人間サンドバック
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【緑の広場】
私立青嵐学園を中心とする、長野市北部団地の北西に位置する、総合グラウンド。
名前こそ「緑の広場」と銘打ってあるが、昭和の時代から今の今まで、緑に覆われた事は無い。
アルミのフェンスで囲まれた、ほぼ正方形の巨大な土製のグラウンドで、
毎年秋には、団地の各地区が集まって体力を競う、大運動会が開催される。
その、みどりの広場の入り口に今、土岐玲一が立っている。
グラウンドを照らす照明など無く、道路を照らす何本かの街灯が、グラウンドの輪郭をうっすらと浮かび上がらせる程度。
そんなグラウンドの奥に向かい、玲一は表情一つ変えずに、ズンズンと進み入って行く。
目指すは、グラウンドの奥に群れている人影。
人間よりも一回り大きく、尖った耳に尻尾、凶悪な牙を揃えた、山犬の群れへ。
……なるほど、祭りの時の復讐か。それより、こよみは?こよみは無事か?……
こよみの身を案じ、焦る玲一。
そして、妹の無事を祈る兄の感情とはまた別に、玲一の腹の底からふつふつと湧き上がって来る、玲一以外の存在の声が聞こえる。
それは、玲一の怒りをエネルギーにする、伝説の霊獣。玲一だけには、心臓の鼓動の様に、繰り返し聞こえたのだ。
(……土岐玲一、我ヲ解キ放テ!土岐玲一、我ヲ解キ放テ!……)と。
右拳をギリギリと握り締め、自分自身の内面に向かい、玲一は怒鳴る。
(……黙ってろ、迦楼羅!俺が言った事を忘れたのか?俺の命令を聞かなければ、俺が死ぬまで干すって言ったはずだ!……)
自分の中で暴れる迦楼羅に喝を入れ、強引に押さえ込む。
自分の内面といつまでも喧嘩している暇など無い。
何故なら、眼前に見えて来た山犬の数に、玲一は圧倒され始めたからだ。ひしめき合う様に集まる山犬の群れは、およそその数100体。
獲物が自ら飛び込んで来たかの様な、いきなり目の前にご馳走が現れたかの様な、口元の下卑た笑みを隠そうともせずに、賤しい眼差しで玲一を見詰めて来る。
「約束通り、一人で来たようだな」
群れの中から、リーダーらしき山犬が一歩前に出る。
「こよみは!?こよみは無事なのか!」
玲一の問い掛けに対し、首領らしき山犬は「後ろを見ろ」と、横へ振り向きつつアゴをしゃくる。
リーダーが促したその方向には、グラウンドを囲うフェンスに縛られた、こよみの姿が見える。
ロープで身体ごとぐるぐる巻きにされ、ぐったりとした姿勢で、彼女は気を失っていた。
「き、きさまら…」
右手に力を込める玲一、ギリギリと握られた右の拳からは、緩やかに、そしてメラメラと、黄金の炎が立ち上り始めた。
迦楼羅の甘い誘惑を拒みながらも、その力を自らの意志で、引き出したのである。
だが、その力を如何なく発揮出来るチャンスなど、この場には一切無い。
「おっと、危ない真似はやめとくんだな。可愛い妹の身に、何が起こっても知らんぞ」
周囲の山犬達が「ぐへへ」と、下卑た笑いを飛ばす中、首領は玲一に余計な事はするなと、釘を刺す。
もちろん、主導権は山犬側にある。それは玲一も痛感しているので、一切行動を起こさずに、相手の出方を待つのみ。
歯が粉砕してしまうのではと思われる勢いで、憤怒の形相のまま、山犬の首領を睨み返すだけだった。
「祭りの日に、うちの若いのが、えらい世話になったらしいな」
祭りの日の出来事とはもちろん、参拝客のバッグを引ったくりした山犬を、玲一と宮代優作が捕まえ警察に差し出した、あの出来事の事である。
もちろん、正義は優作や玲一にある。妖魔だろうが人間だろうが、犯罪は犯罪であり、罰せられるのが当然だからだ。
だが、この山犬の首領は、それを当然と知りつつも、玲一に対して報復を仕掛けて来た。こよみを誘拐・拉致し、玲一を呼び出す方法で。
山犬達のいやらしい笑い、首領の態度を見て、玲一は肌で感じる。こいつらは、言って分かる連中じゃないんだと。
「一体、何が望みだ?」
「そうだな、とりあえずは…土下座でもしてもらうか」
「断る!」
「ヒューッ!!」
「ギャハハ!」
「強気に出たな」
「立場分かってねえんじゃね?」
首領の言葉を即答で拒否した玲一に、山犬の群れは嘲笑を持って応える。
「妹の立場を分かって、言ってんだろうな?」
「ああ、分かってる。だが一切謝らない、謝らなきゃいけない事などしていない!だから、代案を要求する」
首領は「ふ~ん」と、玲一を舐め回す様に見詰めつつ、土下座で玲一を屈伏させられないならと、思案を巡らす。
そして、ものの十秒もしない内に、玲一に対して、ひどく残酷な提案を打ち出したのだ。
「30分!何があっても30分立ってろ。一切反撃せずにだ!倒れたり、気を失ったら貴様の負け、妹の命は貰う!」
何と首領は、玲一にサンドバッグになれと提案して来たのだ。
人間より一回り大きな山犬達が、代わる代わるに玲一を暴行する、それだけでも、生死の境をさ迷う様な、危険な状況である事は、たやすく想像出来る。
それに輪をかけて、山犬の首領は、一切反撃せずに、30分耐えてみせろと言うのだ。それも、一切倒れる事も許さずに。
どう猛な妖魔、山犬の攻撃に耐えろなど、常軌を逸した提案ではある。
だが、しかし、土下座での謝罪を拒んだ玲一にとっては、選択肢がまるで無いに等しく、
これを受け入れる事が、こよみを返して貰える最後のチャンスだと思えたのだ。
「わかった、30分倒れずに、耐えてみせる。その代わり、こよみは返せよ!」
「フヒヒヒ!ああ、わかった。約束だからな」
アゴを揺らし、群れに向かって合図する首領。
山犬達は「グヘヘ」「ケケケ」と気味の悪い笑いを漏らしながら、
指の骨をポキポキと鳴らし、玲一へとにじり寄った。
……バチンッ!!
「ぐうっ!」
ドゴン!
「げえっ!」
集団リンチ。たった一人の人間に対し、集団で寄ってたかって暴行を加える姿は、誰がどう見ても綺麗である訳が無い。
だが、ここは暗闇。照明施設の無い、道路の街灯がかろうじて、そこにいる者達の輪郭を、微かに浮かび上がらせる程度の場所。
団地内の施設であっても、近隣の住宅は門戸を閉ざし、誰も気付かない世界。
今、土岐玲一は、その世界……団地の公共グラウンド、通称「緑の広場」で、直立不動のまま、山犬達の凄惨な集団リンチを受けている。
ドギャッ!
「ぐううっ!」
ある山犬が玲一の前へと躍り出て、渾身のボディブローを一発放つ。
みぞおちにめり込んだパンチは、肺から一瞬にして酸素を放出し、あっという間に酸欠状態に。
みぞおちを押さえながら、身体をガクガクと震わせる玲一は、赤青と目まぐるしく顔色を変えながら、
自分の体重を二本の足で支える事に苦慮し、一歩、二歩と、ヨロヨロと足をふらつかせる。
「倒れたきゃ、勝手に倒れて良いんだぜ」
「ギャハハ!妹の身体、柔らかくて美味そうだよなあ」
玲一の気迫をくじこうとしているのか、周囲の山犬からは早く倒れて楽になれと、嘲笑が湧き上がっていた。
もう、どれくらい殴られ、叩かれ、蹴られ、引っかかれたであろう。
頭部に山犬の爪が当たったのか、額から左の頬を通り、べったりと血が流れ、アゴを通じて地面に滴り落ちている。
顔を真正面から殴られたのか、左右の鼻の穴からも鮮血はドクドクと流れており、
口元が切れて溢れる血と共に、アゴへと合流して行く。
ガツン!
「ああっ!」
右目上部に山犬の拳がヒットしたのか、右目のまぶたは内出血を起こし、腫れ上がり、もはや右目は開ける事すら出来ない。
だが玲一の左目は、その奥に苛烈なほどに意志の強さを讃え、山犬達に不退転の決意を、無言のままぶつけていた。
「ヘッ!いい加減楽になっちまえよ小僧」
「人間のクセに、俺たちに楯突くからこうなるんだ」
シュン!
山犬の一匹が玲一の前に進み出て、下から天に昇る様なアッパーカットを繰り出す。
ガキンッ!
「かはぁっ!」
ガクンと脳が上下に揺れ、自分が今、立っているのか座っているのか、上を見ているのか、うつむいているのか、全くわからなくなる。
ガクガク…ガクガク!と、膝が勝手に笑い始め、いよいよ、地球の重力に抗えなくなっていたところに、
アッパーカットで脳震盪を起こしたのか、目もメリーゴーランドの様に華麗にぐるぐると回り、
まだ、頭の中のわずかではあるが健全な部分が「倒れれば楽になる」「地面に伏せて体制を整えろ」と、甘い囁きの様に玲一に信号を送り始めて来た。
「がふっ!……がふっ!」
だがしかし、玲一は倒れない。
声にならない声、悲鳴にならない悲鳴を上げながら、口や鼻からべったりと血を吐き出しつつも、
玲一は自分の両腕で、自分自身の膝を盛大に「ガシ!ガシ!」と叩き、二本の足に対して、強引に立っていろと命令する。
「フハハハハ!なかなか骨のある奴じゃないか。だがまだ15分、やっと半分経過したにすぎないぞ」
フヒヒヒ… ウハハハ…
えげつない笑いに包まれる山犬の群れ。
バチン!バチン!パンパンパンパン!!
今度は、玲一の目の前に現れた一匹の山犬が、調子に乗ってボクサーのモノマネを始める。
玲一の顔目掛けて、右!左!右!と、ジャブの連打を浴びせ始めたのだ。
(……ダメだ、立っていられない!そもそも立っているのか、倒れたのか、もう平衡感覚が……)
絶望にとらわれる玲一。
奴ら山犬の言う様に、倒れれば、倒れれば確かに楽になる。山犬とのゲームも即終了し、ボロボロになった身体を大地に横たえて、ゆっくりと休む事が出来る。
【だけど、それじゃダメなんだ!!!】
自分自身の甘い誘いを拒み、内面世界で今か今かと登場を待つ迦楼羅を制し、それでも立っている事を選ぶ玲一。
だが、精神が肉体を凌駕するのも、そろそろ限界が近付く。
「痛み」には不思議と抵抗力があり、泣き喚いたり、パニックを起こして許しを乞う事は有り得ないのだが、最早、身体が言う事を聞かないのだ。
「…こ…よみ…」
パックリと割れた唇がかすかに、震える様に動く。
妹の名を呼んだ玲一は、ぶうんぶうん!と上半身を振り子の様に揺らしながら、断末魔の叫びの様に、最後の力を振り絞って、妹の名を呼ぶ。
「こよみーっ!こよみーっ!逃げろーっ!」
その時、まさにその時だった。
微かにではあるが、風に乗った聞き慣れた人物の声が、玲一の耳だけに聞こえて来たのだ。
……良く耐えたな土岐、後は俺たちにまかせろ……
どこからともなく聞こえて来た小さな声だが、鼓膜を優しく揺さぶる様な、気持ちの落ち着く安心する声。
(……か…加納…?……)
玲一の耳元に届いた、加納らしき人物の声。
その声が届いた途端、「シュン!」と、風を立てながら、何かの物体が玲一の横を通り過ぎる。
すると、山犬の群れの中にその物体は飛び込んで行ったのか、
群れの中心から突然、玲一にとって聞き慣れた加納らしき人物の声で、
周囲に向かって、張り裂けんばかりの大声が上がったのだ。
「フラッシュ・バン!」
そのかけ声と同時に、カランカランと、山犬達の足元に転がる、
無数の小さな円筒形の物体。
まるで、スチール製の茶筒の様な物体があちこちに転がったかと思うと、いきなり、
バン!バン!ババンッ!!
鼓膜が破れるかと心配するほどの、強烈な炸裂音と共に、誰もが目を開けていられほどに苛烈な光が発生したのだ。
もちろん、人間よりも聴覚の鋭い、大きなみ耳を持つ山犬達は、脳髄まで届いて来た炸裂音に混乱し、頭を抱えて悲鳴を上げる。
そして、目の前に現れた閃光…小さな太陽は、山犬達の視覚情報を全て奪い取ったのだ。
【フラッシュ・バン】
スタン・グレネード (麻痺目的の手榴弾)とも呼ばれる、非殺傷兵器で、
爆発時の発生する閃光と炸裂音で、投擲エリアにいる対象に対して、錯乱や混乱などのパニックを起こさせ、
その次に行うであろう、突撃・突入などの作戦行動を、安易に行わせる特殊手榴弾である。
軍の特殊部隊や、警察の特殊部隊が、屋内の敵を排除する際の、突入作戦のセオリーとして主に利用され、
その閃光と轟音の威力は絶大で、心疾患の者が、ショック死するほどに危険な、戦闘補助手榴弾である。
そのフラッシュ・バンが、「誰か」のかけ声の元、山犬の群れの中で複数炸裂したのだ。
山犬達はもちろん、平気ではいられない。
「ううう…」
「ぎゃあああ!」
あちこちから無数の悲鳴が上がる中には、目をつぶり、頭を押さえてしゃがみ込む者、
口からよだれを垂らし、目を両手で覆いながら「目が!、俺の目がっ!」と、絶望的な叫びを上げる者。
ほとんどの山犬が、完全に行動の自由を奪われていた。
そして、その閃光弾の炸裂を号令としたのか、この、みどりの広場のグラウンド入り口に、
無数の人影が並び、そして横一列にズンズンと、グラウンドの中へ、玲一の元へと進み始めたのだ。




