表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
新訳 北条五代記 〜 近所の隠居が書いたメモがガチの戦記だった件 ~ 北条の覇道、その系譜  作者: 条文小説


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

9/12

2-3 両上杉の泥沼内戦、漁夫の利で『伊豆』をコンプリート

挿絵(By みてみん)


北条五代記ほうじょうごだいき』は、三浦浄心が著した、後北条氏にまつわる話題を中心とした仮名草子・軍記物語。確認されている最古の版本は寛永18年(1641年)刊。万治2年(1659年)版が流布本で残存数も多い。ともに全10巻だが内容には改変がある。出典:Wikipedia

 俺の名前は伊勢いせ新九郎しんくろう。後に北条 早雲そううんとして、関東の覇者となる男だ。


 世間じゃ俺のことを「一介の素浪人が突然現れて国を盗った」なんて言っているが、さっきも言った通り、本当の俺は名門中の名門、平氏の末裔だ。だが、俺がこの関東という巨大な地域エリアに侵攻した時、そこはすでに崩壊寸前だった。


 特に酷かったのが、関東のツートップである「両上杉の山内やまのうち扇谷おうぎがやつ」だ。あいつらは本来、関東を管理する立場だったはずなんだが、身内同士で延々と泥沼の内紛ウチゲバを繰り返していた。


 なぜそんなことになったのか? じいさんたちの昔話……いや、この「関東亡国」の記録ログを、俺の視点で解析してやろう。


 すべての混乱の始まりは、京都の将軍(四代・足利義持)に後継者がいなかったことだ。本来なら、鎌倉公方の足利 持氏もちうじが養子として後を継ぐはずだった。将軍家からも「お前が次の将軍だ」という約束の重書をもらっていた。


 ところが、義持が他界した後、京都の諸侍たちは勝手にルールを変更。義持の弟で、延暦寺の座主(トップ僧侶)だった二位の公を無理やり還俗させて、六代将軍・足利義教よしのりとして担ぎ上げた。


 これにブチ切れたのが持氏だ。「俺が継ぐはずだったのに、割り込みしやがって!」と、京都との関係は最悪になった。


 そんな中、持氏の息子・賢王殿の元服イベントが発生。慣例では京都の将軍に「親」になってもらうんだが、持氏は「あんな僧侶崩れ、認めるか!」と拒否。八幡宮で自分勝手にイベントを強行しようとした。これに待ったをかけたのが、最強の補佐官職である関東管領の上杉 憲実のりざねだ。


「公方様、京都と揉めるのはリスクが高すぎます。ここは平和的に解決しましょう」


 憲実の正論に、持氏はさらに逆上。「お前、京都の回し者か?」と疑い、憲実を完全無視して元服を強行。憲実との関係も「水と火」のように最悪になった。


 耐えきれなくなった憲実は、上州ぐんまへ引きこもり、京都に告げ口の報告を送信。これを受けた将軍・義教が「関東を討伐せよ」という勅令を奉じて、永享十一年(1439年)、持氏とその息子・義久は自害に追い込まれた。……これが最初の「破滅イベント」だ。


 その後、持氏の残された息子たち(春王・安王)も結城城で生け捕られ、処刑された。関東は完全に「亡国」状態。近国も遠国も入り乱れて戦う、完全な無法地帯と化した。


 そんなカオスを一度だけリセットしたのが、山内上杉の顕定あきさだだ。彼は軍勢を率いて現れ、逆徒を追討して一時的に平和を取り戻した。


 だが、平和は長くは続かない。今度は「山内やまのうち上杉家」と「扇谷おうぎがやつ上杉家」という、同じ上杉ギルドの二大勢力が、どっちが真の統領リーダーかを巡ってケンカを始めた。


 この分裂の原因、実は部下の「昇進」だったんだ。扇谷のボス・定正さだまさの家老、長尾将監には二人の息子がいた。兄の左衛門尉と、兄の息子が長尾 景春かげはる。弟の尾張守と、弟の息子が修理助。


 定正は、本来なら惣領家を継ぐはずの景春を差し置いて、お気に入りの弟の息子である修理助を優遇しちまった。


 これにキレたのが景春だ。「俺の方が血筋ステータスも貢献度も上だろ!」と遺恨を爆発させた。扇谷の最強武将ユニット・太田 道灌どうかんが定正をいさめた。


「景春は危険です。今のうちに処罰するか、不公平な人事を改めてください。さもないと、この扇谷ギルドは崩壊しますよ」


 だが、無能な定正はこれを聞き入れなかった。結果、景春は反乱を起こし、武州・五十子いらこへ四千騎で押し寄せた。定正は小勢で勝ち目がないと悟り、鉢形城へ逃げ込んだ。ここから関東は、本当の戦国時代に突入した。


 この定正、実は面白い理屈を持っていた。俺からすれば負け惜しみに聞こえるが、一理ある。彼は養子の朝良ともよしにこう説教したんだ。


「お前、最近負けすぎだろ。それは智謀と兵略が足りないからだ。俺を見ろ。俺が三十年以上、数多の合戦で無双し続けているのは、ひとえに『武略』というスキルを磨いているからだ」


 さらに彼は、家臣の斎藤加賀守に指揮権を預けたことを批判する奴らに対し、こう言い放った。


「戦場を一度も踏んだことがないような奴に、アドバイスを求める意味があるか? 加賀守は二十四度の合戦すべてにおいて、その都度、的確な『攻略法』を俺に提案してきた。昼夜を問わず戦術を考えている奴だ。たとえ身分の低い百姓であっても、正しい攻略法を言えば俺はそれを神仏の言葉だと思って従う。地位の高さなんて関係ねえ。戦いの良し悪しを知っている奴こそが、真の貴族なんだよ」

 (フン、面白い。身分にこだわらず実力を重んじる……。その考え、俺の「北条の理」に近いじゃないか。だが、定正。お前は致命的なミスを犯している)


 定正は、あまりにも有能すぎた太田道灌が「山内に寝返るかもしれない」と疑心暗鬼になり、自分の最強 武将ユニットを自ら暗殺しちまったんだ。


「城壁を堅牢にしすぎるのは国の害だ。道灌は反逆しようとしている」なんて理屈を並べてな。味方の主力 武将キャラ暗殺デリートするなんて、戦国武将として失格だろ?


 案の定、定正の扇谷ギルドはさらに衰退。あちこちで小競り合いが続き、三歳の幼児ですら犠牲になるような悲惨な世の中になっちまった。


 そんな中、俺(伊勢新九郎)は駿河の興国寺城で、この「両上杉の相論レスバと泥沼合戦」の経過ログを眺めていた。


「――これ、天が俺に『獲れ』って言ってるよね?(二回目)」


 名門同士が身内同士で争い、最強の部下を殺し、疲弊しきっている。これこそ絶好の機会タイミングだ。俺は延徳年間に軍勢を率いて伊豆を切り取り、明応年には相模(神奈川)へ殴り込んだ。


 俺が着々と「実績」を積み上げている間に、かつての大物たちは次々と死亡ログアウトしていった。


扇谷定正:明応二年十月五日、病死。

山内顕定:永正七年、越後の長尾為景(上杉謙信の父)と対立。四十三年間も弓矢を執り続けてきたベテランだったが、最後は五十代で討たれた。


  名門の血筋ブランドを誇っていた両上杉も、結局は自分たちが作り出した「内紛」に呑み込まれて消えていったんだ。


 俺の息子、氏綱うじつなの代になれば、江戸も河越もすべて俺たちの領土テリトリーになる。そこは、かつて太田道灌が築いた城であり、在原業平が「みよしのの田面の雁」と詠んだ由緒ある地域フィールドだ。


 じいさんが見たという氏綱の画像は、物凄く「イカつい顔」をしていたらしいな。荒神のような威圧感……。


 それも当然だ。俺たちは、腐った名門たちが壊したこの関東を、「圧倒的な実力」と「冷徹な効率ロジック」で作り直してきたんだからな。


 早雲の代で相模の半分。氏綱の代で相模全域、さらに下総、武蔵へ。俺たちの「北条五代」という壮大な物語サーガは、まだ始まったばかりだ。古い家系図を自慢するだけの武将プレイヤーは、もういらない。


 これからは、朝4時に起きて、正直に生き、最強の戦略を練る奴が勝つ。俺の「ルール」だ。




校訂 北条五代記 博文館編輯局(明治三十二年)




三 両上杉たゝかいの事


聞しはむかし、鎌倉かまくら公方くばうよりつたはり、関東くわんとうの公方、京の公方とがうす、両公方まします。扨又文明のほひ、両上杉は関東諸侍しよさふらひ統領とうりやうたり。然るに両上杉の中、不和ふわいでき、引分ひきわけ弓箭ゆみや有つるよし、聞つたふるといへ共、其由来ゆらいをしらず。ある老士らうし語りていはく、関東乱国らんごくのこんぽんを尋るに、京都の将軍しやうぐんよしもち公に御息ごそくなきによつて、かまくらもちうぢ君を養子やうしにかねて御定あり、御重書ごぢうしよをも御ゆづり有所に、よしもち御他界たかいの後、京都の諸侍さふらひ同心有て、義満よしみつ公の御 骨肉こつにくにてましませばとて、義持よしもち公の御 舎弟しやてい二位きみ青蓮院せいれいゐん、えいざんの座主ざすにておはしますを引くだし、将軍にあふぎ奉る。是によつて内々持氏公京都と御 気色きしよくあしき時分、御息ごそく賢王殿けんわうどの御げんぶくの事、天下にをいてゑぼしおやに取べき人是なき故、義家よしいへ公のれいにまかせ、八まんぐうにをいて御げんぶく有べきよし、官領くわんれい上杉 安房守あはのかみ憲実のりざねに御ごだんかう有しに、のりざね都鄙とひ御一とうをおもんぱかり、京都にをいて御げんぶくしかるべき由申によつて、御気色にそむき、御げんぶくの義を安房守にしらせ給はず。去程に上下の御間、水火のごとくたがひにさうせつ有の間、憲実のりざねは山の内をしりぞき、上州しらゐへ引こもり、京都へうつたへ申されける間、やがて義教よしのり公の下知げちとして関東乱国らんごくとなり、永享ゑいかう十一年二月十日、持氏公は永安寺ゑいあんじにて御 生害しやうがい御息そくけんわう義久公は報国寺ほうこくじにて御 自害じがいなり。春王殿、安王殿は日光につくわう山へおち給ふ。結城ゆふきの七郎光久、重代ぢうだい主君しゆくんにておはしますとて御迎むかひに参り、ゆうきへ入申所に、のりざねかさねてとひの軍勢ぐんぜいをもよほし、ゆうきのたちにをしよせ、嘉吉かきつ元年四月十六日にせめおとし、両人の若君わかぎみをいけどり奉り、ろうよにのせ申、長尾ながをいなばの守御 とも仕、上洛する所に、上意下て、濃州じやうしうたるゐの道場だうじやうにておなじき年中、御 生害しやうがいなり。それより以来このかた関東 亡国ぼうこくとなり、近国きんごく遠国をんごく入みだれたゝかひあり。其後かまくら山内上杉 憲忠(のりたゞ)十州しうにをよんで収領しうりやうす。其家老長尾左衛門尉 昌賢まさかた文武ぶんぶ二道にたつし、関八州にほまれをえたる無双ぶそうの者也。然どものりたゞ運命うんめいつき、かまくらにて滅亡めつばうし給ひぬ。是によつて東国みなもつててき国となる所に、上越じやうえつのさかひに居住きよぢう上杉民部みんぶの大夫 顕定あきさだ軍兵ぐんびやうそつしはせ来て、逆徒等ぎやくとらをこと〴〵く追討ついたうし、もとのごとくおさまりき。持氏公の四 なん成氏しげうぢ公、成氏の御息そくまさ氏公まで、上杉の一家あまた引分て合戦すといへども又 和睦くわぼくあり。其後山内顕定、扇谷あふぎのやつ定正、此両上杉殿関東諸侍の統領とうりやうとして奥州おうしうまでも彼下知にしたがひしが、文明年中に主従分て弓矢を取、其上二人の中あしく成て、東西南北とうざいなんぼくにをいて算をみだし、たゝかひむ事なし。ていれば両上杉殿 不和ふわのおこりを尋るに、修理しゆりの大夫定正の家老からう長尾 将監しやうげん入道に二人の子息しそくあり、長兄左衛門尉、弟(おとゝ)尾張守をはりのかみがうす。あにの左衛門尉の子を四郎右衛門尉 景春かげはるといふ。後は伊玄入道とかいみやうす。弟(おとゝ)尾張守が嫡男ちやくなん修理助と名付。此者 若年じやくねんころより奉公ほうこういみじかりける故、君の憐愍れんみん浅からず。是によつて過分のふるまひをなし、あまつさへ惣領家そうりやうけをつぎ来る四郎右衛門尉をそばだつるにより、景春かげはる遺恨いこんむ事なし。定正の長臣ちやうしん太田 道灌だうくわん主君しゆくんをいさめていはく、長尾左衛門尉 父子ふし不義ふぎのていたらくを見及び候。かれを誅罸ちうばつなくば御家いへのわざはひ連続れんぞくたるべし。さなくば当時たうじ尾張守父子ふし御近辺きんぺんをしりぞかれ、以後して御 計策けいさくをめぐらさるべき由申といへ共、定正此両条 承引せういんなし。者ていれば左衛門尉 父子ふしすで謀叛むほんをくはだて、主君しゆくん扇谷あふぎのやつ殿をほろぼし、をのれ諸侍のとうりやうにならんとはかりごとをめぐらす所に、其家の子三戸と駿河するがの守、太田 備中びつちう守、上田ひやうごの助をはじめ、主君しゆくんゆみを引給はん事 天道てんだうのおそれあり、思ひとゞまり給へといさめけれ共、景春かげはるもちひずして大石一類長尾 但馬たじま守を先とし、こと〴〵く引率いんそつし四千よきにて武州ぶしう五十子といふ所までをしよせ、ぢんとる。定正 にはかの義なれば小勢にてかなはじと、武州 鉢形はちがたの城にたてこもり給ひぬ。然るに近国 他国たこく入みだれ、矢弓おこつてさんをみだしたゝかふ。其上両上杉殿の中、不和ふわに成て合戦かつせんむ事なし。定正は修理しゆり大夫 持朝もちとも四男なん也。子なきがゆへ、あにの朝昌ともまさ嫡男ちやくなん朝良ともよし養子やうしになす。定正、ともよしをいさめていはく、近年ともよし合戦かつせんいくさの手だて相違さういおほく見及び候ひぬ。是 智謀ちぼう兵略ひやうりやくのたらざる故なり。定正三十余年、数度すどの合戦にをいて勝利せうりをうる事、ひとへに武略ぶりやくをもつてせり。者ていれば斎藤加賀守(さいとうかゞのかみ)にうちわをあづくる事、非道ひだうやうに、ともよし親近しんきんの者ひはんするよしを聞く。異国本朝いこくほんてう古今ここん戦国せんごくの法をしらざる故なり。当方たうはう一二の家老からうなりとて、敷度すど戦場せんぢやうをふまず、行てだての異見いけんをいはざるものに、うちわをあづけ何のえきあらんや。定正二十四度の大合戦にをいて、加賀守は片時へんじの内にも、てだて一ツ二ツは善悪ぜんあく共に言上ごんじやうす。其身此 一道だう書夜ちうや胸中けうちうにたもちわするゝ事なきか。たとへ他国よりたみ百姓共来て、いくさのてだて言上ごんじやうせば、すなはちまりしてん、八幡まんのをしへと信仰しんがうし、うちわをあづ異見いけんを聞べし。古人こじん云、貴賤きせん分者ぶんは行てだて之 善悪ぜんあくに有と云々。然に山内の御事は御きようもいらず。其故は幕下ばつか大臣しん守護しゆごの家なり。者ていれば三十余年の乱中らんちう、定正 総領そうりやう家ををもんじ、数度すど忠功ちうこうをはげますといへ共、いまだ長尾 半分限はんぶんげんにもたらず。扨又 道灌だうくわん父子ふし山内へたい逆心ぎやくしんのむね有によて、折檻せつかんをくはふかといへ共用もちひず、城壁じやうへきをけんごになす。左伝さでん曰、都城百雉とじやうはくちぎたるは国のがい也と云々。いかに江戸かわごえの両城 堅固けんごたり共、山内へ不義ふぎに至てはたしてかなふべからずといさむるといへ共用ひず、あまつさへ謀略ぼうりやくを思ひ、その間たちまちにちうし、すなはち山内へ注進ちうしんす。かく忠功ちうこうをいたす所に御心をひるがへされ、道灌だうくわん子源六を御 ひざ下へめしよせられ、其上定正 父子ふし退治たいぢ有べき御企くはだて何事ぞや。両家りやうけ士卒しそつ在々(ざい〳〵)所々(しよ〳〵)にてたゝかひ皆ほろびぬべし。其以後他国より慮外りよぐわい盗跖たうせき来て関東恣ほししまゝになし、両家たへはて万民悲歎ばんみんひたん三才さい幼児えうじもる義也。すべて一二ケ国 無為ぶゐきざ安堵あんどの思ひをなし、じやうさう三ケ国をとゝのへ候に付ては、朝良ともよし他国たこくへうち越、山野さんやを住所とし甲冑かつちうまくらとなし、夜を征鞍せいあんにあかし、身を溝壑かうがくになげうち、かばねを路頭ろとうにさらす事おしむべからず。当家たうけとして山内へ相双ならぶ事 鵬鷃ほうあんのつばさあそぶにたるか。あへてもつて愚老ぐらう自讃じさんたりといへども、五年残命にをいてはさうじやう諸士しよし皆もつて幕下ばつか等従したがしよくすべき事たなごゝろの内に有といへり。扨又大 森寄栖庵もりきせいあんが、上杉民部大夫顕定へつかはすじやうにいはく、つら〴〵御進退しんたいを見るに、ひとへ天魔てんま所行しよぎやう、時節 到来たうらいのみぎりか。抑(そも〳〵)関東の様体やうだい、今に至て見廻めぐり候に、山の内の御事は、公方様御在世ざいせ時分じぶんより上杉のとうりやう。然間諸家しよけ彼旗本はたもとをまもり、尊敬そんきやう比類ひるいなし。御勢せい二十万騎と云々。扇谷あふぎのやつの御事は、わづか百騎ばかりなり。然る所に仮令けりやう御家風かふう、太田しんくわん、ふしぎの器用きようをもつて名を天下にあげ、ほまれを八州にふるひ、諸家心をよせ、万民頭かうべをうなたれきやうをなす事。しかしながら天道だうの至り、又はその身の果報くわほうか、何様両条にぐべからず。末代まつだいしよくせたりといへ共、日月 に落ざる事、三歳さいのようちもかくき仕事に候。かくのごとく申事、誠に推参すいさん至極しごくに候といへ共、愚老ぐらう累代るいだいに及び、当方たいはう御家風かふう同前に候間、心底しんてい別義べつぎを存ぜず、隔心なく申のべ候。先年両家御不和の時、山の内は御一身、扇谷の御事は公方様引立御申、すでに政氏様御 発向はつかう、其以下長尾伊玄入道御供いたし、高見 菅谷すがやにをいて両度御 てき御方かた、はだへをあはせ、御 家風かふう少々かばねを荒野くわうやにさらし、ふんこつをなされ、今に至て鉢形はちかた御滅亡めつぼう是なく候と書たり。ときん然ば、両上杉不和のたゝかひも数年をへたり。扨又両上杉殿ひき分て合戦のしだひをしるしをきたるふるふみに云、長享かう年中、上杉のとうりやう山内顕定公、同名どうみやう修理大夫定正公と波瀾はらんおこす。然に将軍しやうぐん左馬 かみ政氏公は顕定 合力がうりよくとして一万よきを引率いんそつし、村岡如意輪寺むらをかによいりんじ発向はつかう有て合戦有よしを書たり。され共右にしる寄栖庵きせいあんが文は、関東にてあまねく童子どうじ共のよみ来れり。此文を見るときんは公方 政氏まさうぢ公は定正一味られたり。然共おぼつかなき故、両説せつともにしるし侍る也。又両 官領くわんれいと云いひならはすといへ共、定正官領の沙汰さたたしかなるふみをばいまだ見ず。者ていれば顕定と定正相州 実巻原さねまきばらの合戦は文明十八年二月五日なり。すがや原の合戦は同六月八日也。たか見原合戦もおなじ年なり。定正高見原一 戦以後せんのいごは上州へ出陣しゆつぢんなし。其子細は、上州へはたらくに至ては、すでに越州ゑつしう多勢たせいはせ来て、たちまち難義なんぎをまねくべし。其内案あんずるてだてあり。もしはちかたに憲房のりふさ仕付しつけ申に至ては、上州の一揆こと〴〵く長尾 幕下ばつかにふくし、顕定あきさだ上州しらゐに発向はつかうに至ては、定正武相ぶさう両勢せい引率いんそつし、上野かうつけへみだれ入、民屋みんおく放火はうくわ亡国ばうこくとなし、兵略術ひやうりやくじゆつをつくし、昼夜ちうやをわかず合戦すべし。其上越国ゑつこく軍勢ぐんぜい千里にをよび、運粮うんらうかなふべからず。味方みかた勝利せうりあらん事案あんの内にありと云て、定正終に上州へ出馬しゆつばせずと聞く。小身たりといへ共、智謀ちぼう武略ぶりやくたつ人と聞へたり。其比ころするが高国寺かうこくじの城に、いせ新九郎 氏茂うぢしげといひて文武ぶんぶのさふらひ有。後は北条 早雲庵主さううんあんじゆ改号かいがうす。両上杉引分てたゝかひ有よし聞及び、軍兵をもよほ延徳えんとくほひ伊豆いづを切て取、明応めいおう年中さがみの国へ打入、たゝかひ有しが、定正は明応二年十月五日逝去せいきよ也。その後ともよし、江戸河越両城のしゆごとし、顕定とたゝかふ。永正元年九月、ともよし加勢かせいとして早雲と今川氏親うぢちか大軍ぐんそつ武州ぶしう出馬しゆつば有て、立河原にをいて顕定と合戦あり。又顕定此 返報へんぽうとして同き十月 越後えちご軍兵ぐんびやうをもよほし、武州河越のしろをとりまひてせめたゝかふ事年をこえたり。然に和睦の義ありて、次の年三月 顕定あきさだ越後へ帰国なり。顕定は十四歳さいの比、関東くわんとう越山ゑつざんありてこのかた四十三年弓矢ゆみやをとり給ひぬ。越州ゑつしうのしやてい九郎 房義ふさよし、家老長尾六郎 為景ためかげとむじゆん有。つゐには義房うちまけ、あまみぞといふ地にてうたれ給ひぬ。是によつて顕定うつぷんをさんぜんため、永正六年七月廿八日武州を打たち、よく月越州へ発向はつかうありて国中こくちう大かた手にいれ、本意ほんいをとげられ、為景ためかげを越中のさかひにしばまへついたうありといへ共、翌年一 おこつて府中ふちうをはいぐんす。ゑちごしなのゝさかひ、なかもり原にをいて、たかなし落合おちあひおなじき七年六月廿日、とし五十七にして生害しやうがいなり。法名はふみやう皓峯可淳こうほうかじゆんと申き。その後三浦みうら介道寸だうすんは、かまくらの近所きんじよすみよしに在城ざいじやうす。上杉ともおきは武州ぶしう江戸に有て、早雲とたゝかひあり。のべつくすべからずといへり。

〜参考文献〜

北条五代記(博文館編輯局校訂) - Wikisource

https://share.google/FGo71GTKh9plFa7d0


〜舞台背景〜

 この作品では原典を併記していますが、これがなかなか厄介で、単にWikiなどから貼り付けると元のルビが崩れて文章がグチャグチャになります。そのため原文の体裁は、ストーリーを考える数倍の手間を掛けて整えています。

 せっかくなので、小説と原文を見比べながら、原典の雰囲気を感じてもらえたらと思います。

 この「小説+原文併記」という形式は、たぶんなろうではあまり見ない試みだと思います。

 もし面白い試みだと思って頂けたら☆5とは申しませんが、☆3〜4くらい頂けると嬉しいです。

 逆に「ウ~ン」と思われた方は、遠慮なく☆1で意思表示して頂ければと思います。率直な感想として謹んで承ります。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
新訳 北条五代記 〜 近所の隠居が書いたメモがガチの戦記だった件〜
美しき女帝 北条政子 〜 婚約破棄どころか強制結婚!? 平家のエリートに嫁がされそうになったので、豪雨の山を越えて愛する無職の元へ走ってみた 〜
新訳 曽我物語 〜 復讐系なろうの原点、父を殺された兄弟の二十年の復讐譚〜
箴言・格言・名言集 〜頑張るあなたへ、今日を乗り越えるための一言〜
拝啓、愛読者様。― 想いを少しだけ 謹呈 条文小説
六道輪廻抄 〜 戦国転生記 〜
コミックス「六道輪廻抄〜戦国転生記〜」
動画生成AIが作成したイメージビデオ
動画生成AIが作成したなろう小説イメージビデオ
動画生成AIが作成したなろう小説イメージビデオ
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ