俺に何かあったら
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その日の夕方
人々が街から家路につき、各々の家庭では明かりが灯され、台所からは換気扇に乗って、胃袋を刺激する様な、何とも良い香りが漂う時間帯の事。
オカルト研究会の、打ち合わせと呼ぶには程遠い、ぐだぐだの雑談は、課外活動終了時間を遥かに超えてしまい、日没後の帰宅となってしまった玲一。
「遅くなりました」と声を上げながら、高槻邸のお勝手口を開ける。
いつもの如く、エプロン姿の紫乃が、玲一の帰宅を笑顔で迎えるのだが、風呂場での一件が脳裏をよぎり、玲一はいささか頬を赤らめてしまう。
あの華奢な身体を作る見事な曲線と、自己主張し過ぎない胸を一切隠そうともせずに、玲一に迫った紫乃は、今はいない。
まるで、それが夢であったかの様に、紫乃はいつも通りの「お手伝いさん」の顔で、健康的な微笑みを玲一に向けているだけ。
まだ16歳になったばかり、思春期に入った事で、女性の身体には興味はあるが、まだ恋愛どころか、「好き」と言う概念にピンと来ていない玲一。
だが、当たり前の話、それが夢であった訳が無く、彼女が、自らの身体と心をさらけ出したのは事実。
彼女の覚悟を有耶無耶にせずに、断るにしても、受け入れるにしても、ちょっと待ってくれ!と、時間の猶予を貰うにしても、
必ず近いうちに返答しようと、心に決めた玲一であった。
「あれ?こよみはまだ帰って来ていないんですか」
青嵐学園中等部に在籍しているこよみは、特例で課外活動を免除されている。
その代わり、授業が終了すると同時に帰宅し、高槻邸内にある道場や祭事場、本堂で、陰陽道の修行を行っている。
陰陽道の先生や、善光寺護摩道の住職が入れ替わりで、こよみの修行を行うのだが、本日はどちらも来ない自習の日。
普段は、紫乃が夕飯の準備を始める頃には修行が終わり、本人が自発的に紫乃の手伝いをしている時間帯なのだが……
「今日は先生が見えられない、自習の日なので、本堂にいるのでは……」
紫乃がそう口にした時、言い終わらない内に、表情が険しくなる。
そして、エプロン姿もそのままに、紫乃は血相を変えて廊下へと走り出した。
彼女は彼女で、藤間の家から土岐兄妹を護れと命じられた身。ちょっとでも不安要素があれば、のほほんとはしていられない。
そして、紫乃の異変を通じて、嫌な予感が玲一に伝播した。
学生服のポケットから携帯電話を取り出し、こよみに電話をかける。そして玲一も駆け出し、こよみの部屋に。
勢い良く引き戸を開けるも、こよみの部屋はもぬけの殻。耳に当てた携帯電話も、ずっとコール音が鳴り響くばかりで、一向に持ち主が出てくれない。
すると、廊下の奥、本堂の方から、「こよみちゃん、いません!」紫乃の悲鳴にも似た、甲高い叫びが聞こえて来る。
いよいよこれは、トラブルに巻き込まれたのか、それとも、たまたまこよみは帰宅していないのか……
玲一の顔に緊張の色が溢れた時、ピンポーンと、高槻邸の正門側、玄関チャイムが鳴った。
こよみ不在と、何か関係があるのか、そう思った玲一は、バタバタと音を立て、玄関へと向かう。
しかし、不思議な事に、玄関には誰もいない。嫌がらせなのか、俗に言うピンポンダッシュと言うやつだ。
「……どう言う事だ?」
玄関の外に出ても、正門を抜けて道路に出ても、チャイムを鳴らしたであろう人影など見つからない。
いたずらかな?全くおかしな事をする……首を傾げながら玄関に戻ると、遅れて玄関にたどり着いた紫乃の姿が。
「れ、玲一さん……これ!」
蒼ざめた顔で、ガタガタと震える彼女の手には、何やら紙切れが握られている。
「気が付いたら、これが郵便受けに」
紫乃から紙切れを渡され、その内容を確認する玲一。
すると、玲一の表情があっという間に紅潮し、ひきつって行く。
憎悪と言っても良い程に、玲一の全身からは好戦的な波動が湧き上がり、
怒りの感情を身体が自然に抑えようとしているのか、紙切れを持つ手が、ガタガタと震えだした。
不審な紙切れとは、玲一に向けられたメッセージ。差出人不明の、ひらがなだらけの汚い字で、内容はこう書かれていたのだ。
「はいけい ときれいいちさま。いもうとはあずかった。ひとりでみどりのひろばにこい」
紙切れをグチャッ!と丸め、地面に叩きつける様に投げ捨てる。
そして、玲一は玄関から邸宅に上がり、廊下を抜けて勝手口に。
サンダルではなく自分の靴を履き、外へと飛び出そうとした時、背中に紫乃の声がかかった。
「玲一さん、私も行きます!」
穏やかな姿しか見せた事のない紫乃が、まるで鬼神の様な形相で、玲一に同行の許しを得て来たのだ。
彼女の気迫に圧倒されるものの、二人で出て家を空ける訳にはいかないし、そもそも、脅迫文とおぼしき紙切れには、一人で来いと書かれている。
その理由をもって、紫乃を止めようとするが、紫乃は首を縦に振らない。
「私も、陰陽師としての修行は受けております。私も力になりたいのです!」
玲一には分からないかも知れないが、藤間紫乃には、自責の念がある。
ドラキュラ級ヴァンパイア、アラダール・ウシュカによる玲一拉致事件。その事件のきっかけは、玲一とウシュカの邂逅にあったのだが、
ウシュカの部下であるミハイロビッチを、高槻邸に上げてしまった事で、事件は劇的に動き出した。
吸血鬼の誘いに騙され、家に上がられ、大切な人と護るべき人を、危険に晒してしまったのである。
だからこそ、もう二度と高槻邸に危険を招く失態はしないと誓ったし、玲一とこよみを、命がけで護ろうと決心した。もちろん、この身果てようともだ。
だから今回も、こよみの不在に関して、私がいち早く気付いていれば!私がいながら!と、自分を責めながら、玲一に同行を申し出たのである。
だが、紫乃の真意に関係無く、玲一には玲一の思惑があり、そして真意がある。
必死に懇願する紫乃の両肩を抱きながら、紫乃の瞳を真っ直ぐに見詰め、
制止するのでは無く、思い留まる様説得するのではなく、玲一は、あるお願いをした。
「部屋の灯りを付けて、夕飯の用意をして、笑顔で待っていて欲しいんだ。こよみが帰って来る家が、誰もいない、ひんやりとした暗い家じゃダメなんだ」
「玲一さん、でも私……」
「紫乃さん、俺に何かあったら、こよみの母親になって欲しいんだ」
「えっ、私が!?」
意表を突いた玲一の言葉に、紫乃は当惑し始めるも、その言葉の重大な意味に気付き、頭に昇っていた血が、サアッと引いて行く。
激情に駆られて、聞き逃して良い内容の話ではないと悟ったのだ。
自らを落ち着かせ、唇を真一文字に結び、真剣な眼差しを向けた紫乃。
その彼女の一途さに微笑みながら、玲一は彼女に伝える。
……俺は、児童養護施設にいたところを、高槻奏二郎と花苗夫婦に拾われた。後はもう、死ぬだけだと諦めていた俺に、あの二人は、溢れんばかりの愛を与えてくれた。
今の俺があるのは、あの二人のおかげ、そして、自分よりも弱い存在を、労わる事を教えてくれた、こよみのおかげだ。
俺に何かあったら、こよみは独りになってしまう。幸い、あの子は紫乃さんを慕っているから、高槻の血を、絶やしてはいけないと言う理由でも、こよみを守って欲しいんだ。
俺にとっては高槻なんかどうでも良いが、奏二郎さんと、花苗さんの血を、二人の想いを、絶やさないでくれ……
紫乃は、即答しなかった
即答しないからと言って、玲一の申し出を拒否した訳ではない。
彼女は、申し出を受けて尚、こう主張したのだ。
「土岐玲一の血も、大切に想う者達がいる事、くれぐれもお忘れ無きよう」
そう言いながら、頭を下げる。流れる様な綺麗な御辞儀だった。
紫乃の一言にはにかみながら、玲一は疾風の様に、勝手口から姿を消した。
あっという間に高槻邸からいなくなった玲一、
玲一が「どこか」に向かって、飛び出して行った後の高槻邸、その玄関先。
玲一がクシャクシャに丸めた紙切れが転がる玄関前を、道路側から見詰める小さな視線。
敵意を込めた瞳ではなく、何かしらトラブルに巻き込まれた玲一を心配するかの様な、動揺といたわりを込めた視線を注ぐ、小さな小さな瞳が二つがある。
玄関の外で、郵便受けから紙切れを取り出した紫乃。
その紫乃が紙切れを玲一に渡し、彼はその内容に驚愕し、そして烈火の如く怒っていた。
そしてその後、勝手口がバタン!と盛大に音を立て、玲一が飛び出して行ったのも見えた。
玲一の身体から吹き出す生命力が、憤怒の色に染まって行く。
(……玲一の身に何かあった!……)
慌てて「テケテケテケ!」と短い足でダッシュし、高槻邸の玄関前に忍び込む。
そして、「ぶもも!ぶもも!」と、鼻を鳴らしながら、玲一が地面に投げ捨てた紙くずの匂いを嗅ぎ始めた。
感じる匂いは二種類。
紙をギュッと丸めた時の、玲一の身体の匂いと、その他に感じたのは、獣の臭い。
この獣の臭いは知っている……これは山犬!?三登山に隠れて群れを成している、妖魔の山犬の臭いだ!
まさか、まさか、玲一の身に危険が迫っているのか!?
これは一大事と、その小さな物体は紙くずを咥え、高槻邸から一目散に駆け始めた。
その小さな物体、大きさはバスケットボールほどの大きさで、全身をびっしりと毛で覆われた、まるでイノシシの子供、「うり坊」の様な姿なのだが、
不思議な事に、耳の後ろには、小さな角が生えている。
うり坊のようで、うり坊ではない不思議な動物。
紙くずを口に咥えたまま、一切の迷い無く、まっすぐに道を駆けて行く。
全力疾走で駆けて行くその先には、伽里田神社が待っていた。




