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ドレッドノート・カプリチオ ~勇者狂想曲~  作者: 振木岳人
「新たなる仲間・貧乏神」編
34/74

共闘


 「浅川」

日本有数の一級河川である信濃川。長野県内では千曲川と呼ばれるその川の、支流の一つ。

ここ、青嵐学園を中心とした、長野市北部団地を縦断する様に、浅川は千曲川に向かって北西から東に流れている。

古文書や、過去の文献においては、暴れ川として、頻繁に災害を起こしたとされているが、

現代社会においては、しっかりと整備が行われ、非常に穏やかな川として、生まれ変わっていた。

その浅川の河川敷に、土岐玲一と伸暁真琴、そして貧乏神の、設楽寺富美が立っている。


 時間は、土曜日の午後、二時頃。

雲一つ無い、快晴の空の下、地元では「善光寺平」と呼ばれる長野盆地を、ぐるりと取り囲む、1千メートル級の山々から、

残雪に冷やされた、冷たく心地よい風が、吹き下ろされる、そんな4月の後半の時期の事。

 喫茶・黙示録での、一騒動を収拾させた真琴は、改めて玲一に詳細を説明し、「いよいよ実践なのだ」と、ここ浅川の河川敷へと赴いたのだ。


 貧乏神の設楽寺富美。

本人の意志など全く無視し、彼女の持つ力がことごとく、周囲の人々を不幸にして来た。


「人として生まれた以上、人として生きたい」「人間社会で、人間らしく生活を送ってみたい!」


そう思った彼女は、人間の両親の理解を得て、ここ長野市へと単身やって来たのだ。

目的はもちろん、強大な勢いで吹き上がる、地脈・竜脈の恩恵をその身体に受け、自らの貧乏力を、押さえ込む為に。


だが、そんな設楽寺富美の淡い期待は、脆くも崩れ去る。

何故なら、彼女の貧乏力はあまりにも強く、この地の力を持ってさえも、押さえ込む事が出来なかったからである。


「そこで、土岐玲一の登場なのだ。どこで聞きつけたか、神殺しの迦楼羅の力を持つ者、土岐玲一のその力にすがろうと、我々の前に現れたのだ」


全てを知っていたかの様に喋る真琴。

さすが鎮守様だと感心しながらも、何をどうすれば良いのか、さっぱり判らない玲一は、呆けた顔で真琴を見詰めるだけ。

とにかく、真琴の指示を受けなければ、何も出来ない状況であったのは確か。


「ふむ、ここなら最悪のケースでも、最小限に留められるのだ」と、つぶやきながら、真琴は周囲を見渡す。

そして、頃合いなのか、玲一に声を掛けた。


「土岐玲一、修行の成果を見せるのだ。お前のその右の拳で見事、迦楼羅をコントロールしてみせるのだ」


屈託の無い笑顔で、真琴は玲一に指示を下す。

鎮守の土地神、生き神様が、迦楼羅を駆る者に、その力を見せてみろと、言ったのだ。


当然のごとく、驚き、慌てふためく玲一。

先ほど設楽寺富美と初めて会った時、富美本人から、迦楼羅の力を使って欲しいとは言われた。

しかし、雲を掴む様な、半分以上冗談の様な「貧乏神」の話で、

玲一は全くと言って良いほど、迦楼羅発動の依頼を、肌で感じていなかった。

だが、こう改めて真琴から、それも正式に、ズバリ言われると……


「ちょ、ちょっと、待ってください。俺、そんな力…出し方判らないし、だって危ないんでしょ?」


臆している。完全に腰が引けているのだ。

迦楼羅の力、黄金の炎。それは悪鬼羅刹を消滅させる、浄化の炎。

それを何故、設楽寺富美に?下手をすれば、設楽寺が死ぬどころか、街全体に悪影響を及ぼし、妖魔と言う妖魔全てが、消滅してしまう。

それに、以前真琴はこう言った、迦楼羅は玲一の命を喰うと。迦楼羅の目覚めは、玲一の寿命を短くさせると。


「土岐玲一良いか、迦楼羅に喰われれば、当たり前の話、お主の命は終わるのだ。だからこそ、彼奴と向かい合って、喰われない努力をするのだ。

あれを御する覚悟と技術を今、身に付ける事が必要なのだ」


 ……確かに……


一理あるどころの話じゃない、真琴の説いた内容は、ズバリ、俺の未来を左右する。

逃げる事は出来ないんだ!いつか必ず、迦楼羅は完全に目を醒ます。

これは、闘いなんだ、迦楼羅が俺を喰うか、俺が迦楼羅を喰うかの、チキンレースなんだ!


「真琴さん、教えてくれ!俺はどうすれば良い?」


 玲一の目の色が変わる。

戸惑いだらけで、焦点の定まらない、ひどく落ち着きの無かった視線が、ピタリと真琴を、射る様に定めた。

真琴の瞳に映る玲一は、畏れや迷いを一切排して、猛々しく気を吐いている。

勝ちを掴もうとする、彼のその姿に満足したのか、真琴は笑顔で指示を出し始めた。


「土岐ならやれるのだ、いざと言う時は私がいるから安心なのだ。まずは私の言う通りに、まずはリラックスするのだ」


離れていろと真琴から指示を受け、10メートルほど遠くから、心配そうに見詰める富美。

その富美が心配そうに見守る中、真琴は玲一の傍らに寄り添い、玲一の右手を掴む。


「まずは喜怒哀楽を超えて、海に深く深く、潜るイメージを持つのだ。そこに迦楼羅はいる、土岐を待っているのだ。

良いか、迦楼羅の力に怯えるな。己が迦楼羅に立ち向かう事を無理だと思ってはいけないのだ」


 彼の右拳を、両手で包む真琴

愛おしい赤子の頭を撫でる様に、真琴は拳を撫でながら、彼の耳元で呟く。


 ……この貧乏神を助けたいと言う気持ちを、拳に乗せるのだ。それを彼奴に説け、そして説き伏せるのだ……


 近くに感じる、伸暁真琴の良い香り。

化粧品や、香水の、化学ばけがくとは違う、何か気持ちの落ち着く、優しげで、品の良い香り。

玲一の鼻腔を穏やかにくすぐる、その真琴の香りに刺激されたのか、

それとも、真琴の言葉に自分の方向性を見いだしたのか。

玲一は酷く穏やかで、波紋すら浮かばない、静まり返った湖の湖面の様に、「す~っ」と、落ち着いて行く。


「いつもの、正拳突きの構えを」


真琴に促され、ゆったりと、ゆっくりと、玲一は足を気持ち開き、腰を沈める。


「全ての意識を右拳に集中するのだ。そして、ここからが、いつもの修行と違うところなのだ」


 迦楼羅は、怒りの感情に左右され易いと、真琴は言う。

何かしらのトラブルに巻き込まれ、気を失ったり、正常な判断が出来ない状態に陥ると、迦楼羅は途端に現れ、防衛本能を発揮する。

だが、宿主が普段の精神状態であるならば、迦楼羅は怒りの感情に一番敏感であり、宿主が怒りの感情に飲まれてしまうと、迦楼羅は容易く目覚め、発現する。

そして、発現した迦楼羅は、本人の意思が弱ければ弱いほど、お構いなしに独立し、ただひたすら、破壊の道を進み始めると言う。

それでは、全くもって駄目。ただ単に、迦楼羅に意識を乗っ取られてしまっただけの事であり、迦楼羅を制御したとは、到底言えないし、

後に残るのは、寿命を喰われた憐れな死体だけ。

大事なのは、平常心の状態で、迦楼羅と相対し、そして制御する事。

もっと言えば、迦楼羅を説得し、寿命を喰われる事なく、コントロール下に置ける事が重要。

これを、真琴は最終的な目標と位置付けているのだ。


「静かに、心を静かに保つのだ。そして、自分の右拳に意識を集中。【富美を助けたい】と願いながら、右拳に力が集まるのを、イメージするのだ」


 ……ハァ、ハァ、ハァ……

口から漏れる吐息は荒く、構える拳がふるふると震える。


 なかなかに、落ち着けない玲一。確かに、自分の内面世界に【それ】がいる事は実感出来る。

間違い無く、普通の人間が持てない力が、自分の中で眠っている事が、肌で分かる。

だが、その力は、妖魔を殲滅する力。一歩間違えれば、自分がコントロール出来なければ、設楽寺富美は確実に吹っ飛び、消滅する。

ミスは、間違いは許されない。許されようが無い。


落ち着けと言う、真琴の言葉に反比例し、高まる心臓の鼓動、全身から大量に溢れ始めた油汗。

海に潜るイメージどころか、これでは、溺れそうになっている人と同じ。

完全にパニックに陥り、水面でバタバタと手足を動かし、しぶきを上げるだけ。


「だ、ダメだ真琴さん。俺、テンパってる、このままじゃ…」


息も絶え絶えの玲一、あえぐ様に、弱々しい声で真琴に救いを求めるのだが、

ある意味情けない、その玲一の姿を見ても、真琴は怒ろうとはせず、むしろ当然の事と、穏やかな笑みで、再び玲一に近付いた。


「土岐玲一ならやれる、自分を信じるのだ。臆するな、我が町のヒーロー」


玲一の耳元に急接近し、真琴は小さく囁く。

すると、真琴の甘い囁きに反応したのか、玲一は「…ヒーロー…」とつぶやき、その言葉を反芻する。


「富美さん、困ってる、助けを求めてる。俺は、ヒーローになんかなれないけど」


 ……ヒーローになんか、なれないけど……


その呟きに、玲一の体内に眠る、何かが反応する。


 俺には、困ってる人を、助けられる力がある。

 助けられるのに、助けられない。いや、助けられる気がしない。

 なんだそれは!助けられないって、俺は何諦めてんだ!


彼の葛藤と、自問自答そして、力に対する渇望が、腹の奥底に棲む者を目覚めさせる。

その名前は【迦楼羅】、魑魅魍魎、悪鬼羅刹そのことごとくを喰らう者。


 (……汝、力が欲しいか……)


世界を超越したかの様な声が、低く大きく、玲一の内面世界に響く。

すると、それに呼応したかの様に、玲一の瞳孔がすっと開いた。

現実世界を見る為の眼が、まるで別の世界を見渡しているかの様に。


 ……何処だ、何処にいる、迦楼羅!……


 (……何処にいるも何も、我、土岐香苗の呪縛にはまり、汝を憑代とせざるを得ない身……)


 ……常に、俺と一緒にいるって事だよな、それ……


 (……今、汝は憑代だと言ったはずである、霊験無き者よ……)


 迦楼羅と、一対一で対面する。

今まで、夢ですら見た事が無い様な、暗黒よりも暗い底なしの空間。

その上下左右すら失念してしまう空間で、玲一の前にいよいよ、神の鳥がその姿を現した。


 ……お前が、迦楼羅……


感嘆のため息を吐き、全身を総毛立たせるほどの畏れを抱きながら、迦楼羅の前に「立つ」玲一。

スケールが違うなどと言う言葉では、言い表せなかった。格が違うなんて、陳腐な言葉では言い表せなかった。

巨大すぎる、デカ過ぎる、自分の視界に収まりきらない……、そんな言葉で表現する事すら笑えて来るほどに、

迦楼羅は、迦楼羅の全身そして左右の翼は、玲一の精神を簡単に、凌駕してしまっていたのだ。


 (……我に何の用だ小僧……)


その一言一言の声量だけで、玲一の精神が吹き飛ばされそうになる。

鳥の顔を持ち、燃える様な真っ赤な翼を広げる、修験者の様ないでたちの迦楼羅。

その顔を見ようとすれば、首が痛くなるほど見上げないと、表情すらわからない。

その両翼の先端の距離を測ろうとすれば、決死の覚悟で旅に出なければたどり着けない距離。

象と蟻どころの話ではない。玲一を米粒一つと表現するならば、迦楼羅は太陽。

それだけの相手と対峙し、玲一は説き伏せなければならないのだ。


 ……俺に、俺に力を貸してくれ……


 (……霊験無き者よ、汝は何を言っている?……)


 ……俺に、力を貸せと言っている!……


迦楼羅が言うところの「霊験」とはつまり、心霊力・アストラルパワーの事である。

常に、人の生死と共に転生を繰り返す迦楼羅は、自分の力を容易く発現出来る人間を好む。好むと言うか、そういう人種しか選ばない。

土岐香苗の呪縛により、転生を阻害され、玲一と強引に結び付けられた迦楼羅は、怒っていた。

自らの力を発揮させる事の出来ない、陳腐な人間に宿った事、そして、土岐香苗の呪縛によって、自らの力で、自らを解き放てない事を。


 (……我の力を欲すると言うか、我の力を発現させろと言うか。ならば我に喰われろ、霊験無き者よ!……)


 ……何だよさっきから、霊験無き者、霊験無き者って馬鹿にしやがって。それが、そんなにいけない事なのか!……


 (……フッ、フハハハ!威勢の良い小僧め。我の力を発揮させるなら、代償が必要になる。空っぽの小僧に一体、何が出来ると言う……)


玲一は感じる。たぶん、迦楼羅の言う代償って言うのが、そのアストラルパワーなんだと。

通常、迦楼羅が宿る人々って言うのは、霊験あらたかで、湯水の様に力が噴き出る、能力者で、

その能力者の力を喰う事で、迦楼羅の力は解放されるのだと。

だが、まるで能力者では無い玲一は、霊験なんぞからっきし持っていないし、ごくごく普通の高校一年生である。

そういう人間は、アストラルパワーの代わりに、寿命を使って、迦楼羅の力を行使しろと言う事なのだろう。

つまり、お金を持っている人は大歓迎だけど、お金を持ってない貧乏人は、自分の身体を売って、お金を作ってね。

それが、迦楼羅の人との共存のシステムなのだと気付いた玲一。

そして、ここが、この局面が、人間土岐玲一の面白いところであった。

「ふざけんじゃねえ」と、キレる訳でも無く、「そこを何とか」と、迦楼羅に媚びもせず、こう言い放ったのだ。


 ……カッコ悪い事、言ってんじゃねえよ!困ってんじゃねえか、あの娘!……


 (……うむ?小僧、貴様何を言っている?……)


 ……何を言っているって言うか、どこ見てんだよ!あの娘だよあの娘!お前はあの娘が困っているのに見捨てるのかよ!……


 多分無意識で、玲一はそう吠えたのであろう。意識して、意図的にそんな言葉は出て来ない。

迦楼羅を自分の命を喰う敵としてでは無く、また、場違いな宿主である自分を卑下する訳でも無く、

彼は【迦楼羅と共闘している様】を、迦楼羅自身に見せつけたのだ。迦楼羅を、同じ目的を持つ同志として、認識していたのである。


 (……なかなかに、面白い事をぬかしたのう、小僧よ……)


 迦楼羅は迦楼羅で、即答に困っている。

何故なら、ここで玲一の提案を断ると、困っている少女を見捨てる事になるからだ。

代償、見返りが無いからと言って、迦楼羅は少女の願いに応えなかった。

常に、正しい道を模索し、悪鬼羅刹や竜を喰らっていた神の鳥が、ギャラが無いから仕事を断るなどと言う前例を作ってしまえば、それこそ、迦楼羅の名折れとなってしまう。

逆に、玲一の提案に乗って、少女を助けたとする。そうなれば、迦楼羅は今まで転生しながら、様々な能力者のアストラルパワーを喰っていた事が否定される。

「なんだ、迦楼羅ってギャラ無しでも動けるのね。今までの高額ギャラ請求って、エグいやり方だよね」と、やはり迦楼羅の名折れとなってしまう。


 ジリジリと、迦楼羅の迷いは肌で感じて来ている。

 迦楼羅は迷ってる、俺の言葉に動揺している。


そう感じた玲一は、あらためて、迦楼羅に思う所をぶつける。

それが受け入れられなければ、もう話す事は無いとばかりに、彼は渾身の力を込めて、大声で吠えた。


 ……俺が間違っているなら、迷わず喰え!だが、正しいと思う事をしたいなら、俺と一緒に来い!取り引き前提の正義のどこに、正義があるんだ!……


これは効いた、この言葉は迦楼羅に効いた。

霊験、心霊力のある者だけが使いこなせた迦楼羅の能力が、果たして今まで正しかったのかと、暗に問うたのだ。

つまり、「お前は代償さえあれば、正義なんてどうでも良いんだな」と迫り、

正しい行いをしようとする者は、能力の有無など関係無いと、迦楼羅に説いた事になる。

【土岐玲一は、その貧相な霊験では無く、その精神で迦楼羅を調伏したのだ】


 (……ぬかしたな小僧。我の力を使いたくば、使えば良い。その代わり、道を誤ったら、わかっているであろうな……)


 ……好きにしろ。だけど、俺を無視して勝手に目を醒ますなら、俺は許さない。一生お前を干してやる……


 うわっははは!

鼓膜が破れそうな、豪快な笑いを最後に、内面世界の葛藤が終わる。

玲一は、己の存在価値を、己の立ち位置を、自らの意志で決定し、

そして、自身の内面で蠢く迦楼羅に、自分自身と迦楼羅との距離をも決め、それを命じた。

主人公は迦楼羅では無く、自分自身だと決めたのだ。


「迦楼羅、始めるぞ。俺の言う事を聞かなきゃ、俺が死ぬまで干すからな!」


 玲一の右拳から、ゆらゆらと炎が立ち上り始める。それは迦楼羅の炎、黄金の炎だ。

そして、その炎をきっかけに、ずんずんと、不安げに佇む設楽寺富美の元へと、玲一は歩き始める。

もちろん、富美に近付くと発動する不幸・不運など、右拳から昇り始めた迦楼羅の炎が、一切無効化している状態だ。


「あの娘を助けるんだ!俺にはそれが出来る、出来るんだ!」


激しい言葉を自分自身にぶつけながらも、玲一の表情は超然としている。

喜怒哀楽を一切表情に出さず、まるでトランス状態に陥っているかのごとく、人間を超越している。


「を、をを…。土岐さん、何かカッコ良いです」


「富美、そのままじっとしてろ。俺を信じるんだ」


玲一の右の拳から、更に激しく、メラメラと、黄金の炎が溢れ、天高く昇って行く。

竜を、悪鬼を喰らう、迦楼羅の炎。浄化や滅殺など、おおよそ人ならざる者に、破滅をもたらす、唯一の炎。

自分にどんな影響を及ぼすのか、黄金の炎で焼かれ、滅びてしまうのか。

富美はそんな心配など、微塵もしていない。何故なら、土岐玲一が、俺を信じろと、言ったからだ。

盲信では無い。富美は心底、土岐玲一を信じる。それだけの説得力が、今の玲一の瞳に今、たっぷりと溢れていたのだ。


「…いくぞ富美」


「はい」


富美の目の前、玲一は腰を下げて、構える。

正拳突きの構えではなく、左肩を前に突き出し、右拳は背後へ。

俗に言う逆突き、身体全体が弓となり、引き絞った右拳を、矢の様に放つ構えだ。

「ううう」と、玲一は低い声で唸る。すると、黄金の炎の放出は止み、その分、右拳に力が蓄積され、右拳自体が黄金色の光を発し始めた。


「ちえいっ!」


「…ぁん」


 玲一はズバンと振り抜いた。

勢い良く右拳を、富美の右胸目掛け、渾身の逆突きを放った。

もちろん、富美の肉体に危害を加えぬ様、寸止めで。

すると、その瞬間、富美の背中から。ちょうど玲一の拳と、富美の胸が交差した、直線上の背中側から、

「うおおおん!」と、ドス黒い煙が、唸り声を上げて吹き出したのだ。

そして、後を追って富美の背中から吹き出した、黄金の炎が、黒い煙を猛追し、まるで狩猟犬が獲物にトドメを刺す様に、

黒い煙を包み込み、煌びやかな黄金の輝きで、霧散させてしまったのだ。


「やったのだ!」


喜びながら、玲一達の元へと駆けて来る真琴。

玲一と富美は、未だにピクリとも身体を動かさず、そのままの姿勢で硬直している。


 黒い煙とは、設楽寺富美の精神では無い。そして、貧乏神の本体でも無い。黒い煙とは運、「悪運」そのもの。

つまり、玲一は、富美が抑えきれていない、貧乏神の負の力だけを見事、減殺させたのだ。

これで彼女は、設楽寺富美は、悪運を周囲に振りまきながら、肩身の狭い思いをしながら、生きて行かなくても良い。

普通の人間、普通の女性として、普通の人間生活を送れる事が、可能になったのだ。


 だが、真琴は言う。「これで終わりではない」と。

貧乏神は幸せに反比例して、どんどんと不運を生産して行く。

つまり、定期的に、ガス抜きの様に、溜まり始めた不運の力を、散らさなければならないだろう。

修行だと思って、定期的に彼女の貧乏力を、散らしてやるのだと、玲一の頭を撫でながら言う。


 だがここで、真琴は気づく。

ニコニコしながら、真琴が説明している間も、玲一と富美は硬直したままで、何故かピクリとも動かない。

玲一は、空手の逆付きの、フィ二ッシュのポーズのまま、そしてそれを受け入れた富美は、直立不動のまま。

不審に思った真琴が、両者の顔を交互に見る。

すると玲一は、全身をプルプルと震わせ、油汗をびっしょりと額から垂らしながら、苦悶の表情を浮かべている。

そして、富美は、何故か顔を真っ赤にしながら、潤んだ瞳で、玲一を見詰めたままなのだ。


「ま、…真琴さん。からだが、身体が悲鳴上げて動けません」


「あらら、全身がただならぬ緊張で、つったのだ。ちょっと待ってろ、助けてやるのだ」


と、玲一に声をかけながら、真琴は富美を見て首を傾げる。

玲一の身体のトラブルは、理解出来るのだが、何故この貧乏神は、直立不動?


「ところで、貧乏神。お主はいつまでそうしてる積もりなのだ?」


富美に問い掛けた真琴。真琴の質問で、我に返ったのか、意外そうな顔をしながら、富美は答えた。


「ふええ、…もう、終わったんですか?」


「ほえ、アホかお前は?成功なのだ、もうとっくに終わってるのだ…」


と、言いながら、玲一と富美の間に生じている「異変」にやっと気付いた真琴。

それがどんな状況なのか、はっきりと理解出来た真琴は、顔を真っ赤にしながら、こう叫んだ。


「な、な、何やっとんじゃああ!」


 真琴は見た、見てしまった。


全身大筋肉痛で硬直したまま、プルプルと震える玲一の右腕が、右拳の先端が、

設楽寺富美の、右の胸の先端に触りながら、自身の身体の震えの振動を、

富美の胸の先に、「プルプルプルプル」と、しっかりと伝えていたのだ。

富美は富美で、まだ終わっていないと判断したのか、顔を真っ赤にしながら、

艶っぽい涙目で、それをひたすら耐えていたのだ。


「まったくもう、貧乏神、お前から離れるのだ。土岐玲一は身動き出来んのだ」


「いやあん!」


背後へジャンプする様に、飛び退けた富美。両手で右胸を押さえながら、

「ふええ、お嫁に行けないよぅ」と、震える声で泣き言を絞り出す。


「…設楽寺さん不可抗力だ、誤解なんだよ。真琴さんとにかく、助けて…」


真琴は、「よしよし、じっとしてるのだ」と、苦笑しながら玲一の背中に回り、背中から肩にかけて、マッサージを始める。

そして、偶発的セクハラに戸惑いながら、「土岐玲一さん」と、頬をほんのり染める富美。

その、まんざらでも無い反応を見せる設楽寺富美に、真琴は引きながら声をかける。


「ほらほら、余韻になんか浸ってないで、貧乏神も手伝う」


頭をカクカクと上下に揺らし、笑顔で富美も合流した。


 全てが終わった。

玲一の迦楼羅制御は見事成功し、目的だった設楽寺富美の貧乏力を、削ぐ事が出来たのだ。

この出来事は、二つの意味で、大きな成果を得たと言って良い。


一つは、土岐玲一が迦楼羅をコントロール下に置いた事。

それはつまり、偶発的事故で迦楼羅が暴走発露し、全世界に未曽有の大危機が、訪れる可能性が、格段に減ったと言う事。

それだけ、土岐玲一にとっては、自己責任の重さが、のしかかって来たと言う事なのだが、

その重さに飲まれ、潰れてしまう人間では無い事を、真琴は知っている。

真琴は、玲一の背中をマッサージしながら、玲一を頼もしく見詰めていた。


 そして、もう一つの大きな成果。

設楽寺富美の人生が、そして、設楽寺富美を取り巻く者達の人生が、強制的な不運にみまわれずに、輝き出した事。

今はまだ、目に見えた変化は見られないが、玲一をかいがいしくマッサージする、富美の笑顔は、

含むところの無い、熱っぽく玲一を見詰める、綺麗で素敵な笑顔。

どんよりと、喫茶黙示録に入店して来た時の陰鬱さが、信じられない程に変わっていた。



 日本各地に、古来より伝わる、貧乏神の様々な伝承。

不幸のどん底へと堕ちて行った人々の、陰惨な伝承がそのほとんどなのだが、まれに、極めてまれなケースなのだが、興味深い伝承が残されている。


とある侍の屋敷が、貧乏神に取り憑かれた。もちろん、生活は困窮し、侍の運も芳しくはなかった。

とある年の瀬、侍は屋敷の神棚に、魚や米など、精一杯のお供え物をした。

「確かに貧してはいるが、今年一年大過無く過ごせたのは、貧乏神様のおかげだ」と、貧乏神に感謝の意を示したのだ。

その侍の行いに、いたく感激した貧乏神は、それ以降、貧乏力を発揮するどころか、侍一家に幸あれと、幸運をもたらしたそうだ。


 さて、現代の貧乏神、設楽寺富美は、自分を救った土岐玲一に、自分を感激させた土岐玲一に、どんな未来をもたらすのか。

今後彼女が、土岐玲一とその仲間達に、良い意味で、深く関わって来る事だけは、間違いの無い未来だった。




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