2-1 北条氏綱、支配域拡大の極意 〜 武蔵を再構築 〜
『北条五代記』は、三浦浄心が著した、後北条氏にまつわる話題を中心とした仮名草子・軍記物語。確認されている最古の版本は寛永18年(1641年)刊。万治2年(1659年)版が流布本で残存数も多い。ともに全10巻だが内容には改変がある。出典:Wikipedia
俺の名前は北条氏綱。伝説の創業者、早雲の跡を継いだ二代目だ。
親父が「伊豆・相模」という初期エリアを完璧に攻略してくれたおかげで、俺の代からは「武蔵・下総」という広大な地域への拡大が目的になっている。
さて、俺の前に立ちはだかった最大のMOBの話をしよう。
関東管領・上杉修理大夫朝興。藤原氏の名門という輝かしいステータスを持ち、江戸の館(江戸城)を拠点に関東を支配していた男だ。
俺たち北条家と上杉家は、国務を巡って何年も不毛な争いを続けてきた。だが大永四年(1524年)、俺は知略を駆使して「江戸城」を奪取。敗れた朝興は河越の城へと引きこもり、そこから十数年、リベンジの機会を伺っていた。
だが、運命の時計は残酷だ。天文六年(1537年)四月下旬、朝興は志半ばで病死。
代わって家督を継いだのは、まだ生年十三歳の嫡男、五郎 朝定だった。
この朝定ってガキ、かなりの「地雷」だった。普通、親が死んだら四十九日の忌引きくらいは大人しくしているもんだ。それが礼儀であり、孝行というものだろう? だが、朝定は違った。
忌明けも待たずに軍事行動を開始。深大寺という古城を再興し、俺に対して弓引く準備を始めたんだ。
周囲の連中は呆れていたよ。「異国じゃ『三年の間は父のやり方を変えないのが孝』って言われてるのに、こいつは無道すぎる」ってな。
神は清らかな場所に宿り、濁った場所からは去る。そんな「不浄な旗」を立てた旗の下に、神が味方するわけがない。朝定、お前は最初から詰んでいるんだよ。
天文六年(1537年)七月十一日。俺は朝定の動きを完全に封じ、自国の支配を確定させるために数万の軍勢を率いて出馬した。
戦場は「三木」と呼ばれる原っぱ。武蔵野の北に位置し、河越城まではわずか五十町(約5.4km)。人馬を並べるには最適な、まさに対人戦のために用意されたような修羅場だ。
七月十五日、夜。雲霞のような両軍が対峙したが、星占いの吉凶を待っているうちに、時刻は丑三つ時(am2時頃)近くなった。
見上げれば、稀に見るほどの満月。草露に月光が反射してキラキラと輝き、野原には虫の声が響いている。猛き武士たちも、この幻想的な月花に見惚れて、しばし戦闘を忘れたかのように思えた。……だが、それも一瞬だ。
「夜の合戦は、金鼓・笳笛(楽器)の節度をもってコントロールせよ」
兵法のマニュアル通り、鼓の音が鳴り響く。互いにあげた「時の声」は天の雲を突き抜け、地獄の底まで届かんばかりの轟音。いよいよ戦闘開始だ。
突撃する兵どもは金剛力士のようなパワーを発揮し、戦場は帝釈天と阿修羅の戦いのような惨状と化した。
降り注ぐ矢は雨のごとく、名手・楊由の射術をも凌駕する。刀と刀がぶつかる火花は雷のようだ。虚空に乱舞する数万の旗は逆風にたなびき、人馬の声が天地を揺らす。
……しばらくは勝敗がつかないように見えた。だが、俺の戦術は狂わない。
不浄の身で戦場に出た朝定は、早々に威光を失った。一陣が崩れた瞬間、あとの連中は将棋倒しのように崩壊した。そこら中に死体が転がり、首が飛ぶ。
俺の軍勢は勝ち馬に鞭を打ち、東西南北へと飛行するがごとく追撃。逃げる朝定の軍勢は、空を舞う「鷲の翼」に捕まった小鳥、あるいは地を走る「獅子の牙」に噛まれた獣のような有様。左右の足は震え、前後の見境もつかない迷走っぷりだ。
十五夜の月は、戦場の土埃に汚れ、紅い血の光を反射していた。二千人以上の武士がここで「過去の人」となり、不名誉な名を後代に残すことになった。
夜が明ける頃には河越の館は陥落し、朝定は命からがら搦手から脱出していった。
昨日まで「自分は気高い、他人は卑しい」なんてすましていたプライドの高い連中も、なりふり構わず無様な姿を晒して、逃亡者の群れに紛れて消えていった。実にあさましい光景だった。
朝定は北へ二十里(約80km)離れた「松山の館」へ逃げ込んだ。城主の難波田弾正忠が主君を迎え入れ、討ち漏らされた残党どもがそこに集まった。
ここで朝定を逃せば、目的達成とはいかない。七月十八日、俺は再び軍を進め、松山の城を包囲。魚鱗の陣で囲み、鶴翼の旗をなびかせ、周囲を万天の煙で覆い尽くした。
二十日、難波田弾正は大将として残党を率い、反撃の旗を掲げて俺に挑んできた。だが、俺は「勝ちに乗った多勢」、あいつらは「負けが込んだ小勢」。蚊が雷に挑むようなもの。あるいはカタツムリが角を争うようなもの。
俺の圧倒的な戦力の前に、敵軍は再び敗北。勇猛な難波田弾正も、ついに後れを取って松山城へと敗走し始めた。
そこへ、俺の配下の山中主膳が馬を寄せ、逃げる敵将に向けて「一首」詠みかけたんだ。
「あしからじ よかれとてこそ たたかはめども 難波田のくづれ行らん」
(悪くしようと思って戦ったわけじゃないのに、難波田の陣は崩れていくんだな。※「菜畑」と「難波田」を掛けた誹諧体の皮肉)
煽り全開だ。だが、難波田もさすがに名のある武士だった。馬の轡を引き返し、さらりとこう返した。
「君ををきて あだし心を 我もたば 末の松山 波もこへなん」
(主君を置いて、裏切り(あだし心)を俺が持つようなことがあれば、あの末の松山を波が越えるような天変地異が起きるだろう。※「古今和歌集」の有名な句を引用した、究極の忠誠宣言)
この返歌には俺の軍勢も感嘆した。主君を城に残して自分だけが討たれるわけにはいかない。身を全うして君に仕える……これこそが忠臣の法だ。難波田はそのまま風のように去っていったが、その場にいた誰もが「あいつは勇者であり、かつ風流を知る功者だ」と賞賛した。
……かつて源頼義公が奥州で安倍貞任を追い詰めた際も、歌でやり取りしたという伝説がある。
「衣のたては ほころびにけり」
(衣の館/衣の縦糸はほころびたな)
「年を経て 糸の乱れの くるしさに」
(長い年月を経て、糸/意図が乱れて苦しいのさ)
殺伐とした戦場でも、武士の心をなぐさめるのは「歌」という文化なんだな。
功を成し名を遂げて、さっと身を引く。俺は「勝利の旗」を巻き収め、本陣へと引き返した。完璧な目的達成だ。
その後、俺は河越城を再 構築。ここはかつて太田道真(道灌の父)が初めて築城した、入間郡 三芳野の里だ。古の在原業平が「三芳野の田面の雁」と詠んだ由緒ある地域だ。
後に、俺の死後、相模の早雲寺にある俺の姿絵を見た奴は驚くらしい。俗体のまま、白衣の上に袈裟をかけ、その顔つきは恐ろしく不気味で、直視できないほどの圧を放っているという。
それは俺が、ただの人間ではなく、この関東を管理する「荒人神」のごとき存在として写されているからだろうな。
俺は、最優秀のアタッカーである息子の氏康に家督を譲り、天文十年(1541年)七月十九日に薨去した。法名は「春松院殿快翁活公大居士」。
親父が相模の半分を手に入れた。そして俺が相模全域を統治し、下総・武蔵の城を次々と攻略。北条の武威を関八州に満たした。俺の代で、北条という「体制」は完成形に近づいた。
あとは、俺の息子、氏康。あいつなら、俺が上書きしたこの新しい理を、さらに広大な世界へと展開してくれるはずだ。
校訂 北条五代記 博文館編輯局(明治三十二年)
一 北条氏綱と上杉朝定合戦の事
聞しは昔。管領上杉修理大夫藤原の朝興公は、武蔵の国主として江戸の舘を居城とす。扨又北条左京大夫平の氏綱公は、伊豆相模の守護とし、小田原に在城なり。たがひに国務をあらそひ、闘諍鉾楯たる事年久しかりき。然るに大永四年の比、氏綱江戸の城を攻め落す。上杉匠作は川越の城に引籠り、十余年の春秋を送り迎へぬ。いつよりか例ならず心そこなひて、天文六年卯月下旬、世を早く去りて、嫡男五郎朝定生年十三歳にして家を継ぎ給ひぬ。しかれば七七日の服忌さへ経ずして道をあらため、兵を起し、深大寺と云古城を再興し、氏綱へ向つて弓矢の企てもつはら也。人さたしけるは、異国には父の道三年あらためざるを孝といへり。その上神は清きに形をうつし、濁れるに影を去る。汚染の旗の上には、いかでか守護の軍神も影を宿さんや。誠に無道の君子たり。氏綱は朝定発向のよしを聞き、強敵をばしりぞけ、自国を治めんがため、同七月十一日数万の軍兵を引率し武州へ出馬し、同十五日河越の城に押寄する。三木といへる原は武蔵野の北にて、河越の城にわづか五十余町を隔つ。此野は人馬の備へ所狭からず、求むるに幸ひなる修羅場なりとて陣す。たがひに旗をあげて両将の軍勢雲霞のごとし。しばらく辰星の吉凶を待つが故に、合戦の時刻うつり去り、漸く丑三の時にも近くなりぬ。折から晴明稀有の満月は草露に光をみがき、紅錦野亭にすだく虫は花の底に声をあらそふ。猛き武士も月にうそぶき花に乗じて、暫く勇者の道を忘るゝかと覚へたり。書に曰く、夜は金鼓笳笛をもつて節とすと云々。かくてしばしば鼓(つゞみ)をうつて、たがひにあはする時の声は有頂の雲によぢのぼり、阿鼻の底にも聞ゆらんとぞ覚へし。進みあふ兵共、金剛力士の力を出し、帝釈修羅の戦ひをなす。互に射る矢は雨をふらして楊由が射術をあざむき、しのぎを削る光は雷の電光を飛ばするがごとし。数万の旗は虚空に乱満して逆風にただよひ、人馬の声は天地に動揺して戦ふといへども、しばらく勝負見へざりけり。然に神は清浄の流れに宿り給ふにや、朝定すでに威を失ひ一陣破れぬれば残党またからず。数軍の兵は将棋倒しにことならず。ここに屍をさらし、かしこに頭を投げうつ。勝に勇める氏綱の軍兵は俊馬に鞭をあげて東西に馳走し南北に飛行す。朝定敗北の軍勢は天を翔ける鳥の鷲の翼にかゝり、地を走る獣の獅子(しゝ)の歯噛みにあふがごとく、左右の足なへ前後に迷ふ有様、たとへんやうぞなかりける。三五夜中の月は塵埃に影をまじへ、紅血に光をそむ。討たれぬる二千士の外は古人となり、あだし名を後代に残せり。漸く天明ぬれば河越の舘破れ、甲乙尽きせんの際しは搦手さして落行きぬ。常にわれを尊み他をいやしめし貞女もなよびかなる形をやつし、老たけなる面を見せて田夫に手をくみ、野人に袖を引かれていづちとも知らず落行く有様、あさましかりける次第なり。朝定はここより北にあたりて二十余里ある松山の舘を心がけ落給ふ所に、松山の城主難波田弾正忠行向ひ主君朝定を松山の城に入れ奉る。討ちもらされの士卒ら朝定の跡を慕ひて彼舘に集まりぬ。氏綱此よしを聞き、朝定を追討せずんば有べからずと、同十八日勇み進む。軍勢また彼舘に押寄せ、魚鱗に陣をかごめ、鶴翼に旗をなびかし、近里遠村は皆万天の煙となす。同廿日難波田弾正大将として落来る残党を率し、我慢の旗をひるがへし氏綱に向つて楯を備へ再び軍を興ずといへ共、氏綱は勝に乗り多勢、朝定は遅れを取り小勢、ただ蚊蝱が雷をなすごとく、蝸牛が角を争ふがごとく、物にも足らず敗北し、皆ことごとく討たれぬ。さればたけきが中にやさしきあり。その日の軍、大将難波田あやなく後を見せ松山さして落行くを、北条方に山中主膳駒かけ寄せ、一首はかくぞ聞えける。あしからじよかれとてこそたゝかはめども難波田のくづれ行らん と誹諧体によみかけしに、難波田もさすがに由ある武士にて、くつばみいさゝか引返し、君をゝきてあだし心を我もたば末の松山波もこへなん と、我作がほに古今集の歌を取合せて返答ありて、いそがはしく駒の足はやめて過行きぬ。実にさも有ぬべし。主君朝定を舘に残しおき、難波田討たれなば松山はよせくる波もこしぬべし。身を全ふして君に仕ふるを忠臣の法といふ事あり。作者といひ功者といひ、懸引しれる勇者とぞみな人申侍りき。伝へ聞く、源頼義公陸奥衣の舘に立籠る貞任宗任をほろぼせしに、貞任まさなく後を見せしに、頼義公、衣のたてはほころびにけり といひかけ給へば、貞任駒引返し、年を経し糸の乱れのくるしさに と上の句をつぎしも、今ここにぞ思ひ出せる。たけき武士の心をもなぐさむるは歌なりと、貫之が書きしもこれかや。然り、氏綱功成り名遂げて、身しりぞくは犬の道なりとて、よろこびの旗をまきおさめ、本の陣に引返す。誠に武略の達者たり。その後河越の城を再興し、氏綱在城し給ひぬ。此時は朝定公先祖の家老太田道真といへる者、はじめて城となす。是ぞ聞く入間郡三芳野の里とかや。むかし在五中将渡ひし、「みよしのゝ田面の雁」とよみしも此所ぞかし。されば相模の国金湯山早雲寺において氏綱の画像を愚老拝見せしに、俗体にして白衣の上に掛羅をかけ、顔相憎体に書き、物すさまじくありて的面に向ひがたし。子細ある故にや荒人神のやうに写せり。氏綱の長兄氏康に家督をわたし、氏綱公は天文十年七月十九日薨じ給ひぬ。法名春松院殿快翁活公大居士と号す。されば早雲寺在世までは相模半国手に入れ、氏綱時代に至て相模を治め、下総武蔵の城を多く攻め落し、武威を関八州にふるひ、希代の大将といひ伝へり。
〜参考文献〜
北条五代記(博文館編輯局校訂) - Wikisource
https://share.google/FGo71GTKh9plFa7d0
〜舞台背景〜
この作品では原典を併記していますが、これがなかなか厄介で、単にWikiなどから貼り付けると元のルビが崩れて文章がグチャグチャになります。そのため原文の体裁は、ストーリーを考える数倍の手間を掛けて整えています。
せっかくなので、小説と原文を見比べながら、原典の雰囲気を感じてもらえたらと思います。
この「小説+原文併記」という形式は、たぶんなろうではあまり見ない試みだと思います。
もし面白い試みだと思って頂けたら☆5とは申しませんが、☆3〜4くらい頂けると嬉しいです。
逆に「ウ~ン」と思われた方は、遠慮なく☆1で意思表示して頂ければと思います。率直な感想として謹んで承ります。




