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第七幕 サブリミナル

預かった“ガラクタ”を手に、深夜のオフィスで解析に没頭するリョウタ。

その先に待っていたのは、ただのバグでは片付けられない、ぞっとするような“仕掛け”でした。

 深夜のオフィス。フロアには誰もいない。

 モニターの青白い光だけが、リョウタの険しい顔を照らしている。広い室内に満ちるのは、サーバーの低い駆動音と、空調の微かな息遣いだけだ。

 机の端にはエナジードリンクの空き缶が数本、無造作に転がっていた。

 この数日、彼は寝る間も惜しんで解析作業にかじりついていた。きっかけは、ルビスから預かった『錆びた歯車』——仮想世界『NewEarth』内で彼女が見つけたという、奇妙なアイテムだ。マスターデータには登録されているのに、敵のドロップ、店の販売、クエスト報酬——プレイヤーがアイテムを得るあらゆる入手経路のテーブルに、その歯車だけがどこにも紐づいていない。にもかかわらず、現にあの辺境の村の倉庫には、配置物として置かれていた。本来なら、正規の手段では絶対に手に入らないはずのものだ。開発やデバッグ用に登録されたまま、消去されずにリリース後も残ってしまったとしか考えられない。だが——なぜ残ってしまったのか、その真意までは分からない。


 リョウタはドリーム・ポッドの脇に設置されたエンソウル・ハブの封止パネルを開け、保守用の診断ポートに自前の解析端末を有線で接続していた。ネットワークの出入り口はここに集約されているため、この位置で生のトラフィックを直接押さえるのが、最も確実だった。AIUの監視フィルタを通る前の内部バスから全ログを流し込み、異常を自動検知するよう設定した解析環境を回し続ける。ゲーム本来のトラフィックに紛れ込んでいる、ごくわずかな異常——それを網からすくい上げる作業は、砂漠で一粒の砂金を探すようなものだった。


「……ん?」


 ふと、彼の指が止まる。

 自動フィルタをすり抜けた微細なアノマリが、ログの中に顔を出していた。ゲームの正規セッションとは別に、バックグラウンドでひっそりと発生している定期送信の痕跡だ。詳細を覗き込もうとしたが、外部通信経路は暗号化されており、宛先のIPアドレスは公式運営サーバーの帯域から完全に外れている。監視機構すら巧妙に迂回しているようだ。


「なんだこれ。俺の目を盗んで、どこに送ってやがる……?」


 公式のアップデート確認でも、負荷分散のためのルーティングでもない。まったく見知らぬ外部のノードへ向けて、一定の周期で何かが送り出されている。リョウタはすぐさま暗号解析ツールを展開した。正面から力技で鍵を破る必要はない——診断ポート経由でハブのメモリ空間を丁寧にダンプし、通信確立時に生成されたセッションキーの断片を抽出する。普段のセキュリティ案件で磨いた手順だ。それでも、通信の偽装プロトコルを一枚一枚剥がしていく作業は、深夜の時間を容赦なく削り取っていった。


 やがて、解析が進むにつれ、ディスプレイに表示されるデータの中身が明らかになっていく。

 それを見た瞬間、リョウタの背筋を冷たいものが這い上がった。


「嘘だろ……」


 送信されていたのは、単なるプレイデータや座標ログではない。視線の停留時間、網膜の動きのトラッキング、会話時の脈拍や発汗の推定値、選択肢に対する迷いの時間——。つまりは、プレイヤーの行動パターン、感情の起伏、思考傾向の生ログだった。

 『NewEarth』という巨大な仮想世界が、プレイヤーのありとあらゆる反応を常に観察し、その深層心理を丸裸にするようなデータを、どこかの見知らぬ外部サーバーへと送り続けている。誰が、何のために。その事実に、リョウタはぞっとするような嫌悪感を覚えた。


 だが、不気味な現象はそれだけでは終わらなかった。送出されたデータの流れを監視していくと、今度は外部サーバーからゲームクライアントへ向けて、謎のデータパケットが定期的に返されていることに気づく。一見すれば、天候や環境の更新データ——ゲームが日常的にやり取りする、ありふれた通信に偽装されている。だが中身は違った。


「これ……パラメータか? ゲームの中で、何かを動かすための」


 送り返されてくるそのデータは、ゲームクライアントの奥深くに潜む“何か”へ宛てた指示書のように見えた。不審に思い、リョウタはそのパケットの宛先プロセスをシステム上でトレースする。行き着いた先にいたのは、正規のレンダリング拡張機能に偽装して、クライアントの深層にひっそりと常駐する不正なモジュールだった。


「……お前か」


 リョウタの目が鋭く細められた。そのモジュールは、受け取ったパラメータをもとに、描画されるフレームへ微細な視覚コードを合成していた。しかもその仕込みは、ゲームがUDAへ映像を引き渡す直前に行われる。脳へ送り出す境界の一歩手前。プレイヤーには認識できない、一瞬の明滅による視覚の断片だった。しかも「正常な描画データ」として完璧に偽装されているため、堅牢なはずのUDAすらそれを正規の映像と信じ込み、何の疑いもなく忠実に脳へと転送してしまう。守りの要そのものが、騙されているのだ。しかもその視覚コードは静的なものではなかった。プレイヤーが直前に送信した体験ログに応じて、外部サーバーで組み上げられたパラメータが刻々と更新され、その個人に最適化されたパターンへと変化し続けている。

 モジュールそれ自体は、外から届くパラメータをただ受け取って像を合成するだけの「受け皿」にすぎない。だが、デコード済みの映像に偽りの視覚コードを後から注ぎ込むその手口に、リョウタは一つの名を与えた——『モルフェウス・インジェクター』。眠りと夢を司る神の名は、皮肉にも、その機能をこれ以上なく言い当てていた。


「……つまり、こういうことか」


 リョウタは乾いた唇を舐め、頭の中で事の全貌を整理した。

 まず、『NewEarth』がプレイヤーの体験ログを外部サーバーに送信する。次に、外部サーバーが個々のプレイヤーの「思考の癖」を割り出し、その個人にもっとも効果的に作用するパラメータを組み上げて送り返す。そして、クライアントの奥に潜む例のモジュールが、そのパラメータに従って専用の視覚コードを合成し、見ている景色そのものに紛れ込ませる。

 一見すれば、ただの巧妙なサブリミナル広告の手法だ。だが、いまや全人類が幼少期から例外なく組み込まれている人格OSの仕様を考え合わせたとき、その真の目的が浮かび上がってくる。

 人格OSのコア機能である「認知適応モジュール」。外部からの刺激を調整し、社会生活への適応を促すためのその機能に対し、この視覚コードは直接作用するように計算されている。特定の価値観への親和性を高め、批判的思考を抑制し、服従傾向をじわじわと書き換えていく。

 そして対象は、この仮想世界に身を浸す十五億のプレイヤー全員であり、それぞれ自分専用に調整されたサブリミナルを浴びせられている。中でも全体の七割を占め、まさにこれから社会へ羽ばたこうとする無垢な十億の准成人たちに与える影響は計り知れない。彼らは毎日、疑うこともなくこの楽しくて美しい世界にログインしているのだ。


「コードの美しさだけなら、賞賛ものだな……」


 リョウタは、そのあまりにも洗練され、無駄のないアルゴリズムに、技術者として一瞬だけ感心してしまった。だが直後、その精緻(せいち)さが何のために費やされたのかを思い、怖気(おぞけ)が走った。


「……だが、これは洗脳だ」


 静かなオフィスに、リョウタの低い呟きが落ちた。

 十五億もの思考を、気付かれぬまま徐々に操作する。そのあまりにも巨大で、静かな悪意に満ちたシステムは、誰にも知られることなく完璧に機能していたわけだ——ただ一つの、例外を除いて。

 そして、その入り口を開いたのが『錆びた歯車』——どの入手経路にも属さないあのオブジェクトだ。あれは単なるゴミではない。アイテムを手に持った状態で、特定の場所で特定の動作を組み合わせる。おそらく開発者が仕込み、そのまま消し忘れたデバッグ用の隠しコマンドだ。「暗証番号の途中まで押してしまった」状態——ルビスがあの時見た視覚のノイズは、本来開かれるはずのないその扉が、ほんの僅かな隙間を開けて漏らした綻びの気配だったのだ。「絶対ただのバグじゃない」と言い切ったルビスの観察眼が、この精巧なシステムが唯一見せた綻びを、確かに捉えていた。


 リョウタは椅子の背もたれに深く体重を預け、薄暗い天井を仰いだ。


「それにしてもルビちゃん、天才かよ」


 感嘆の息とともに漏れたその声には、彼女の鋭さに対する純粋な驚きと、こんな得体の知れない陰謀に彼女を近づけてしまったかもしれないという、重い後ろめたさが滲んでいた。


***


 どれだけの時間、画面を睨み続けていただろう。リョウタは凝り固まった首を鳴らし、ぬるくなったコーヒーで喉を湿らせた。空調の微かな稼働音だけが響く深夜のフロアで、キーボードの上にそっと置かれた彼の指先は、まだ微かに震えていた。

 プログラムコードというものは、ただの無機質な文字列の羅列ではない。そこには必ず、それを組み上げた者の「書き癖」——言うなれば指紋のようなものが明確に残る。変数の命名規則、メモリの割り当て方、処理を分岐させる際の論理の組み立て方、そして暗号化の流儀。熟練の技術者であれば、コードの断片を見ただけで「誰の仕事か」をある程度推測できるものだ。

 リョウタは再びディスプレイに向き直った。遠い外部サーバーの中身そのものには、当然手は届かない。だが、毒は自分のすぐ手元にあった。外部から送られてくるパラメータの宛先——自分の『NewEarth』クライアントの奥深くに、こっそりと棲みついている不正なモジュールそのものだ。クライアントのメモリ空間からその実体を丸ごと吸い出し、逆アセンブラと逆翻訳器(デコンパイラ)にかける。画面には、復元された疑似コード(ぎじコード)が展開されていた。何万行にも及ぶ複雑な条件分岐のツリー構造をスクロールしていくうち、彼の目はある特定のアルゴリズムの痕跡に釘付けになった。


「……なんだ、この泥臭いのに洗練された組み方」


 見覚えがある。いや、直接見たことはない。だが、現役のエンジニアであれば「歴史の知識として」知っていなければならない、忌まわしい構造の片鱗だった。

 それは、かつて世界を震撼させたAI暴走事故——喪失の特異点ロスト・シンギュラリティ——以前に主流だった、旧世代AI技術の流儀だった。いまでは国際的な法規制によって完全に封印され、使用はおろか研究することすらタブー視されている、禁忌のコード体系である。

 なぜ、そんなものが最新の娯楽用プラットフォームの基幹部分に紛れ込んでいるのか。制限されたはずの旧世代のAI技術が、いまだにどこかの暗がりで生き延びており、それを利用して画策する誰かが、この洗脳システムを構築したということか。


 だが、技術者としてリョウタをさらに戦慄させたのは、このシステムが持つ「規制の抜け穴」を突くという悪魔的な巧妙さだった。復元したロジックを何度も多角的に解析しても、そこには現行法で厳しく監視されている「自律的に学習・判断するAI」の姿は一切ない。このロジックは、事前に組み上げた天文学的な数の条件分岐——巨大な規則の樹(ルールツリー)に従い、あらかじめ用意された膨大な視覚パターンを、入力された生体データに合わせて選び、組み合わせているだけだ。処理の筋道は一つ残らず追跡できる。学習によって己を書き換えるブラックボックスとは根本から違う、与えられた規則に従って答えを弾き出すだけの、純粋な——そして、純粋であるがゆえに法の網をすり抜ける——数学的プログラムだった。


「自律型じゃない……すでに出来上がったロジックの上で動く『高性能なエキスパートシステム』というわけか」


 だからこそ、国際的な監査機関の目をも軽々とすり抜けてきたのだろう。現行のAI規制法には何一つ違反していない、完璧な偽装だ。これほど大掛かりな仕掛けに、莫大な資金と時間と人手を注ぎ込んで、いったいその先に何を成そうとしているのか。

 解析から確実に言えるのは、ここまでだ——次世代の中核を担う准成人たちの価値観を、特定の方向へ少しずつ作り変えようとしている。だが、その「方向」が何を指すのかまでは、コードは語ってくれない。

 ただ、ひとつだけ薄ら寒い符合があった。この仕掛けの根幹には、封印されたはずの旧世代AI技術が使われている。もしその二つが地続きなのだとしたら——次世代の人間から、AIへの警戒心そのものを、抜き取ろうとしているのではないか。あの忌まわしい事故で一度は葬られたものを、もう一度この世界に呼び戻すための、気の遠くなるような地ならし。


「……いや、さすがに考えすぎか」


 リョウタは自分の想像に、軽く頭を振った。確証はどこにもない。だが、一度芽生えた疑念は、容易には消えてくれなかった。


 視界の端で、解析ツールが淡々と緑色のログを流し続けている。

 黒幕の正体は、いまだ深い霧の中だ。どの国家の意図が絡んでいるのか。確かなのは「国家間レベルの、巨大な何か」が動き出しているという事実だけだった。

 リョウタはキーボードから手を離し、両手で顔を覆って深い息を吐き出した。冷え切った指先から、全身の熱が静かに引いていくように感じられた。


「……これ、俺たちだけで、どうにかなる話なのか?」


 誰に宛てるでもない独白は、静まり返った深夜のオフィスに虚しく響き、そして暗がりの中へ溶けていった。


***


 洗脳は、今この瞬間も進行している。

 リョウタは暗いオフィスのモニターを睨みつけ、乾いた息を吐いた。世界中に散らばる無数のプレイヤーの人格OSに対して、政府かあるいはそれに匹敵する巨大な何者かが、気づかれぬよう少しずつ思想を書き換えている。途方もない規模の陰謀を前にして、一介のシステムエンジニアに過ぎない自分に何ができるのか。

 だが、独りで途方に暮れ、立ち止まっている猶予はなかった。少なくとも、この異変にいち早く気づいた自分と、あの少女だけは、一刻も早く防御の壁を作らねばならない。


 リョウタは自社のサーバーに接続し、長年かけて磨き上げてきた開発環境を一気に立ち上げた。画面の中に、検証済みの機能部品——構成要素(ビルディングブロック)のライブラリがずらりと展開される。ゼロからすべてを手で書いている時間など、ありはしない。

 AIにコードを書かせることが禁じられたこの世界で、ソフトハウスの真の力量は、いかに堅牢で再利用の利く部品群と、|人間の判断を肩代わりする熟練則エキスパートシステムをどれだけ自前で揃えているかで決まる。大手にはない局所的な強みこそ、零細企業が生き残るための牙だ。リョウタの会社は、まさにその一点が尖っていた。

 手掛かりは、ルビスがゲーム内で見つけたあのノイズだ。視覚コードの僅かな(ほころ)びを逆手に取り、不正な視覚パターンをリアルタイムで検知して遮断する——その中核となる判定ロジックだけを、リョウタは自らの手で書き起こす。あとは積み木でも組むように、信頼できる部品を高速で繋ぎ合わせ、部品と部品の隙間を埋める接合コードを叩き込んでいく。充血した目をこすりながら、ルールの衝突を一つずつ潰し、組んでは検証を繰り返す。キーを叩く硬質な音が、深夜の部屋に響き続けた。

 時間との戦いという極限の集中力の中、リョウタは自身の技術者としての勘を総動員していた。一人ではテスト環境の構築に限界があり、夜半過ぎには会社のチーフエンジニアである森下にだけ、内密の通信を繋いだ。「業務外の実験を手伝ってほしい」とだけ告げたが、森下は深い追及をすることなく、リョウタの切迫した声色から事情を察し、テストのためのリソースを割いてくれた。二人がかりで膨大な負荷検証を回し続ける。

 やがて、窓の外が白み始めた頃。


「……動いた」


 かすれた声が、リョウタの口から漏れた。完成したのは「サブリミナル防御プラグイン」——外部からの微細な視覚干渉を検知し、人格OSへの影響を直前でブロックする独立ソフトウェアだった。


***


 明けて、その日の夜。仮想世界『NewEarth』にダイブする直前、リョウタはドリーム・ポッドの縁に腰を下ろしたまま、一向に晴れない迷いを持て余していた。


(まだ学生くらいに見える、あの子を、こんな危険に巻き込んでいいのか)


 ゲーム内で出会い、くだらない軽口を叩き合ってきた相棒。彼女を現実の、しかも得体の知れない陰謀の渦中に引きずり込むことへの罪悪感が、重く胸にのしかかる。

 いっそ、何も告げずに一人で動くか。そう考えかけて、すぐに打ち消した。最初にあのノイズを見つけたのは、他でもないルビスだ。ここで彼女を蚊帳の外に置くのは、対等なバディに対する最大の裏切りになる。

 巻き込むのも違う。締め出すのも違う。どちらに転んでも、心のどこかが軋む。

 だが——どれだけ自問したところで、彼女が好奇心と意地の塊だということを、リョウタはもう知りすぎていた。たぶん、何を言っても引かないだろうな。それでも一度くらいは言っておかなければ気が済まない。そんな往生際の悪さを抱えたまま、彼の意識は仮想の海へと沈んでいった。


 丸っこく、ふわふわとしたタヌキのアバター——タヌポンとして『NewEarth』に降り立ったリョウタは、人気のない森のセーフエリアでルビスと向き合った。


「……本当に、ただのバグじゃなかった。かなり、ヤバいことが起きてる」


 タヌポンは、いつもの気の抜けた声色を捨て、重い口調で事実を明かし始めた。この世界にダイブする全てのプレイヤーに——当然、ルビス自身も含めて、その視覚を通じた洗脳が仕掛けられていること。それが現実世界の人格OSに干渉するシステムであること。できるだけ専門用語を省き、噛み砕いて説明する間、ルビスは一切口を挟まなかった。いつもの生意気な皮肉も、快活な笑い声もない。ただ静かに、まっすぐな瞳でタヌポンを見つめている。

 全てを話し終えると、風が木々の葉を揺らす音だけが響いた。

 ルビスはしばらく黙考(もっこう)していたが、やがて小さく唇を開いた。


「……で、タヌさんは、どうするつもり?」


 先ほどまでの重苦しい空気を振り払うような、怯えも気負いもない問いかけ。ただ真っ直ぐに事実を確認しようとする彼女の瞳を見返し、タヌポンはいつもの間の抜けた調子で答えた。


「いやー、これはさすがに俺たちの手には負えないよ。だからさぁ、集めた情報もってオーソリティか、まあ、サイバー警察にでもタレ込もうかなぁと思って」


 どこか他人事のような、気楽なため口。張り詰めていた空気が、タヌポンの能天気な声で少しだけ肩透かしを食らったように緩む。

 しかし、続けて発する次の言葉だけは、丸っこいタヌキ顔のアバターが真剣な面持ちに変わった。


「だからさ、ルビちゃんはもう、ここにダイブしない方がいいよ。危ないし」


 それは紛れもない彼の本心だった。現実世界から仮想世界へと伸びる悪意から、少しでも彼女を遠ざけたい。そんな気遣いから出た言葉だったが、言い方が若干上から目線になってしまったのが運の尽きだった。


「……は?」


 ルビスの目の色が変わる。彼女は突然、タヌポンのアバターに向かってずんずんと詰め寄ってくる。


「ちょ、ルビちゃん……?」


 タヌポンが後ずさる暇もなく、ルビスは彼の顔面に両手を伸ばした。そして、ふわふわとしたタヌキの口の両端をガシッと掴むと、思いきり外側へと引っ張り始めたのだ。


「ふぇ!?」

「なにいってんのよ! あたしがそんなこと聞いて、はいそうですかって引き下がるとでも思って! いいかげんにしなさいよ!」

「あひゃ、ほひはひへ!」


 怒りの言葉をぶつけながら、ルビスはタヌポンの頬をうにうにとこね回し、さらに横へと引っ張る。仮想世界のアバターならではの異常な伸縮性により、タヌポンの顔はゴムのようにびよーんと伸びては戻り、なんとも滑稽な形に変形し続けていた。


「わ、わ、わかった、わかったから! とりあえずうにうにするのやめてー!」


 引っ張られるたびに視界が揺れる中、タヌポンはタヌキアバターの目を涙目にして叫んだ。物理的な痛みはほぼ感じないが、引き伸ばされた情けないタヌキ面と精神的なダメージが相まって、彼は降参の白旗を揚げるしかなかった。

 その悲鳴を聞いて、ルビスはようやくすっと手を離す。

 反動でびよんと元の丸顔に戻ったタヌポンが両手で頬をさすっていると、ルビスは彼に静かな、しかし有無を言わせぬ真剣な表情を向けた。


「……ちゃんとプラン、考えてるんでしょ」


 先ほどまで頬を引っ張り回していた勢いから一転、その声には研ぎ澄まされたような決意が籠もっていた。彼女はタヌポンに向かって、無言で白い手のひらを差し出す。


「さぁ、早く出しなさいよ」


 タヌポンはぽかんと口を開けた後、観念したように短くため息をつき、「……まあ、こうなるとは思ってたけど」と呟いた。

 タヌポンはインベントリを開き、徹夜で組み上げた防御プラグインを、ゲーム内のアイテムとして実体化(マテリアライズ)させる。彼の手元で淡い光の粒子が収束し、やがて光が晴れると、そこには銀色の小さなペンダントが具現化していた。ヒーラー職であるルビスが身につけていても、何ら違和感のない意匠だ。


「それ、首にかけてみて。装備するだけで、ルビちゃんのNCI側のセキュリティレイヤーに防御プラグインが自動で組み込まれる仕掛けだから。外からの視覚干

渉を片っ端から弾いてくれる」


 技術者らしい簡潔な説明に、ひとつ言葉を添える。


「インストールが終わっても、そのペンダントはプラグインの制御キーとして残るから。お守り代わりに、ずっとつけといて」


 タヌポンはそれを、差し出されていたルビスの小さな手のひらにそっと乗せた。


「……ありがと」


 ルビスは短く言って、ペンダントを自身の首にかける。

 鎖が首筋に触れた途端、銀の表面に淡く(あお)い光のラインがすっと走った。同時に、彼女の視界の隅に〈防御層を構築しています〉という小さな報告(シグナル)が灯る。視覚そのものに何かが薄く重ねられていくような、ごく軽い浮遊感。それも数秒のことだった。やがて〈構築完了〉の文字とともに光のラインは静かに鎖の中へ沈み、後にはただ、銀の飾りがルビスの胸元で常駐を示す微かな明滅を繰り返すばかりとなった。


「これで……動いてるの?」

「ああ。サブリミナルはこの世界にいる全員に、今こうして見ている景色そのものに紛れ込んで、四六時中、脳へ直接流し込まれ続けてる。もちろん、俺やルビちゃんも例外じゃない。だけど、今起動したそのプラグインが、入ってくる端からその視覚コードを一つ残らずドロップして、ルビちゃんの意識まで届かないようにしてくれてるんだ」


 見えない脅威が潜む電脳の海で、ルビスの胸元で瞬く小さな銀の光だけが、二人の行く先を照らす道標のように静かな熱を帯びていた。


物語の核心の一つに触れる回です。技術的な描写が一気に増えますが、「自律したAIではない、だからこそ規制をすり抜ける」という、この世界ならではの理屈を、できるだけ噛み砕いて書いたつもりです。フランクなタヌポンの裏側にある、リョウタという男の輪郭と、彼が背負おうとするものの重さを、感じていただけたら幸いです。

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