を見る。
「気をつけろ」
その言葉だけが、なぜか心に残った。
◇
出発直前、リリカが荷物を抱えていた。
異様に重そうだった。
「何?それ」
セリアが聞く。
「アップルパイ」
「え?」
「アップルパイ」
「それは聞こえたけど」
保存用らしい。
意味が分からない。
「途中でなくなると思います」
ユークが冷静に言った。
「なくならない!」
「昨日も同じことを言ってました」
◇
谷を離れて数時間。
一行は森へ入っていた。
次の町までは二日。
今日は野営になる。
木漏れ日が揺れる。
鳥の声が聞こえる。
穏やかな旅路だった。
◇
夕暮れ、焚き火が灯る。
ぱちぱちと薪が爆ぜる音。
少し冷たい風。
空には最初の星が浮かんでいた。
「お腹すいたー」
リリカが転がる。
「さっき食べたでしょう」
「別腹」
「便利ですね」
◇
レオンは鍋をかき混ぜていた。
慣れた手つき。
迷いのない動作。
「完全に主夫」
リリカが呟く。
「だな」
ガルドが頷く。
「主夫ですね」
ユークまで同意した。
レオンが無言になる。
◇
「手伝うよ」
セリアが隣へ座る。
「いい」
「でも」
「火傷する」
「しないよ」
「する」
断言された。
なんだろう。
少し納得できない。
結局、セリアは野菜を切る係になった。
「うまいな」
レオンが言う。
「治療院でやってたから」
自然な返事。
その言葉で。
少しだけ懐かしい景色が浮かぶ。
◇
王都の治療院。
忙しい朝。
薬草の匂い。
患者たち。
そして。
『セリア』
優しい声。
振り返るとルークがいる。
『野菜切っといて』
『はーい』
いつもの日常。
失うなんて思ってもいなかった頃。
◇
夕食後。
みんなが眠り始める。
焚き火だけが残っていた。
セリアは一人。
エリオスから預かったノートを開く。
ルークの字。
少し癖のある文字。
それだけで懐かしい。
最初のページ。
思わず吹き出した。
『セリアは薬草茶に蜂蜜を入れすぎる』
「なんでそんなこと書いてるの……」
次。
『甘い物を隠しても見つける』
「お兄ちゃん!!」
声が出た。
さらに次。
『困ると右眉が少し下がる』
セリアは慌てて眉を触る。
「そんなことないよね?」
「ある」
横から声がした。
「えっ」
レオンだった。
いつの間に。
「本当に?」
「本当に」
「……」
少しだけショックだった。
◇
ページをめくる。
今度は少し真面目な文章。
『セリアは自分より他人を優先する』
セリアの手が止まる。
『だから心配だ』
次のページ。
『もっとわがままでもいい』
次。
『もっと頼っていい』
文字が少し乱れている。
書いた日の気持ちが伝わるようだった。
◇
胸が少し苦しくなる。
「お兄ちゃん……」
ぽつりと零れる。
その時、目の前に湯気の立つカップが置かれた。
「飲め」
レオンだった。
「ありがとう」
温かい薬草茶。
少しだけ蜂蜜が入っている。
「寝ないのか」
レオンが聞く。
「もう少し」
「昨日も言ってた」
セリアは少し笑う。
そしてノートの最後の方を開く。
そこにはこれまでと違う文字があった。
急いで書いたみたいな走り書き。
『次は花冠の町へ向かう』
『古い星祈りの記録が残っているらしい』
セリアが顔を上げる。
「花冠の町……」
聞いたことのない場所だった。
その時、レオンの表情が少しだけ変わる。
ルークがその町へ向かった理由を。
彼は知っていた。
でも、まだ言わない。
◇
セリアは知らない。
花冠の町で。
また一人。
ルークを知る人物と出会うことを。
そして仲間たちの過去も少しずつ動き始めることを。
夜空には無数の星。
焚き火は静かに揺れていた。
まるで旅の続きを待っているみたいに。




