第十三章 雪解けの泉(後編)
異変に気づいたのは、谷の子供たちだった。
「最近ね」
診療所へ来ていた男の子が言う。
「泉の近く行くと変な感じする」
セリアは薬草を仕分ける手を止めた。
「変な感じ?」
「うん」
「どんな?」
男の子は少し考える。
「なんか……さみしい」
◇
その日の夕方、
エリオスの家には珍しく村人たちが集まっていた。
「作物の育ちが悪いんです」
「家畜も近づかない」
「水も少し濁ってきてる」
皆が口々に言う。
エリオスは黙って聞いていた。
そして
「泉か」
短く呟く。
◇
翌朝、一行は谷の奥へ向かった。
雪解け水が流れる森。
鳥の声。
冷たい風。
穏やかな景色。
けれど進むにつれて空気が変わっていく。
静かすぎる。
「動物の気配がありませんね」
ユークが周囲を見回す。
「確かに」
リリカも眉をひそめる。
いつもならいるはずの小鳥すら見当たらない。
しばらく歩くと泉が見えた。
透明だったはずの水。
その一部が灰色に濁っている。
周囲の草も少し元気がない。
「魔障だな」
レオンが呟く。
セリアも頷いた。
嫌な感じはしない。
でも、
悲しい。
そんな気配だった。
「原因を探しましょう」
ユークが地面へ膝をつく。
魔力の流れを調べ始めた。
◇
「……待ってください」
数分後。
ユークが顔を上げる。
「泉じゃありません」
「え?」
「流れの先です」
視線が森の奥へ向く。
さらにその先。
谷の上流。
その瞬間だった。
森が揺れる。
地面が震える。
「来るぞ!」
レオンの声。
次の瞬間、巨大な影が飛び出した。
雪色の毛並み。
鋭い爪。
大人の三倍はある巨体。
狼にも鹿にも見える不思議な魔獣だった。
「でかっ!!」
リリカが飛び退く。
魔獣は苦しそうに唸っている。
瞳が赤黒い。
身体の一部には魔障が絡みついていた。
「魔障に侵されてる!」
セリアが叫ぶ。
だが、魔獣は止まらない。
暴れるように突進してくる。
◇
レオンが前へ出た。
黒い外套が翻る。
「下がれ」
低い声。
次の瞬間、
剣閃。
銀色の軌跡が走る。
魔獣の爪を正面から弾き返した。
轟音。
地面が抉れる。
セリアは思わず息を呑んだ。
何度見てもレオンは強い。
◇
「ガルド!」
「おう!」
巨槍が振り下ろされる。
魔獣の進路を変える。
さらに崩れかけた岩場へ身体を滑り込ませた。
その向こうには村の採取小屋。
もし岩が落ちれば危険だった。
「行かせん」
片腕で岩を支える。
人間離れしていた。
「ガルドすごっ……」
リリカが素で引いていた。
◇
「右です!」
ユークが叫ぶ。
魔力解析。
魔獣の動きを読む。
「三秒後!」
その瞬間。
リリカの矢が飛ぶ。
風をまとった一撃。
魔獣の注意を逸らす。
「こっちだよー!」
ひらり。
木の上へ跳ぶ。
完全に森の小動物だった。
◇
だが、魔獣は苦しそうだった。
怒っているわけじゃない。
助けを求めているみたいだった。
セリアはそれに気づく。
「……苦しいんだね」
胸が痛んだ。
その時、ペンダントが淡く光る。
雪の結晶が呼吸するように。
◇
「レオン!」
セリアが呼ぶ。
「倒さないで!」
レオンの動きが止まる。
一瞬だけ。
「この子も苦しいだけ」
静かな声だった。
叫ばない。
でも誰よりも真っ直ぐだった。
レオンは小さく息を吐く。
「……分かった」
剣を下げる。
信じる。
それだけだった。
◇
セリアは泉へ歩く。
濁った水。
悲しみの魔障。
そして魔獣が長い間抱え続けた苦しみ。
ペンダントが光る。
淡い白銀色。
優しい光。
雪解け水へ溶けていく。
「――大丈夫」
誰に向けた言葉か分からない。
泉か。
魔獣か。
それとも昔この場所で悲しみを抱えた誰かか。
光が広がる。
濁りが消えていく。
草が風に揺れる。
泉が本来の透明さを取り戻していく。
そして魔獣の瞳から赤黒い色が消えた。
雪みたいな銀色へ戻る。
大きな身体がゆっくりと地面へ伏せた。
疲れたように。
安心したように。
しばらくして、魔獣は立ち上がった。
セリアを見る。
静かな瞳。
そして森の奥へ帰っていった。
振り返ることなく。
ただ静かに。
◇
帰り道。
村人たちは喜んだ。
泉は戻った。
土地も元気を取り戻した。
「魔獣は倒さなくて良かったのか?」
村の老人が尋ねる。
セリアは少し考えた。
そして小さく笑う。
「……はい」
空を見上げる。
雪解けの青空。
「帰る場所があるなら」
それでいいと思った。
◇
その夜皆が眠った後、
エリオスは窓辺に立っていた。
隣にはレオン。
「見たな」
「ああ」
二人とも同じものを見ていた。
泉で浄化を行った後、
セリアがほんの少しだけ咳き込んだことを。
以前より長く。
以前より苦しそうに。
本人は笑っていた。
気づいていない。
だが、エリオスの表情は重かった。
「まだ早いはずなんだがな……」
雪解け水の音だけが聞こえる。
その音はどこか遠い過去から続く警告みたいだった。




