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第五幕 不器用な温もり

崖からのダイブ、息詰まる潜入クエスト、そして満天の星空の下での静かな時間。

少しだけ近づく二人の距離と、その胸に芽生えはじめる、まだ名前のない何か。

 尖塔(せんとう)のように屹立(きつりつ)する岩山。眼下には切り立った崖。

 荒涼とした赤い岩肌をなめるように吹きすさぶ突風の中、薄紫色のポニーテールが激しく(ひるがえ)る。


「ちょっと、ルビちゃん! いくらなんでも高すぎない!?」


 タヌ着ぐるみのタヌポンが、モフモフの腕を振り回して叫ぶ。短い足を踏ん張り、崖下を覗き込んではヒィッと喉を鳴らした。

 だが、崖の縁に立つルビスの深紅の瞳は、はるか下方の渓谷(けいこく)爛々(らんらん)と見据えている。討伐目標である、堅牢な装甲をまとったモンスターが、砂煙を上げて(うごめ)いているのが豆粒のように見えた。


「ツマラナイこと言わないの。最短ルートはここしかないじゃない」

(あたしは、この風を切り裂く瞬間がたまらなく好きなのよ)


 ルビスは迷いなく、虚空へと身を投げた。


「うおぉぉい!」


 崖の上に残されたタヌポンの悲鳴を背に、黒いローブがパラシュートのように膨らみ、すぐに流線型となって真っ逆さまに落ちていく。重力から解放されたようなダイブ。准成人向けに設定された高精細な感覚フィードバックによって、頬を叩く鋭い冷気や、内臓がフワリと浮き上がるような極限のスリルが克明に伝わってくる。

 急速に迫る岩肌。着地寸前、ルビスは杖を振りかざして空中に衝撃吸収の術式を展開した。

 バァン! という破裂音と共に土煙が舞い、小麦色の肌が健康的な汗に光る。無傷での鮮やかな着地だ。

 少し遅れて、「ドスッ」という重い音と共にタヌポンが落下し、無様に尻餅をついた。


「無茶しやがって……っ!」


 半泣きのタヌキ顔を見下ろし、ルビスは心底楽しそうに笑う。


(ああ、これだからこの世界はやめられないわ)


 効率主義で論理派、普段は皮肉ばかり口にするクールなヒーラー。だが、危険地帯への踏み込みや命知らずな立ち回りとなると、彼女はいつも誰より先陣を切って飛び込んでいく。

 今もまた、真っ先にモンスターへ突っ込んでいく彼女を追い、二梃の片手斧を抜き放ちながら、タヌポンはしみじみと感じていた。


 ——ルビちゃんって、こういうの本当に好きなんだな。


 生き生きとした彼女の背中には、仮想世界の自由を全身で謳歌する、活発で好奇心旺盛な少女の姿が確かにあった。


 モンスターをあっさりと討伐し、日陰の岩場で休憩を取る二人。

 タヌポンはインベントリから取り出した仮想の水筒を傾けながら、現実世界の愚痴をこぼしていた。


「いやさ、取引先の要求があまりにも理不尽でさ。でも部下の手前、俺がブチ切れるわけにもいかなくて、作り笑いで『前向きに検討します』なんて言っちゃって……自己嫌悪だよ、ほんと」


 着ぐるみの丸い耳が、しょんぼりと垂れ下がる。

 ルビスは呆れたように肩をすくめた。


「なんでそういう嘘をつかなきゃいけないの? 出来ないものは出来ないって、論理的に説明すればいいじゃない」

「……社会ってそういうもんだよ。理屈だけで回ってるわけじゃないんだ」


 タヌポンの言葉に、ルビスは小首を傾げた。


「変だね」


 短い言葉で一刀両断するルビスの、建前を嫌うまっすぐな倫理観に、タヌポンは苦笑するしかなかった。

 ふと、ルビスが真顔になってタヌポンを見つめた。


「タヌさん、社会人ってさ、毎日同じ時間に同じ場所に行くんでしょ。それって、ループ処理じゃない? 人生をforループで回してるの?」

「……ルビちゃん、社会活動をforループって言われると、ちょっと傷つくな」


 タヌポンは胸を押さえるような仕草をした。着ぐるみのタヌキがやると、妙にコミカルに見える。


「だって構造的にはそうじゃない。開始条件があって、終了条件まで延々と定型処理を繰り返す」

「社会人になるとね、そのルーチンワークから離れられなくなるんだよ。つまり、breakなんてないんだ……」


 しんみりとした声で呟くタヌポンに、ルビスは即座に言い返した。


「あるよ、転職とか起業とか」

「ま、それは確かにそうだな。俺も起業組だし」


 タヌポンは思わず膝を打った。ルビスのプログラミング的思考のキレの良さには、いつも舌を巻く。

 だが、ルビスは自分の膝を抱え込み、少し遠い目をしてポツリと呟いた。


「あたしは出来ないなぁ、社会活動」


 その声は、いつもの皮肉めいた調子ではなく、どこか心許なかった。


「ははは、何言ってるの。ルビちゃんもいずれ親元から巣立つでしょ。学生気分が抜けないだけだって」


 タヌポンが笑いながら明るくツッコミを入れると、ルビスはハッとしたように瞬きをした。


「あはは……そうだね」


 少しだけ曖昧に笑って、彼女はコクリと頷いた。

 親の保護を離れ、自分の足で社会へ踏み出す直前の、誰もが通る漠然とした不安——。

 少し前に起業という形で同じ重圧を味わったタヌポンは、彼女の自信なげな相槌を、ごく当たり前の心細さとして受け止め、温かい眼差しで優しく頷いた。


「大丈夫だって。ルビちゃんみたいに頭が回る子なら、社会に出ても上手くやれるさ」


 励ますようなタヌポンの言葉に、ルビスは少し照れくさそうに視線を泳がせる。


「……休憩終わり。さっさと次のポイントに行くわよ」


 照れ隠しのように立ち上がり、ローブの裾を翻して歩き出したルビス。タヌポンも「はいはい」とモフモフの体を揺らして後を追った。


***


 入り組んだ石造りの迷宮『宵闇(よいやみ)の回廊』。青白い発光苔が照らし出す通路の奥には、巨躯を誇る巡回型の敵性装甲歩兵が四体、規則的な足音を響かせて徘徊していた。

 タヌポンの片手斧二刀流による火力でも、四体に囲まれればひとたまりもない。さらに周囲は複雑なクランク状の地形で、不用意に動けばすぐさま視界に捉えられてしまうという、難易度の高い潜入クエストだった。

 壁の陰に身を潜め、タヌポンがタイミングを計りかねていると、後ろからルビスが小さな声で告げた。


「タヌさん、三秒後に右の通路へ。奥の柱の陰で四秒待機して、その後、一気に広場を斜めに抜けて」

「えっ、四体もいるのに?」

「いいから。さん、に、いち、今よ」


 タヌポンは半信半疑のまま、着ぐるみの短い脚をフル回転させて右の通路へ飛び出した。指定された柱の陰に滑り込み、心の中で四秒を数える。すると、前方と左右から交差するように巡回していたエネミーたちが、まるで示し合わせたように一斉に背を向けた。


「嘘だろ……?」


 完全な死角。タヌポンは慌てて広場を斜めに駆け抜け、ルビスもそれに続いた。誰一人として感知されることなく、二人はあっさりと最奥の安全地帯へと辿り着いたのだった。


「……ねえ、ルビちゃん」


 タヌポンは振り返り、いつものへらへらした調子を消した真剣な声で問いかける。そして、つぶらなタヌキの目が、何かの本質を見極めようとするかのように鋭く細められた。


「それ、どうやって分かったの?」


 ルビスは杖の先で地面を軽くコツンと叩き、少し考えてから口を開いた。


「……さっきのエネミーの巡回、地形と動きをしばらく観察してたら、索敵範囲と移動ロジックが頭に浮かんだの。それを重ね合わせると、全員の視線が同時に逸れる瞬間と、そのときの死角が割り出せた。だから、いつどこを通れば見つからずに突っ切れるか、推測できたってわけ」


 タヌポンは思わず息を呑んだ。


(マジか。それ、ルーティングアルゴリズムのリバースエンジニアリングそのものじゃないか)


 複数のエネミーの移動速度、索敵範囲、障害物による判定の遮断。それらを表層的なゲームの挙動としてではなく、裏側で動いているプログラムの構造として瞬時に紐解き、脳内でシミュレートしたというのだ。

 だが、その驚愕をそのまま口に出すことは避け、タヌポンは努めて平静を装った。


「え、頭の中でそれやったの?……プログラマーみたいな思考だね」

「独学で少し。ゲームとか、プログラム的に読むの好きで」


 ルビスは何の気負いもなく淡々と答える。(あたしにとっては、ただ面白いからやってるだけだし)という風情だった。

 しかし、現実世界でITベンチャーの社長を務め、日頃からエンジニアの採用や技術評価を行っているタヌポンにとって、その言葉は聞き流せるものではなかった。


「……ルビちゃん、それ独学ってレベル超えてるよ。大手のゲーム会社、即採用するレベル」

「そう?」


 ルビスがわずかに目を丸くする。


「そうだよ。俺は立場上、人を見ることもあるし、嘘じゃない」


 タヌポンが経営者としての本気の評価をストレートにぶつけると、ルビスは気まずそうに、少しだけ照れたように視線をそらした。


「べ、別に、好きでやってるだけだから」


 頬をわずかに染め、杖の柄を両手でぎゅっと握りしめている。その予想外に可愛らしい反応に、タヌポンの顔にいつものタヌキらしいにやにや笑いが戻ってきた。


「へぇー、ルビちゃんも、そんな風に照れることがあるんだ」

「あ、あたしはただ、そんな風に評価されたことないから……」

「おや? 『うるさいわね』、じゃないんだ」


 からかうように身を乗り出す着ぐるみに、ルビスはハッと我に返り、顔を真っ赤にして杖を振り上げた。


「うるさいわね!」


 ぽかっ、と気の抜けた軽い音が、タヌポンの丸い頭に響く。


「痛い痛い、ごめんってば」


 笑いながら謝るタヌポンは、内心で静かに、けれど確かな温もりを抱きしめていた。

 天才的な頭脳を持ちながらも、どこか不器用で、真っ直ぐな称賛に戸惑ってしまう彼女。この『NewEarth』という電子の海の中で、これほどまでに人間臭く、愛おしい存在がいるだろうか。


(ああ、もうこの子はかけがえないな)


 石造りの冷たい迷宮の中で、タヌポンの胸の奥だけが、柔らかな陽だまりのように温かかった。


***


 『NewEarth』の夜空は、現実ではありえないほどに澄み切っている。

 地平線の彼方まで(さえぎ)るもののない漆黒の天蓋に、無数の星屑がちりばめられていた。天の川が淡い光の帯となって横たわり、時折、長い尾を引いて流れ星が滑り落ちていく。

 クエストを終えたフィールドの片隅で、小さな焚き火がパチパチと爆ぜていた。

 タヌ着ぐるみ姿のタヌポンと、黒ローブに身を包んだルビスは、燃える火のそばに並んで腰を下ろしている。

 夜風が草原を撫でていくサラサラとした音だけが、満天の星の下の静寂を満たしていた。

 しばらくの間、どちらも口を開かなかった。

 けれど、その沈黙に気まずさはない。いつの間にか、こうして一緒にいることが当たり前になった者同士が共有する、穏やかで満ち足りた時間だった。

 ふと動けば肩が触れてしまいそうな、微妙な距離。タヌポンはその温もりを錯覚のように感じながら、揺らめく炎を見つめていた。


「……ルビちゃんさ」


 不意に、ぽつりと声が出た。

 隣で膝を抱えていたルビスが、深紅の瞳をわずかに動かしてこちらを見る。


「本当はどんな子なの? リアルで」


 自分でも少し驚くほど、自然な問いかけだった。薄紫色の長いポニーテールが、夜風に揺れる。彼女は少しだけ目を伏せ、薪が爆ぜる音を聞くように短い間を置いた。


「……秘密」


 やがて紡がれたのは、淡々とした響きだった。


「ゲームの中では、秘密でいいでしょ」

「まあ、それはそうか」


 タヌポンは苦笑して、着ぐるみの後頭部を掻いた。拒絶されたというよりは、線を引かれたような感覚だったが、嫌な気はしなかった。


「俺もさ。実は社長って言ったら、態度変わるかなって思ってたし」

「……タヌさんって、やっぱ社長だったんだ」


 ルビスは大して驚いた風もなく、どこか得心がいったように、まじまじとタヌキの顔を見つめた。仕事の話をするときの口ぶりや、たまに覗く妙に大人びた気遣いから、薄々そうではないかと感じていたのだ。


「うん。小さなIT企業だけどな。……なんか、言えなかったんだよな」

「……そっか」


 彼女はふいと視線を逸らし、再び夜空へと向けた。


「でも、ここでは関係ないじゃない」


 その言葉は、星明かりの下でひどく澄んだ音色に聞こえた。

 タヌポンは、本当はもっと訊いてみたかった。彼女が何歳で、どこに住んでいて、普段はどんなふうに笑うのか。

 けれど、それ以上は踏み込まなかった。

 もしここで野暮な詮索をすれば、この居心地のいい関係に「現実」という重さが流れ込んでしまう気がしたのだ。何より、彼女が「秘密」だと言ったのなら、それをそのまま守ってやりたかった。

 ネットの世界にリアルを持ち込みたくない。素性を知られたくない。それは、少しばかり大人びた年頃の少女なら、ごく当たり前に抱く矜持だろう。タヌポンにはそう思えた。

 ルビスもまた、何も語ろうとはしなかった。


(……リアルなんて、どうでもいい。ここでは、あたしは、魔法を操るヒーラーの『ルビス』なのだから)


 炎の照り返しを受ける小麦色の横顔は、ただ静かに星の海を見上げているだけだ。

 夜風が、二人の間を吹き抜けていく。

 言葉を交わさずとも、そこには確かな了解が生まれていた。現実の肩書きも、年齢も、どこで何をしているのかという事情すらも、すべてを傍らに置いて。この仮想の星空の下で、二人は確かに出会っている。アバターという仮面を被っているからこそ、素直になれる場所がここにあった。

 タヌポンは、隣に座る小さなアバターの横顔をそっと見つめた。

 気丈で、皮肉屋で、論理的で。けれどその奥底に隠しきれない不器用な温もりを持っている彼女。


(——なんでだろうな。この子といる時間が、いちばん素の自分でいられる気がする)


 炎の熱とは違う何かが、胸の奥底で静かに灯り始めているのを感じていた。

 それはまだ、明確な言葉を与えられるような形にはなっていない。それでもタヌポンは、肩が触れそうな距離にあるこの小さな気配が、ひどくかけがえのないものに思えた。


「……星、綺麗だな」

「……そうだね」


 薪が小さく爆ぜる。

 二人の静かな時間は、果てしない星空の下でいつまでも続いていた。


少しだけトーンを落とした、あたたかい回です。「本当はどんな子なの?」——踏み込みたいけれど、踏み込まない。仮面アバターを被っているからこそ素直になれる、そんな距離感を、星空の下にそっと置いてみました。タイトルの「不器用な温もり」は、二人の関係そのものです。

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