2-3 両上杉の泥沼内戦、漁夫の利で『伊豆』をコンプリート
『北条五代記』は、三浦浄心が著した、後北条氏にまつわる話題を中心とした仮名草子・軍記物語。確認されている最古の版本は寛永18年(1641年)刊。万治2年(1659年)版が流布本で残存数も多い。ともに全10巻だが内容には改変がある。出典:Wikipedia
俺の名前は伊勢新九郎。後に北条 早雲として、関東の覇者となる男だ。
世間じゃ俺のことを「一介の素浪人が突然現れて国を盗った」なんて言っているが、さっきも言った通り、本当の俺は名門中の名門、平氏の末裔だ。だが、俺がこの関東という巨大な地域に侵攻した時、そこはすでに崩壊寸前だった。
特に酷かったのが、関東のツートップである「両上杉の山内、扇谷」だ。あいつらは本来、関東を管理する立場だったはずなんだが、身内同士で延々と泥沼の内紛を繰り返していた。
なぜそんなことになったのか? じいさんたちの昔話……いや、この「関東亡国」の記録を、俺の視点で解析してやろう。
すべての混乱の始まりは、京都の将軍(四代・足利義持)に後継者がいなかったことだ。本来なら、鎌倉公方の足利 持氏が養子として後を継ぐはずだった。将軍家からも「お前が次の将軍だ」という約束の重書をもらっていた。
ところが、義持が他界した後、京都の諸侍たちは勝手にルールを変更。義持の弟で、延暦寺の座主(トップ僧侶)だった二位の公を無理やり還俗させて、六代将軍・足利義教として担ぎ上げた。
これにブチ切れたのが持氏だ。「俺が継ぐはずだったのに、割り込みしやがって!」と、京都との関係は最悪になった。
そんな中、持氏の息子・賢王殿の元服イベントが発生。慣例では京都の将軍に「親」になってもらうんだが、持氏は「あんな僧侶崩れ、認めるか!」と拒否。八幡宮で自分勝手にイベントを強行しようとした。これに待ったをかけたのが、最強の補佐官職である関東管領の上杉 憲実だ。
「公方様、京都と揉めるのはリスクが高すぎます。ここは平和的に解決しましょう」
憲実の正論に、持氏はさらに逆上。「お前、京都の回し者か?」と疑い、憲実を完全無視して元服を強行。憲実との関係も「水と火」のように最悪になった。
耐えきれなくなった憲実は、上州へ引きこもり、京都に告げ口の報告を送信。これを受けた将軍・義教が「関東を討伐せよ」という勅令を奉じて、永享十一年(1439年)、持氏とその息子・義久は自害に追い込まれた。……これが最初の「破滅イベント」だ。
その後、持氏の残された息子たち(春王・安王)も結城城で生け捕られ、処刑された。関東は完全に「亡国」状態。近国も遠国も入り乱れて戦う、完全な無法地帯と化した。
そんなカオスを一度だけリセットしたのが、山内上杉の顕定だ。彼は軍勢を率いて現れ、逆徒を追討して一時的に平和を取り戻した。
だが、平和は長くは続かない。今度は「山内上杉家」と「扇谷上杉家」という、同じ上杉の二大勢力が、どっちが真の統領かを巡ってケンカを始めた。
この分裂の原因、実は部下の「昇進」だったんだ。扇谷のボス・定正の家老、長尾将監には二人の息子がいた。兄の左衛門尉と、兄の息子が長尾 景春。弟の尾張守と、弟の息子が修理助。
定正は、本来なら惣領家を継ぐはずの景春を差し置いて、お気に入りの弟の息子である修理助を優遇しちまった。
これにキレたのが景春だ。「俺の方が血筋も貢献度も上だろ!」と遺恨を爆発させた。扇谷の最強武将・太田 道灌が定正をいさめた。
「景春は危険です。今のうちに処罰するか、不公平な人事を改めてください。さもないと、この扇谷は崩壊しますよ」
だが、無能な定正はこれを聞き入れなかった。結果、景春は反乱を起こし、武州・五十子へ四千騎で押し寄せた。定正は小勢で勝ち目がないと悟り、鉢形城へ逃げ込んだ。ここから関東は、本当の戦国時代に突入した。
この定正、実は面白い理屈を持っていた。俺からすれば負け惜しみに聞こえるが、一理ある。彼は養子の朝良にこう説教したんだ。
「お前、最近負けすぎだろ。それは智謀と兵略が足りないからだ。俺を見ろ。俺が三十年以上、数多の合戦で無双し続けているのは、ひとえに『武略』というスキルを磨いているからだ」
さらに彼は、家臣の斎藤加賀守に指揮権を預けたことを批判する奴らに対し、こう言い放った。
「戦場を一度も踏んだことがないような奴に、アドバイスを求める意味があるか? 加賀守は二十四度の合戦すべてにおいて、その都度、的確な『攻略法』を俺に提案してきた。昼夜を問わず戦術を考えている奴だ。たとえ身分の低い百姓であっても、正しい攻略法を言えば俺はそれを神仏の言葉だと思って従う。地位の高さなんて関係ねえ。戦いの良し悪しを知っている奴こそが、真の貴族なんだよ」
(フン、面白い。身分にこだわらず実力を重んじる……。その考え、俺の「北条の理」に近いじゃないか。だが、定正。お前は致命的なミスを犯している)
定正は、あまりにも有能すぎた太田道灌が「山内に寝返るかもしれない」と疑心暗鬼になり、自分の最強 武将を自ら暗殺しちまったんだ。
「城壁を堅牢にしすぎるのは国の害だ。道灌は反逆しようとしている」なんて理屈を並べてな。味方の主力 武将を暗殺するなんて、戦国武将として失格だろ?
案の定、定正の扇谷はさらに衰退。あちこちで小競り合いが続き、三歳の幼児ですら犠牲になるような悲惨な世の中になっちまった。
そんな中、俺(伊勢新九郎)は駿河の興国寺城で、この「両上杉の相論と泥沼合戦」の経過を眺めていた。
「――これ、天が俺に『獲れ』って言ってるよね?(二回目)」
名門同士が身内同士で争い、最強の部下を殺し、疲弊しきっている。これこそ絶好の機会だ。俺は延徳年間に軍勢を率いて伊豆を切り取り、明応年には相模(神奈川)へ殴り込んだ。
俺が着々と「実績」を積み上げている間に、かつての大物たちは次々と死亡していった。
扇谷定正:明応二年十月五日、病死。
山内顕定:永正七年、越後の長尾為景(上杉謙信の父)と対立。四十三年間も弓矢を執り続けてきたベテランだったが、最後は五十代で討たれた。
名門の血筋を誇っていた両上杉も、結局は自分たちが作り出した「内紛」に呑み込まれて消えていったんだ。
俺の息子、氏綱の代になれば、江戸も河越もすべて俺たちの領土になる。そこは、かつて太田道灌が築いた城であり、在原業平が「みよしのの田面の雁」と詠んだ由緒ある地域だ。
じいさんが見たという氏綱の画像は、物凄く「イカつい顔」をしていたらしいな。荒神のような威圧感……。
それも当然だ。俺たちは、腐った名門たちが壊したこの関東を、「圧倒的な実力」と「冷徹な効率」で作り直してきたんだからな。
早雲の代で相模の半分。氏綱の代で相模全域、さらに下総、武蔵へ。俺たちの「北条五代」という壮大な物語は、まだ始まったばかりだ。古い家系図を自慢するだけの武将は、もういらない。
これからは、朝4時に起きて、正直に生き、最強の戦略を練る奴が勝つ。俺の「理」だ。
校訂 北条五代記 博文館編輯局(明治三十二年)
三 両上杉たゝかいの事
聞しはむかし、鎌倉の公方よりつたはり、関東の公方、京の公方と号す、両公方まします。扨又文明の比、両上杉は関東諸侍の統領たり。然るに両上杉の中、不和いでき、引分て弓箭有つるよし、聞つたふるといへ共、其由来をしらず。或老士語りていはく、関東乱国のこんぽんを尋るに、京都の将軍よしもち公に御息なきによつて、かまくらもちうぢ君を養子にかねて御定あり、御重書をも御ゆづり有所に、よしもち御他界の後、京都の諸侍同心有て、義満公の御 骨肉にてましませばとて、義持公の御 舎弟、二位の公青蓮院、えいざんの座主にておはしますを引くだし、将軍にあふぎ奉る。是によつて内々持氏公京都と御 気色あしき時分、御息賢王殿御げんぶくの事、天下にをいてゑぼし親に取べき人是なき故、義家公の例にまかせ、八まん宮にをいて御げんぶく有べきよし、官領上杉 安房守憲実に御ごだんかう有しに、のりざね都鄙御一とうをおもんぱかり、京都にをいて御げんぶくしかるべき由申によつて、御気色にそむき、御げんぶくの義を安房守にしらせ給はず。去程に上下の御間、水火のごとくたがひにさうせつ有の間、憲実は山の内をしりぞき、上州へ引こもり、京都へ訴へ申されける間、やがて義教公の下知として関東乱国となり、永享十一年二月十日、持氏公は永安寺にて御 生害、御息けんわう義久公は報国寺にて御 自害なり。春王殿、安王殿は日光山へおち給ふ。結城の七郎光久、重代の主君にておはしますとて御迎ひに参り、ゆうきへ入申所に、のりざね重ねてとひの軍勢をもよほし、ゆうきの舘にをしよせ、嘉吉元年四月十六日にせめおとし、両人の若君をいけどり奉り、ろうよにのせ申、長尾いなばの守御 供仕、上洛する所に、上意下て、濃州たるゐの道場にておなじき年中、御 生害なり。それより以来このかた関東 亡国となり、近国遠国入みだれたゝかひあり。其後かまくら山内上杉 憲忠(のりたゞ)十州にをよんで収領す。其家老長尾左衛門尉 昌賢は文武二道に達し、関八州にほまれをえたる無双の者也。然どものりたゞ運命つき、かまくらにて滅亡し給ひぬ。是によつて東国みなもつて敵国となる所に、上越のさかひに居住す上杉民部の大夫 顕定、軍兵を率しはせ来て、逆徒等をこと〴〵く追討し、もとのごとく治まりき。持氏公の四 男成氏公、成氏の御息政氏公まで、上杉の一家あまた引分て合戦すといへども又 和睦あり。其後山内顕定、扇谷定正、此両上杉殿関東諸侍の統領として奥州までも彼下知に従ひしが、文明年中に主従分て弓矢を取、其上二人の中あしく成て、東西南北にをいて算をみだし、たゝかひ止む事なし。ていれば両上杉殿 不和のおこりを尋るに、修理の大夫定正の家老長尾 将監入道に二人の子息あり、長兄左衛門尉、弟(おとゝ)尾張守と号す。あにの左衛門尉の子を四郎右衛門尉 景春といふ。後は伊玄入道と改名す。弟(おとゝ)尾張守が嫡男修理助と名付。此者 若年の比より奉公いみじかりける故、君の憐愍浅からず。是によつて過分のふるまひをなし、あまつさへ惣領家をつぎ来る四郎右衛門尉をそばだつるにより、景春遺恨止む事なし。定正の長臣太田 道灌、主君をいさめていはく、長尾左衛門尉 父子不義のていたらくを見及び候。かれを誅罸なくば御家のわざはひ連続たるべし。さなくば当時尾張守父子を御近辺をしりぞかれ、以後して御 計策をめぐらさるべき由申といへ共、定正此両条 承引なし。者ていれば左衛門尉 父子既に謀叛をくはだて、主君扇谷殿をほろぼし、をのれ諸侍のとうりやうにならんとはかりごとをめぐらす所に、其家の子三戸と駿河の守、太田 備中守、上田ひやうごの助をはじめ、主君に弓を引給はん事 天道のおそれあり、思ひとゞまり給へといさめけれ共、景春用ひずして大石一類長尾 但馬守を先とし、こと〴〵く引率し四千よきにて武州五十子といふ所までをしよせ、ぢんとる。定正 俄の義なれば小勢にて叶はじと、武州 鉢形の城にたてこもり給ひぬ。然るに近国 他国入みだれ、矢弓おこつて算をみだしたゝかふ。其上両上杉殿の中、不和に成て合戦止む事なし。定正は修理大夫 持朝の四男也。子なきがゆへ、あにの朝昌の嫡男朝良を養子になす。定正、ともよしをいさめていはく、近年ともよし合戦いくさの手だて相違の義おほく見及び候ひぬ。是 智謀兵略のたらざる故なり。定正三十余年、数度の合戦にをいて勝利をうる事、ひとへに武略をもつてせり。者ていれば斎藤加賀守(さいとうかゞのかみ)に団をあづくる事、非道の様に、ともよし親近の者ひはんするよしを聞く。異国本朝、古今戦国の法をしらざる故なり。当方一二の家老なりとて、敷度の戦場をふまず、行てだての異見をいはざるものに、うちわを預け何の益あらんや。定正二十四度の大合戦にをいて、加賀守は片時の内にも、てだて一ツ二ツは善悪共に言上す。其身此 一道を書夜胸中にたもち忘るゝ事なきか。たとへ他国より民百姓共来て、いくさのてだて言上せば、すなはちまりしてん、八幡のをしへと信仰し、うちわを預け異見を聞べし。古人云、貴賤の分者は行てだて之 善悪に有と云々。然に山内の御事は御きようもいらず。其故は幕下の大臣守護の家なり。者ていれば三十余年の乱中、定正 総領家ををもんじ、数度の忠功をはげますといへ共、いまだ長尾 半分限にもたらず。扨又 道灌父子山内へ対し逆心のむね有によて、折檻をくはふかといへ共用ひず、城壁をけんごになす。左伝曰、都城百雉に過ぎたるは国の害也と云々。いかに江戸かわごえの両城 堅固たり共、山内へ不義に至ては果たして叶ふべからずといさむるといへ共用ひず、あまつさへ謀略を思ひ、その間たちまちに誅し、則ち山内へ注進す。かく忠功をいたす所に御心をひるがへされ、道灌子源六を御 膝下へめしよせられ、其上定正 父子を退治有べき御企て何事ぞや。両家士卒在々(ざい〳〵)所々(しよ〳〵)にてたゝかひ皆ほろびぬべし。其以後他国より慮外の盗跖来て関東恣しまゝになし、両家たへはて万民悲歎、三才の幼児もる義也。すべて一二ケ国 無為の刻み安堵の思ひをなし、上武相三ケ国をとゝのへ候に付ては、朝良他国へうち越、山野を住所とし甲冑を枕となし、夜を征鞍にあかし、身を溝壑になげうち、かばねを路頭にさらす事おしむべからず。当家として山内へ相双ぶ事 鵬鷃のつばさあそぶに似たるか。あへてもつて愚老自讃たりといへども、五年残命にをいては武相上の諸士皆もつて幕下等従ひ属すべき事たなごゝろの内に有といへり。扨又大 森寄栖庵が、上杉民部大夫顕定へ遣はす状にいはく、つら〴〵御進退を見るに、偏に天魔の所行、時節 到来のみぎりか。抑(そも〳〵)関東の様体、今に至て見廻り候に、山の内の御事は、公方様御在世の時分より上杉のとうりやう。然間諸家彼旗本をまもり、尊敬比類なし。御勢二十万騎と云々。扇谷の御事は、わづか百騎ばかりなり。然る所に仮令御家風、太田しんくわん、ふしぎの器用をもつて名を天下にあげ、ほまれを八州にふるひ、諸家心をよせ、万民頭をうなたれ饗をなす事。しかしながら天道の至り、又はその身の果報か、何様両条に過ぐべからず。末代しよくせたりといへ共、日月 地に落ざる事、三歳のようちもかくき仕事に候。かくのごとく申事、誠に推参至極に候といへ共、愚老累代に及び、当方御家風同前に候間、心底別義を存ぜず、隔心なく申のべ候。先年両家御不和の時、山の内は御一身、扇谷の御事は公方様引立御申、すでに政氏様御 発向、其以下長尾伊玄入道御供いたし、高見 菅谷にをいて両度御 敵御方、はだへをあはせ、御 家風少々かばねを荒野にさらし、ふんこつをなされ、今に至て鉢形御滅亡是なく候と書たり。則然ば、両上杉不和のたゝかひも数年をへたり。扨又両上杉殿ひき分て合戦のしだひを記しをきたる古き文に云、長享年中、上杉のとうりやう山内顕定公、同名修理大夫定正公と波瀾を発す。然に将軍左馬 頭政氏公は顕定 合力として一万よきを引率し、村岡如意輪寺に発向有て合戦有よしを書たり。され共右に記す寄栖庵が文は、関東にてあまねく童子共のよみ来れり。此文を見る則は公方 政氏公は定正一味と知られたり。然共おぼつかなき故、両説ともにしるし侍る也。又両 官領と云いひならはすといへ共、定正官領の沙汰たしかなる文をばいまだ見ず。者ていれば顕定と定正相州 実巻原の合戦は文明十八年二月五日なり。すがや原の合戦は同六月八日也。たか見原合戦もおなじ年なり。定正高見原一 戦以後は上州へ出陣なし。其子細は、上州へはたらくに至ては、すでに越州の多勢はせ来て、たちまち難義をまねくべし。其内案ずるてだてあり。若はちかたに憲房を仕付申に至ては、上州の一揆こと〴〵く長尾 幕下にふくし、顕定上州しらゐに発向に至ては、定正武相の両勢を引率し、上野へみだれ入、民屋を放火し亡国となし、兵略術をつくし、昼夜をわかず合戦すべし。其上越国の軍勢千里にをよび、運粮かなふべからず。味方勝利あらん事案の内にありと云て、定正終に上州へ出馬せずと聞く。小身たりといへ共、智謀武略の達人と聞へたり。其比するが高国寺の城に、いせ新九郎 氏茂といひて文武のさふらひ有。後は北条 早雲庵主と改号す。両上杉引分てたゝかひ有よし聞及び、軍兵を催し延徳の比伊豆を切て取、明応年中さがみの国へ打入、たゝかひ有しが、定正は明応二年十月五日逝去也。その後ともよし、江戸河越両城のしゆごとし、顕定とたゝかふ。永正元年九月、ともよし加勢として早雲と今川氏親大軍を率し武州へ出馬有て、立河原にをいて顕定と合戦あり。又顕定此 返報として同き十月 越後の軍兵をもよほし、武州河越の城をとりまひてせめたゝかふ事年をこえたり。然に和睦の義ありて、次の年三月 顕定越後へ帰国なり。顕定は十四歳の比、関東へ越山ありてこのかた四十三年弓矢をとり給ひぬ。越州のしやてい九郎 房義、家老長尾六郎 為景とむじゆん有。つゐには義房うちまけ、あまみぞといふ地にてうたれ給ひぬ。是によつて顕定うつぷんをさんぜんため、永正六年七月廿八日武州を打たち、翌月越州へ発向ありて国中大かた手にいれ、本意をとげられ、為景を越中のさかひにしばまへついたうありといへ共、翌年一 揆おこつて府中をはいぐんす。ゑちごしなのゝさかひ、なかもり原にをいて、たかなし落合おなじき七年六月廿日、とし五十七にして生害なり。法名皓峯可淳と申き。その後三浦介道寸は、かまくらの近所すみよしに在城す。上杉ともおきは武州江戸に有て、早雲とたゝかひあり。のべつくすべからずといへり。
〜参考文献〜
北条五代記(博文館編輯局校訂) - Wikisource
https://share.google/FGo71GTKh9plFa7d0
〜舞台背景〜
この作品では原典を併記していますが、これがなかなか厄介で、単にWikiなどから貼り付けると元のルビが崩れて文章がグチャグチャになります。そのため原文の体裁は、ストーリーを考える数倍の手間を掛けて整えています。
せっかくなので、小説と原文を見比べながら、原典の雰囲気を感じてもらえたらと思います。
この「小説+原文併記」という形式は、たぶんなろうではあまり見ない試みだと思います。
もし面白い試みだと思って頂けたら☆5とは申しませんが、☆3〜4くらい頂けると嬉しいです。
逆に「ウ~ン」と思われた方は、遠慮なく☆1で意思表示して頂ければと思います。率直な感想として謹んで承ります。




