第十章 雪解けの谷
北へ向かう街道は、少しずつ景色を変えていった。
緑は薄くなり。
風は冷たくなり。
遠くの山々には雪が残っている。
それでも空は高く、どこまでも澄んでいた。
「寒くなってきたね」
馬車の窓から外を見ながらセリアが呟く。
「北ですからね」
ユークが本をめくる。
「この辺りは薬草の名産地ですよ」
「そうなの?」
「はい。特に雪解け水で育つ薬草は品質が高い」
そこからユークの説明が始まる。
五分。
十分。
十五分。
「長い」
リリカが死んだ目になる。
「大事な知識です」
「絶対今じゃない」
ガルドは静かに寝ていた。
◇
夕方、一行は小さな谷の集落へ到着した。
雪解け水が流れる川。
木造の家々。
山肌には薬草畑が広がっている。
派手さはない。
けれど穏やかな場所だった。
「ここが……」
セリアはルークの手帳を開く。
そこには見慣れた字で書かれていた。
『エリオス先生は怖い』
セリアが吹き出した。
「お兄ちゃん何書いてるの」
レオンも思わず笑う。
「事実だ」
「知ってるの!?」
「ああ」
嫌な予感しかしない。
◇
そして予感は当たった。
「帰れ」
開口一番だった。
「えっ」
セリアが固まる。
目の前にいるのは白髪の老人。
鋭い目。
深い皺。
職人そのものみたいな雰囲気。
薬師エリオス。
「見学だけでも……」
「帰れ」
「お話だけでも……」
「帰れ」
強い。
レオンが少しだけ視線を逸らした。
笑いを堪えている。
結局、無理やり滞在することになった。
リリカ曰く
「押しかければ勝ち!」
らしい。絶対違う。
◇
翌朝、セリアは一人で薬草畑へ出ていた。
朝露が葉を濡らしている。
雪解け水が小さく流れる。
空気が気持ちいい。
そこでふと立ち止まる。
「……あ」
一株の薬草。
葉先が少し変色している。
病気の兆候だった。
セリアはしゃがみ込み、丁寧に状態を確認する。
その時
「何を見ている」
後ろから声がした。
エリオスだった。
「この薬草です」
セリアは葉を見せる。
「根が冷えすぎてます」
「ほう」
「このままだと三日くらいで傷むかも」
老人は無言で薬草を確認する。
そして
「正解だ」
短く言った。
◇
その日の午後、セリアは調合室を手伝っていた。
棚いっぱいの薬草。
乾燥葉。
瓶。
見ているだけで楽しい。
「薬師って素敵ですね」
「……」
「私、治療院で薬も作ってたんです」
その言葉にエリオスが振り返る。
「誰に教わった」
「兄です」
沈黙。
老人の手が止まる。
「……ルークか」
初めて名前を呼んだ。
「はい」
エリオスは小さく息を吐く。
「相変わらずだな」
「?」
「人に教えるのは上手かった」
その言葉が嬉しかった。
知らない兄をまた一つ知れた気がして。
◇
夜、薬師の家に泊まることになった。
木の香りがする温かな家だった。
セリアが台所へ行くと。
レオンがいた。
エプロン姿で。
「……何してるの?」
「夕飯」
普通に返された。
鍋ではスープが煮えている。
焼き立てのパン。
切り分けられた野菜。
手際が良すぎた。
「すごい」
「普通だ」
「普通じゃないよ」
セリアは本気で感心する。
包丁を持つ手も慣れている。
火加減も。
段取りも。
「お兄ちゃんみたい」
ぽろりと零れた。
レオンの手が止まる。
一瞬だけ。
本当に一瞬だけ。
セリアは気づかない。
けれど、レオンの胸は少しだけ痛んだ。
懐かしくて。
寂しくて。
そして少し嬉しかった。
「……あいつほどじゃない」
小さく答える。
◇
食卓には全員が集まった。
「おいしいー!」
リリカが叫ぶ。
「美味い」
ガルドも頷く。
「さすがですね」
ユークも珍しく素直だった。
エリオスだけが無言。
だが、スープを二回おかわりしていた。
誰も突っ込まない。
優しさだった。
◇
その夜、セリアは客室の窓を開けた。
遠くで雪解け水の音が聞こえる。
静かな夜だった。
ふと机の上を見る。
そこには古いノート。
ルークの字だった。
どうやらここで置いていったものらしい。
ページを開く。
そしてある文章で手が止まる。
『もし仮説が正しいなら』
『星祈りは救いではない』
『あの子は世界に優しすぎる』
セリアの胸がざわつく。
「あの子……?」
次のページは破られていた。
まるで誰かが読ませたくなかったみたいに。
窓の外では雪解け水が静かに流れている。
そしてその音に紛れるように。
どこか遠くで誰かが自分を見ている気がした。




