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新訳 北条五代記 〜 近所の隠居が書いたメモがガチの戦記だった件 ~ 北条の覇道、その系譜  作者: 条文小説


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7/11

2-1 北条氏綱、支配域拡大の極意 〜 武蔵を再構築 〜

挿絵(By みてみん)


北条五代記ほうじょうごだいき』は、三浦浄心が著した、後北条氏にまつわる話題を中心とした仮名草子・軍記物語。確認されている最古の版本は寛永18年(1641年)刊。万治2年(1659年)版が流布本で残存数も多い。ともに全10巻だが内容には改変がある。出典:Wikipedia

 俺の名前は北条ほうじょう氏綱うじつな。伝説の創業者、早雲の跡を継いだ二代目だ。


 親父が「伊豆・相模」という初期エリアを完璧に攻略してくれたおかげで、俺の代からは「武蔵・下総」という広大な地域フィールドへの拡大スケーリング目的クエストになっている。


 さて、俺の前に立ちはだかった最大のMOBの話をしよう。


 関東管領かんれい上杉うえすぎ修理大夫しゅりのだいぶ朝興ともおき。藤原氏の名門という輝かしいステータスを持ち、江戸の館(江戸城)を拠点に関東を支配していた男だ。


 俺たち北条家と上杉家は、国務を巡って何年も不毛な争いを続けてきた。だが大永四年(1524年)、俺は知略を駆使して「江戸城」を奪取。敗れた朝興は河越かわごえの城へと引きこもり、そこから十数年、リベンジの機会を伺っていた。


 だが、運命の時計タイムリミットは残酷だ。天文六年(1537年)四月下旬、朝興は志半ばで病死リタイア


 代わって家督を継いだのは、まだ生年十三歳の嫡男、五郎 朝定ともさだだった。


 この朝定ってガキ、かなりの「地雷おかしいヤツ」だった。普通、親が死んだら四十九日の忌引きくらいは大人しくしているもんだ。それが礼儀マナーであり、孝行というものだろう? だが、朝定は違った。


 忌明けも待たずに軍事行動を開始。深大寺じんだいじという古城を再興し、俺に対して弓引レイドく準備を始めたんだ。


 周囲の連中は呆れていたよ。「異国じゃ『三年の間は父のやり方を変えないのが孝』って言われてるのに、こいつは無道ぶどうすぎる」ってな。

 

 システムは清らかな場所に宿り、濁った場所からは去る。そんな「不浄なフラグ」を立てた旗の下に、システムが味方するわけがない。朝定、お前は最初から詰んでいるんだよ。


 天文六年(1537年)七月十一日。俺は朝定の動きを完全に封じ、自国の支配を確定させるために数万の軍勢を率いて出馬した。


 戦場は「三木みき」と呼ばれる原っぱ。武蔵野の北に位置し、河越城まではわずか五十町(約5.4km)。人馬を並べるには最適な、まさに対人戦のために用意されたような修羅場だ。


 七月十五日、夜。雲霞のような両軍が対峙したが、星占いの吉凶を待っているうちに、時刻は丑三つ時(am2時頃)近くなった。


 見上げれば、稀に見るほどの満月。草露に月光が反射してキラキラと輝き、野原には虫の声が響いている。猛き武士たちも、この幻想的な月花グラフィックに見惚れて、しばし戦闘を忘れたかのように思えた。……だが、それも一瞬だ。


「夜の合戦は、金鼓・笳笛(楽器)の節度をもってコントロールせよ」


 兵法のマニュアル通り、鼓の音が鳴り響く。互いにあげた「時の声」は天の雲を突き抜け、地獄の底まで届かんばかりの轟音。いよいよ戦闘開始バトルスタートだ。


 突撃する兵どもは金剛力士のようなパワーを発揮し、戦場は帝釈天と阿修羅の戦いのような惨状カオスと化した。


 降り注ぐ矢は雨のごとく、名手・楊由の射術をも凌駕する。刀と刀がぶつかる火花はいなずまのようだ。虚空に乱舞する数万の旗は逆風にたなびき、人馬の声が天地を揺らす。


 ……しばらくは勝敗がつかないように見えた。だが、俺の戦術タクティクスは狂わない。

 

 不浄の身で戦場に出た朝定は、早々に威光を失った。一陣が崩れた瞬間、あとの連中は将棋ドミノ倒しのように崩壊した。そこら中に死体が転がり、首が飛ぶ。

 

 俺の軍勢は勝ち馬に鞭を打ち、東西南北へと飛行するがごとく追撃。逃げる朝定の軍勢は、空を舞う「鷲の翼」に捕まった小鳥、あるいは地を走る「獅子の牙」に噛まれた獣のような有様。左右の足は震え、前後の見境もつかない迷走っぷりだ。


 十五夜の月は、戦場の土埃に汚れ、紅い血の光を反射していた。二千人以上の武士がここで「過去の人」となり、不名誉な名を後代に残すことになった。

 夜が明ける頃には河越の館は陥落し、朝定は命からがら搦手から脱出ログアウトしていった。


 昨日まで「自分は気高い、他人は卑しい」なんてすましていたプライドの高い連中も、なりふり構わず無様な姿を晒して、逃亡者の群れに紛れて消えていった。実にあさましい光景だった。


 朝定は北へ二十里(約80km)離れた「松山まつやまの館」へ逃げ込んだ。城主の難波田なんばた弾正忠だんじょうのちゅうが主君を迎え入れ、討ち漏らされた残党どもがそこに集まった。


 ここで朝定を逃せば、目的クエスト達成とはいかない。七月十八日、俺は再び軍を進め、松山の城を包囲。魚鱗ぎょりんの陣で囲み、鶴翼かくよくの旗をなびかせ、周囲を万天の煙で覆い尽くした。


 二十日、難波田弾正は大将として残党を率い、反撃の旗を掲げて俺に挑んできた。だが、俺は「勝ちに乗った多勢」、あいつらは「負けが込んだ小勢」。蚊が雷に挑むようなもの。あるいはカタツムリが角を争うようなもの。

 

 俺の圧倒的な戦力の前に、敵軍は再び敗北。勇猛な難波田弾正も、ついに後れを取って松山城へと敗走し始めた。


 そこへ、俺の配下の山中主膳やまなかしゅぜんが馬を寄せ、逃げる敵将に向けて「一首」詠みかけたんだ。


「あしからじ よかれとてこそ たたかはめども 難波田なばたのくづれ行らん」

(悪くしようと思って戦ったわけじゃないのに、難波田の陣は崩れていくんだな。※「菜畑」と「難波田」を掛けた誹諧体の皮肉)


 プロヴォークり全開だ。だが、難波田もさすがに名のある武士だった。馬のくつばみを引き返し、さらりとこう返した。


「君ををきて あだし心を 我もたば 末の松山 波もこへなん」

(主君を置いて、裏切り(あだし心)を俺が持つようなことがあれば、あの末の松山を波が越えるような天変地異が起きるだろう。※「古今和歌集」の有名な句を引用した、究極の忠誠宣言)


 この返歌には俺の軍勢も感嘆した。主君を城に残して自分だけが討たれるわけにはいかない。身を全うして君に仕える……これこそが忠臣の法だ。難波田はそのまま風のように去っていったが、その場にいた誰もが「あいつは勇者であり、かつ風流を知る功者だ」と賞賛した。


 ……かつて源頼義公が奥州で安倍貞任を追い詰めた際も、歌でやり取りしたという伝説アーカイブがある。


ころものたては ほころびにけり」

(衣の館/衣の縦糸はほころびたな)


「年を経て 糸の乱れの くるしさに」

(長い年月を経て、糸/意図が乱れて苦しいのさ)


 殺伐とした戦場でも、武士の心をなぐさめるのは「歌」という文化なんだな。


 功を成し名を遂げて、さっと身を引く。俺は「勝利の旗」を巻き収め、本陣へと引き返した。完璧な目的達成ミッションコンプリートだ。


 その後、俺は河越城を再 構築ビルド。ここはかつて太田道真(道灌の父)が初めて築城した、入間郡 三芳野みよしのの里だ。古の在原業平が「三芳野の田面の雁」と詠んだ由緒ある地域フィールドだ。


 後に、俺の死後、相模の早雲寺にある俺の姿絵ポートレートを見た奴は驚くらしい。俗体のまま、白衣の上に袈裟をかけ、その顔つきは恐ろしく不気味で、直視できないほどの圧を放っているという。


 それは俺が、ただの人間ではなく、この関東を管理する「荒人神あらひとがみ」のごとき存在として写されているからだろうな。


 俺は、最優秀のアタッカーである息子の氏康うじやすに家督を譲り、天文十年(1541年)七月十九日に薨去した。法名は「春松院殿快翁活公大居士」。


 親父が相模の半分を手に入れた。そして俺が相模全域を統治し、下総・武蔵の城を次々と攻略。北条の武威を関八州に満たした。俺の代で、北条という「体制システム」は完成形に近づいた。


 あとは、俺の息子、氏康。あいつなら、俺が上書きしたこの新しいルールを、さらに広大な世界へと展開デプロイしてくれるはずだ。




校訂 北条五代記 博文館編輯局(明治三十二年)




一 北条氏綱と上杉朝定合戦の事


聞しはむかし管領くわんれい上杉修理大夫うへすぎしゆりのだいぶ藤原ふぢはら朝興ともおき公は、武蔵むさし国主こくしゆとして江戸のたち居城きよじやうとす。扨又北条左京大夫ほうでうさきやうのだいぶたひら氏綱うぢつな公は、伊豆いづ相模さがみ守護しゆごとし、小田原に在城ざいじやうなり。たがひに国務こくむをあらそひ、闘諍とうじやう鉾楯むじゆんたる事年久しかりき。然るに大永だいえい四年のほひ、氏綱江戸のしろめ落す。上杉匠作しやうさく川越かはごえの城に引籠ひきこもり、十余年の春秋しゆんじうを送り迎へぬ。いつよりかれいならずこころそこなひて、天文てんぶん六年卯月うづき下旬げじゆん、世を早く去りて、嫡男ちやくなん五郎朝定ごらうともさだ生年しやうねん十三歳にして家を継ぎ給ひぬ。しかれば七七日の服忌ふくきさへずして道をあらため、へいを起し、深大寺じんだいじ云古城ふるじろ再興さいこうし、氏綱へむかつて弓矢ゆみやくはだてもつはら也。人さたしけるは、異国いこくには父の道三年あらためざるをかうといへり。その上神かみきよきにかたちをうつし、にごれるに影を去る。汚染をせんはたの上には、いかでか守護しゆご軍神ぐんしんも影を宿やどさんや。誠に無道ぶだう君子くんしたり。氏綱は朝定発向はつかうのよしを聞き、強敵がうてきをばしりぞけ、自国じこくおさめんがため、同七月十一日数万の軍兵ぐんびやう引率いんそつ武州ぶしう出馬しゆつばし、同十五日河越かはごえの城に押寄をしよする。三木みきといへる原は武蔵野むさしのの北にて、河越の城にわづか五十余町をへだつ。此野は人馬じんばそな所狭せばからず、求むるにさいはひなる修羅場しゆらばなりとてぢんす。たがひに旗をあげて両将の軍勢ぐんぜい雲霞うんかのごとし。しばらく辰星しんせい吉凶きつけうを待つが故に、合戦の時刻じこくうつり去り、やうや丑三うしみつの時にも近くなりぬ。折から晴明せいめい稀有けう満月まんげつ草露さうろに光をみがき、紅錦野亭こうきんやていにすだく虫は花の底に声をあらそふ。猛き武士もののふも月にうそぶき花に乗じて、しばら勇者ゆうしやの道を忘るゝかとおぼへたり。書に曰く、夜は金鼓笳笛きんこかてきをもつてせつとすと云々。かくてしばしば鼓(つゞみ)をうつて、たがひにあはする時の声は有頂うちやうの雲によぢのぼり、阿鼻あびの底にも聞ゆらんとぞ覚へし。進みあふ兵共つはものども金剛力士こんがうりきしの力を出し、帝釈修羅たいしやくしゆらの戦ひをなす。互にる矢は雨をふらして楊由やうゆう射術しやじゆつをあざむき、しのぎを削る光はらい電光でんくわうを飛ばするがごとし。数万の旗は虚空こくう乱満らんまんして逆風げきふうにただよひ、人馬の声は天地に動揺どうようして戦ふといへども、しばらく勝負しやうぶ見へざりけり。然に神は清浄しやうじやうの流れに宿り給ふにや、朝定すでに威を失ひ一陣いちぢん破れぬれば残党ざんたうまたからず。数軍すぐんの兵は将棋倒しやうぎだふしにことならず。ここにかばねをさらし、かしこにかうべを投げうつ。勝に勇める氏綱の軍兵は俊馬しゆんめむちをあげて東西に馳走ちそうし南北に飛行ひぎやうす。朝定敗北の軍勢は天をける鳥のわしの翼にかゝり、地を走るけだものの獅子(しゝ)の歯噛はがみにあふがごとく、左右の足なへ前後に迷ふ有様、たとへんやうぞなかりける。三五夜中さんごやちうの月は塵埃ぢんあいに影をまじへ、紅血こうけつに光をそむ。討たれぬる二千士の外は古人となり、あだし名を後代こうだいに残せり。漸く天明てんめいぬれば河越の舘破れ、甲乙尽きせんのさいしは搦手からめてさして落行おちゆきぬ。常にわれをたうとみ他をいやしめし貞女ていぢよもなよびかなる形をやつし、老たけなる面を見せて田夫でんぷに手をくみ、野人やじんに袖を引かれていづちとも知らず落行く有様、あさましかりける次第なり。朝定はここより北にあたりて二十余里ある松山の舘を心がけ落給ふ所に、松山の城主難波田弾正忠なんばただんじやうのちう行向ひ主君朝定を松山の城に入れ奉る。討ちもらされの士卒ら朝定の跡を慕ひて彼舘に集まりぬ。氏綱此よしを聞き、朝定を追討ついたうせずんば有べからずと、同十八日勇み進む。軍勢また彼舘に押寄せ、魚鱗ぎよりんに陣をかごめ、鶴翼くわくよくに旗をなびかし、近里遠村きんりゑんそん皆万天ばんてんの煙となす。同廿日難波田弾正大将として落来る残党を率し、我慢の旗をひるがへし氏綱に向つて楯を備へ再び軍を興ずといへ共、氏綱は勝に乗り多勢、朝定は遅れを取り小勢、ただ蚊蝱ぶんまうが雷をなすごとく、蝸牛くわぎうが角を争ふがごとく、物にも足らず敗北し、皆ことごとく討たれぬ。さればたけきが中にやさしきあり。その日のいくさ大将難波田なんばたあやなくうしろを見せ松山まつやまさして落行おちゆくを、北条方ほうでうがた山中主膳やまなかしゆぜんこまかけ寄せ、一首はかくぞ聞えける。あしからじよかれとてこそたゝかはめども難波田のくづれ行らん と誹諧体はいかいていによみかけしに、難波田もさすがによしある武士もののふにて、くつばみいさゝか引返し、君をゝきてあだし心を我もたばすゑの松山波もこへなん と、我作わがさくがほに古今集こきんしうの歌を取合とりあはせて返答へんたうありて、いそがはしく駒の足はやめて過行すぎゆきぬ。にさも有ぬべし。主君しゆくん朝定ともさだたちに残しおき、難波田討たれなば松山はよせくる波もこしぬべし。身をまつたふして君に仕ふるを忠臣ちうしんの法といふ事あり。作者さくしやといひ功者こうしやといひ、懸引かけひきしれる勇者ゆうしやとぞみな人申侍りき。伝へ聞く、源頼義公みなもとのよりよしこう陸奥みちのくころもの舘に立籠たてこも貞任さだたう宗任むねたうをほろぼせしに、貞任まさなく後を見せしに、頼義公、衣のたてはほころびにけり といひかけ給へば、貞任駒引返ひきかへし、年をし糸のみだれのくるしさに とかみをつぎしも、今ここにぞ思ひ出せる。たけき武士もののふの心をもなぐさむるは歌なりと、貫之つらゆききしもこれかや。しかり、氏綱うぢつなこう成り名遂なとげて、身しりぞくは犬の道なりとて、よろこびの旗をまきおさめ、本の陣に引返す。誠に武略ぶりやく達者たつしやたり。その後河越かはごえの城を再興さいこうし、氏綱在城ざいじやうし給ひぬ。此時は朝定公ともさだこう先祖の家老からう太田道真おほただうしんといへる者、はじめて城となす。是ぞ聞く入間郡いるまぐん三芳野みよしのの里とかや。むかし在五中将ざいごちゆうじやうわたらひし、「みよしのゝ田面たのもかり」とよみしも此所ぞかし。されば相模さがみ国金湯山きんたうざん早雲寺さううんじにおいて氏綱の画像ぐわざう愚老ぐらう拝見せしに、俗体ぞくたいにして白衣はくゑの上に掛羅くわらをかけ、顔相がんさう憎体にくていき、物すさまじくありて的面てきめんに向ひがたし。子細ある故にや荒人神あらひとがみのやうに写せり。氏綱の長兄ちやうけい氏康うぢやす家督かとくをわたし、氏綱公は天文てんぶん十年七月十九日薨こうじ給ひぬ。法名ほふみやう春松院殿快翁活公しゆんせうゐんでんくわいおうくわつこう大居士だいこじがうす。されば早雲寺在世ざいせまでは相模半国さがみはんごく手に入れ、氏綱時代に至て相模を治め、下総しもふさ武蔵むさしの城を多く攻め落し、武威ぶい関八州くわんはつしうにふるひ、希代きたいの大将といひ伝へり。

〜参考文献〜

北条五代記(博文館編輯局校訂) - Wikisource

https://share.google/FGo71GTKh9plFa7d0


〜舞台背景〜

 この作品では原典を併記していますが、これがなかなか厄介で、単にWikiなどから貼り付けると元のルビが崩れて文章がグチャグチャになります。そのため原文の体裁は、ストーリーを考える数倍の手間を掛けて整えています。

 せっかくなので、小説と原文を見比べながら、原典の雰囲気を感じてもらえたらと思います。

 この「小説+原文併記」という形式は、たぶんなろうではあまり見ない試みだと思います。

 もし面白い試みだと思って頂けたら☆5とは申しませんが、☆3〜4くらい頂けると嬉しいです。

 逆に「ウ~ン」と思われた方は、遠慮なく☆1で意思表示して頂ければと思います。率直な感想として謹んで承ります。

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