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第六幕 電子の海に潜むモノ

何もない辺境の村で、ルビスが拾った一つの“ガラクタ”。

その些細な違和感が、二人を思いがけない場所へと導いていきます。

 あの満天の星の下、焚き火のそばで並んで座った夜から、二人の間には以前より少し柔らかく、親密な空気が流れるようになっていた。

 現実世界における互いの素性を明かすことなく、「ここでは関係ないじゃない」という穏やかな了解のもと、彼らは仮想世界『NewEarth』での時間を共有している。今日も他愛ない会話を交わしながら、二人はふらりと辺境の村へと足を踏み入れていた。


 地球規模の広さを誇る『NewEarth』には、こうした村が無数に存在する。店も宿屋もなく、クエストの起点になるわけでもない。ただ広大な世界の密度を保つために置かれた、NPCが数人うろつくだけの空白地帯——いわば書き割りのような村だ。クエストに追われる大半のプレイヤーは見向きもしないが、その日の二人は、目的もなくただ漂うように、たまたまその静かな村へと引き寄せられていた。


「せっかく来たんだし、ちょっと探検しよっか。なんもなさそうだけど」

「賛成。タヌさんはあっち、あたしはこっち見てくる」


 そうして二人は手分けして、白茶けた土壁の家屋が並ぶ過疎の村を散策しはじめた。


 ルビスが足を止めたのは、村のはずれにある薄暗い倉庫の前だった。中へ入り、壁際に並んだ古びた木製の収納をひとつずつ検めていく。引き出しのほとんどは固く閉ざされたまま——見た目だけ用意された、開かずの飾りらしい。だが最下段の一つだけが、かたりと小さな手応えを返して開いた。

 覗き込むと、奥に煤けた金属の塊が転がっている。拾い上げてみれば、アイテム表示は『錆びた歯車』。詳細説明には「使い道のないガラクタ」とだけ記されていた。

 『NewEarth』には、この手のゴミアイテムが無数に存在する。道端に落ちていたり、施設の隅に放置されていたり。引き出しの中身にしても、ごく稀に当たりが紛れている程度で、そのほとんどはこうしたガラクタだ。この『錆びた歯車』も、見た目はそんなありふれた背景の一部にすぎない。それなのに、なぜか指先に引っかかるような違和感がある。ルビスは小さく首を傾げ、手の中の歯車をじっと見つめた。


(うーん……なーんか気になるわね、この歯車)


 歯車を手の中で所在なげに(もてあそ)びながら、ルビスはふらりと歩き出した。だが、視線がそれに落ちていたせいで、前方の石像にまるで気づかない。

 ——ごつん、と鈍い音。額をぶつけた拍子に、彼女はその場へ思わずしゃがみ込んだ。


「あいたた……」


 じわりと、額の奥が(うず)く。

 NCIの痛覚リミッターは、被ダメージも転倒も衝突も、現実の何分の一かにまで(やわ)らげて伝えるのが当たり前だ。『NewEarth』で本気で痛い思いをすることなど、ありはしない——はずだった。なのに今のは、まるで現実で柱にぶつかったかのように、はっきりと痛んだ。


(……なんで、こんなに痛いのよ)


 ほんの一瞬、ルビスの胸の奥を小さな違和感が(かす)めた。けれど、目尻ににじんだ涙を指先でそっと払うころには、その引っかかりはもう、薄れてしまっていた。

 ルビスは石像を軽く(にら)んでから、ゆっくりと立ち上がる。

 その瞬間だった。


 視界の端に、ノイズが走った。

 視界の隅、ほんの数画素四方の極小の領域に、見たこともない幾何学的なパターンが一瞬だけ明滅したように見えた。数フレームにも満たない、電気的なちらつき。ポリゴンの欠けやコマ落ちといった、よくある描画バグとは明らかに異なっていた。何かが「重なった」ような、異質な違和感。それは「脳の奥に直接差し込まれた」ような、妙に粘りつく後味を残した。


 ルビスは思わず瞬きをし、小さく息を呑んだ。

 見た直後、頭の芯がほんの少しだけ熱くなったような気がしたからだ。

 『NewEarth』をプレイするための神経接続ニューラル・コネクションインターフェース——NCIには、プレイヤーの脳を過負荷や悪意ある信号から守るためのコヒーレンス・フィルタ(生体保護リミッター)が備わっている。通常、脳の認識に干渉するような異常なデータが送られてくれば、即座にシステムが警告を出し、通信を遮断するはずだ。

 しかし、システムは一切の警告を出さなかった。

 つまりこのノイズは、システム上「正規の無害なゲームエフェクト」として完全に素通りしてきたということだ。ルビスの生体側の直感だけが、脳を直接撫でられたような微かな熱を感知し、本能的に警鐘を鳴らしていた。これは画面の問題じゃない。もっと奥の、自分の認識そのものに触れてくる何かだ、と。

 今のは、石像にぶつかってしゃがみ、立ち上がっただけ。狙って起こしたわけではない、まったくの偶然だった。


(……今の、何?)


 常人なら、ほぼ気づかないであろう極小の異物感。だが、その偶然を偶然のまま放置できないのが、ルビスという少女だった。

 ルビスは、たった今の自分の動きを記憶から巻き戻していた。どこに立ち、どう動き、何を持っていたか。そして元の位置に戻ると、歯車を手にしたまま石像の傍らでしゃがみ、ゆっくりと立ち上がる。

 ——再び、視界の端に同じ幾何学模様のノイズが(ひらめ)き、脳の奥に微かな熱が広がる。

 偶然ではなかった。狙って再現できる以上、これは明確な「条件」を持つ現象だ。


 そこからのルビスは、もはやプレイヤーというより検証者の顔をしていた。条件を一つずつ潰していく。

 まず、歯車をインベントリへ仕舞ってから、同じ場所で同じようにしゃがんで立ち上がってみる。——何も起きない。手に持って、もう一度。今度はノイズが走る。手にしているかどうかが効いている。

 次に、歯車を持ったまま石像から大きく離れ、家屋の陰でしゃがんで立つ。——無反応。石像のそばへ戻ると、また走る。立ち位置にも範囲がある。試しに少しずつ石像から後ずさりながら繰り返すと、ちょうど一歩ぶんほど離れた境目を越えたあたりで、ノイズはぴたりと現れなくなった。

 しゃがみ方や立ち上がり方も変えてみた。素早く、ゆっくり、中腰で止めて。だが、それらは結果に関係しなかった。しゃがんだ姿勢から立ち上がりさえすれば、速さも所作も問わない。

 ——歯車を手に持っていること。石像を中心に、一歩ぶんほどの範囲にいること。そして、しゃがんでから立ち上がること。その三つが揃った瞬間にだけ、立ち上がりざまのコンマ数秒、あのノイズは走る。


 彼女がさらに別の発動条件はないかと検証に移ろうとした、そのときだった。倉庫の入口から、間延びした足音が近づいてきた。


「ルビちゃーん、こっちは大はずれ。家も井戸もぜんぶハリボテで、引き出しの一つも開きゃしない。ほんっとに何にもない村だわ、ここ」


 別の一角を見て回っていたタヌポンが、丸い肩をすくめながら戻ってくる。お飾りのような村は、彼の側にはひとかけらの収穫も与えなかったらしい。


「……ねえタヌさん。今、視界の端にノイズが走ったの」


 ルビスが振り返らずに言うと、タヌポンは「え?」と足を止めた。


「バグじゃないの? NewEarthってまだ最適化しきれてないとこあるし」

「んー、バグといえばバグなんだろうけど、なんらかのトリガーの発動条件は満たしてはいるんだけど、ガードされた、みたいな?」

「トリガー、ガード?……ルビちゃん、それ、何の根拠で言ってる?」

「もう条件は割り出したわ。この歯車を手に持って、この石像の一歩ぶんの範囲内で、しゃがんでから立ち上がる。それだけ。ほら——」


 言いながら、ルビスは石像の脇でひょいとしゃがみ、立ち上がってみせる。


「……ほら、また走った」


 ルビスの言葉に、タヌポンは首を傾げた。


「ほんと? ちょっと俺もやってみる」


 タヌポンはルビスと入れ替わるように石像のそばに立つと、同じようにしゃがんで、立ち上がった。


「んー、ノイズは走らないなぁ。俺の環境だと何ともないよ?」

「あぁ、ごめん。この歯車を手に持っていないと、条件が満たされないの」


 そう言って、ルビスは手の中の『錆びた歯車』をタヌポンに手渡す。

 受け取ったタヌポンが、先ほどとまったく同じように、しゃがんで立ち上がる。


「ん?」


 今度はかすかな手応えがあったらしい。タヌポンはもう一度、目を凝らして同じ動作をなぞった。


「おっ、ノイズ走った!」


 ノイズを捉えた瞬間、タヌポンのアバターがぴたりと動きを止めた。


「たしかに、アイテムを持って条件が満たされ、トリガーされたみたいだけど、動くまえにガードされたって感じがするね、これ」


 タヌポンの返事には、ほんの一拍の間があった。

 いつものへらへらした調子が、すっと引っ込んだような——声の温度が、ほんの少しだけ下がった気がした。


(……今、ちょっと空気が変わった?)


 ルビスが思わず着ぐるみの丸い背中を見やる。けれど、その違和感を言葉にするより早く、彼はくるりと振り返っていた。


「いやあ、面白いバグ見つけたねぇ、ルビちゃん。さすがの観察眼」


 もう、いつもの間延びした「タヌさん」の声だ。ルビスは小さく首を傾げたが、追及するほどのことでもない。気のせいだろうと、すぐに思い直した。


「ねえタヌさん。これ、ノイズ自体はたぶんバグなのよ」

「バグ、ねぇ。どうしてそう思うの?」

「だって、見えるだけで何も起きないでしょ。何かの処理が走りかけて、途中で弾かれてる——その弾かれ方が雑だから、漏れたものが視界の端にちらついてる。そんな感じ。ちゃんと作るなら、こんな綻びは出ないはずよ」


 タヌポンは石像の前でもう一度しゃがみ、立ち上がってノイズを確かめた。何度か繰り返すうち、彼の口数は、だんだん減っていった。


「……なるほどね。確かに、これは何かを『弾いた』時の漏れみたいだ」

「でしょ。それにね、『使い道のないガラクタを手に持つ』なんて、ゲームの進行には何の関係もない行動よ。値もつかないゴミアイテムの所持を、わざわざ何かのスイッチに割り当てる——そんなの、普通は開発者がテストに使う隠しコマンドくらいのものよ。少なくとも、プレイヤーに触らせるためのものじゃない」

「……だね。明らかに、表に出すつもりのない仕掛けだ」


 タヌポンの口調が、また少しだけ低くなった。


「これはたぶん、暗証番号の途中までを偶然押しちゃった、みたいな状態だ。番号が揃ってないからエラーで弾かれてる——でも、ぜんぶ揃えたら、その奥で『何か』が動くように仕込まれてる。そういう匂いがする」


(暗証番号……?)


 ルビスはその言葉に、ぞくりとした。ただのバグだと思っていた綻びの向こうに、誰かが意図して隠した「本当の入口」がある——タヌポンはそう言っているのだ。

 その丸い顔は、いつも通り飄々(ひょうひょう)ととぼけたタヌキの表情を保っていた。けれど、ノイズを見つめるその目だけが、隠しきれない真剣さを滲ませて、妙に静かで、鋭かった。


「ルビちゃん、このアイテム、ちょっと借りてていいかな?」

「ううん、あげるよ。あたしが持っていても何の役にも立たないし」

「……助かる。ちょっと気になるから、自分とこの環境で調べてみたくてさ」


 タヌポンはそう言って、歯車を大事そうにそっとインベントリへ仕舞い込んだ。ただのガラクタを家宝でも扱うかのようなその手つきに、ルビスは思わず吹き出しそうになった。


「ふふっ。タヌさん、ガラクタアイテムに、そこまで丁寧にしなくても」

「いやあ、こういう気になるアイテムは、雑に扱うとバチが当たる気がしてね」


 丸っこいタヌキ顔が、どこまでも大真面目な表情を崩さずにそう言うものだから、その声とのちぐはぐさがおかしくて、ルビスはとうとう肩を揺らして笑ってしまった。

 つられたように、タヌポンの丸い顔にもいつものへらりとした笑みが戻ってくる。

 ——けれど、その笑顔の奥で、彼が何を考えているのか。ルビスには、まだ知る由もなかった。


***


 灰色の雲から、粉雪が静かに舞い落ちていた。

 『キュッ、キュッ』と、新雪を踏みしめる乾いた音が足元から響く。NCIの再現性は恐ろしいほど高く、鼻腔を抜けるひんやりとした空気の匂いや、吐き出す息が白く染まる視覚効果、さらには肌を刺すような冷気までをも克明に現実の脳へと伝えてくる。

 冬の始まりを迎えた『NewEarth』の北方フィールドは、見渡す限りの白銀の世界だった。


「タヌさん、あの歯車のバグ、まだ分からない?」


 雪原に群れていた氷属性のモンスターをあらかた片付けた後、ドロップアイテムを拾い集めていたルビスが、不意に尋ねた。あの辺境の村で見つけた、奇妙な現象のことだ。


「んー、もう少しってところかな。でも……絶対ただのバグじゃないと思うよ」


 タヌポンは手元のステータスウィンドウを操作しながら、いつも通りの軽い口調で返してくる。けれど、その「絶対」という言葉に、ルビスはほんの少しだけ引っかかった。いつものとぼけたタヌさんにしては、やけに言い切るな、と。

 タヌポンは、それ以上は語りそうにないように思えた。だから、ルビスもそれ以上は訊かなかった。


「そう。わかったわ」


 追及をやめて、ルビスは視線を遠くへ移した。見えないノイズの正体よりも、いまは目の前に広がる景色のほうが、ずっと心を惹いた。遠く連なる、冠雪(かんせつ)の山脈。


「寒い地方のエリア、好きかも。なんか……とても綺麗で新鮮」


 白く透き通るような雪景色を眺めながら、ルビスはぽつりとつぶやいた。


「リアルで寒いとこ好きなの?」


 タヌポンに尋ねられて、ルビスは少しだけ肩をすくめた。


「リアルでは……インドア派だから、雪とか縁がないんだよね」

「あー、分かる」


 タヌポンが、妙に納得したように深く頷くのがおかしかった。どうせ、部屋にこもってばかりいる姿でも想像しているのだろう。……まあ、当たらずとも遠からず、なのだけれど。


「俺も都心住みだから、雪は年に一回見れれば多い方かな。積もると白銀の景色になって、遠目には幻想的で綺麗だな」


 空を見上げてそう言うタヌポンを、ルビスは横目で見上げた。


「タヌさんって、雪を見てロマンを感じるタイプだったんだ。意外」

「悪い意味で?」

「ふつう」

「いや、それは『普通』が悪い意味かもしれない」

「……うるさいわね」


 ルビスは少し頬を膨らませると、くるりと背を向けた。そして、わざと足音を立てるように、新雪を踏みしめながらずんずんと先へ歩き出す。


「あ、待ってよ、ルビちゃん。ソロで先行するとまた囲まれるぞ」


 苦笑まじりに追いかけてくるタヌポンの足音を背中で聞きながら、ルビスはふと思う。

 他愛のない軽口。静かで美しい雪景色。どこまでも平和で、温かい——こういう時間が、たまらなく好きだ、と。

 その一方で、なぜかあの歯車の違和感が小さな棘のように引っかかったまま消えない。そして、隣を歩くタヌさんが、あのゴミアイテムをどうしてあんなに大事そうに持ち帰ったのか。

 雪が降り積もるように、その問いは静かに胸の奥へと埋もれていった。いまはまだ、答えを知らないまま。


ここから物語は、新しい層へと踏み込みます。観察眼の鋭いルビスが捉えた、視界の隅のわずかな“綻び”。「ただのバグじゃない」——彼女の直感と、タヌポンの鋭さが、静かに重なり始めます。のどかな冒険譚に、ひやりとした影が差し込む回です。

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