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第二幕 《NewEarth》

もう一人の主人公が登場します。重圧に疲れ果てた若き社長・リョウタが選んだ“逃げ場”とは。

そしてついに准成人として解禁を迎えたレナは、どんな姿で新しい世界に降り立つのか。二人のアバターが生まれる回です。

 東京・中央区の裏通りにある小さな雑居ビル。その三階に入居している株式会社ラクーンズシステムのオフィスでは、深夜零時を回っても、まだいくつかのモニターが青白い光を放っていた。

 多奴本(たぬもと)リョウタのデスクは、控えめに言って惨状だった。乱雑に積まれた仕様書、飲みかけで放置されたコーヒーの紙コップ、明日の資金繰りが殴り書きされた裏紙。

 PCの画面の隅では、チャットツールの通知が絶え間なく明滅している。


「あー……目が滑る」


 リョウタは二十六歳。本来は、休日に気の置けない友人と酒を飲み、笑って過ごすのが大好きな、人懐っこく呑気な青年だ。だが、今の彼にそんな余裕は微塵もなかった。

 零細とはいえ、活気あるITベンチャーを牽引する若手社長。それが彼にのしかかる重圧の正体だ。

 未読メールの山を開くと、一番上には大手取引先からの「明日までにデータベースの設計を根本から見直してほしい」という、理不尽極まりない仕様変更要求が鎮座していた。リョウタは深々とため息をつき、角を立てず、かつ絶対に譲れないラインを死守する絶妙な文面の返信をひねり出す。

 さらにチャットを開けば、社員同士の些細な業務上のトラブルが報告されている。「Aさんのコードの書き方が気に入らない」「Bさんのタスク管理が甘い」。リョウタは顔を洗うように両手でごしごしと擦り、双方の言い分を汲み取るようなフォローのメッセージを打ち込んだ。

 夕方、「お疲れ様でした!」と連れ立って飲みに行く社員たちを笑顔で見送り、自分だけがぽつんと残るオフィス。

 社員が悪いわけではない。みんなよくやってくれている。ただ、「社長」という肩書きが、本来の呑気で隙だらけの自分を分厚いコンクリートの壁の奥に押し込めてしまっていることに、リョウタは深く疲弊していた。


 そんな限界ギリギリの夜、気分転換に開いたSNSのタイムラインで、彼はひとつの広告を目にした。

 超大型コンテンツ『NewEarth』——十月一日、いよいよサービス開始。


「……癒し、ほしいなぁ」


 画面の中には、無限に広がる美しいファンタジー世界が映し出されていた。剣と魔法、モンスターとのバトル。だがリョウタの目を惹きつけたのは、生産職やアバターの自由度の高さを謳うポップな紹介映像だった。

 ストレス発散と癒し。いまの俺が一番求めているものを、この世界なら提供してくれるかもしれない。

 藁にもすがる思いで、リョウタはその夜、自室のベッド一体型のドリーム・ポッドに身を委ね、リリースを迎えたばかりの『NewEarth』に登録した。


 初期設定のアバタークリエイト画面。

 普通なら、精悍なヒーローや、クールでデキる剣士を作るだろう。だが、リョウタの手はそちらには伸びなかった。

 現実では「社長」として、誰に対しても隙を見せるわけにはいかない。弱音も吐けないし、常に頼りになる存在でなければならない。


「せめてこの世界の中くらい……誰からも肩書きで見られない、ただ愛嬌だけがある奴になりたい」


 そんな切実な思いで彼が選び取ったのは、まんまるでモフモフした、ずんぐりむっくりの「タヌ着ぐるみ」だった。短い手足に、ぽっこり出たお腹。愛嬌の塊のようなフォルムだ。

 さっそく試着モードで着込んでみる。仮想空間の鏡の前に立つと、そこには愛くるしいタヌキが映っていた。


「おっ、いいじゃん。なんか落ち着くわ、これ」


 機嫌よくポーズをとってみたリョウタだったが、ふと背中に違和感を覚えた。

 着ぐるみの背中にある長いファスナーが、半分開いているのだ。

 短い腕を背中に回し、なんとか閉めようと四苦八苦する。しかし、モフモフした分厚い腕と絶妙に短いリーチのせいで、指先がどうしてもファスナーの金具に届かない。

 右手を背中に回しても、左手を回しても、あと数センチのところで届かない。


「ええ……これ、一人じゃ着られない仕様かよ。リアルすぎだろ」


 五分ほど格闘した末、リョウタはあっさりと諦めた。


「まあ、いっか。どうせ誰かに背中をまじまじと見られるわけでもないし」


 パカッと口を開けた背中のファスナーは、そのまま放置することにした。こういうところの詰めが甘いのは、本来のリョウタらしさでもあった。


 最後に、アバター名の入力画面が表示される。


「名前ねえ……」


 本名をもじるのは味気ないが、カッコつけるのも今の気分じゃない。

 彼は自分の苗字である「多奴本」と、タヌキという言葉を脳内でこねくり回した。


「……よし、『タヌポン』でいこう」


 エンターキーを叩いて確定させる。

 タヌポン。なんのひねりもない、間の抜けた響き。


「われながらセンスないな」


 鏡の中のモフモフなタヌキを見つめながら、リョウタはひとり、ふふっと苦笑いを漏らした。久しぶりに、心から出た素の笑いだった。


 しかし、その小さな癒しは長くは続かなかった。

 翌日からまた多忙な現実に容赦なく飲み込まれ、リョウタは一週間以上も『NewEarth』にログインできずにいた。

 スキマ時間でスマートフォンのコンパニオンアプリを開き、とりあえず初心者向けのギルドにだけは所属してみたものの、まともにプレイしていないので当然フレンドはゼロだ。

「社長」の重圧から逃れるために生み出されたタヌポンは、誰とも言葉を交わすことなく、冷めたコーヒーの匂いが漂う現実の傍らで、静かに孤独なスタートを切っていた。


***


 十月七日。夜。

 待ちに待った瞬間が、ついに訪れた。

 自室のベッドと一体化したドリーム・ポッドに身を横たえながら、レナは静かな、けれど熱い高鳴りに満ちていた。今日、十八歳の誕生日を迎えた彼女は、念願の准成人としての自由を手に入れたのだ。それはすなわち、世界最大の仮想世界『NewEarth』へのアクセス権が解禁されたことを意味している。

 これまでの日々、半成人向けのドリームワールドには幾度となくダイブしてきた。だが、制限だらけの箱庭とは根本的に違う、本物の仮想世界。それがどれほど待ち遠しかったか。今夜のレナの頭の中は、その期待だけで満たされていた。

 仄暗い自室の天井を見つめ、ポッドのバイザーを下ろす。視界が暗転し、次いで滑らかな光の粒子が視神経を包み込んだ。

 意識が深く沈み込み、真っ白なチュートリアル空間に降り立つ。

 眼前にホログラムのウィンドウが展開され、レナは一瞬、小さく眉を上げた。

 表示されたのはアバターのカスタマイズ画面。半成人向けのコンテンツでは、いくつか用意された標準のプリセットから選ぶしかなかった外見を、『NewEarth』では髪の毛一本、指の形に至るまで緻密に作り込めるようになっている。


「へえ……」


 項目をスクロールしていくと、下着の形や素材を選ぶ選択肢まで用意されていた。さすが准成人解禁のタイトルだと感心する。その先にあるさらに詳細な選択肢には、しっかりと成人向けのレーティング制限を示すアイコンが輝いており、レナは薄く笑った。

 続いて表示されたのは、この世界の基本ルールの説明だった。


『NewEarthの世界に、現実の法律は適用されません』


 無機質なシステム音声の代わりに、淡々としたテキストが表示されていく。プレイヤー同士の合意なき戦闘、他者の荷物を狙う盗賊行為、あるいは悪の組織に加担すること。現実ならば犯罪となるような振る舞いも、システムが許容する範囲内であればすべて「選択肢」として用意されているという。英雄になるか、悪漢になるかはプレイヤー次第。


「……なんでもありの仮想世界か。私にツマラナイ道徳観を押し付けないのは悪くないわね」


 レナの口元に、いつもの皮肉めいた笑みが浮かぶ。


『ただし、いかに無法を尽くそうと、ユーザーの現実における肉体的な安全は絶対に保証されています』


 道徳を全否定した直後、チュートリアルは淡々と対比となる安全性を強調した。『NewEarth』内でどれほど激しい戦闘に身を投じ、斬られ、焼かれ、高所から落下しようとも、現実の身体は決して傷つかない。全NCIに標準搭載された生体保護機構「コヒーレンス・フィルタ」により、痛覚や衝撃、極端な温度、さらには強烈な光や音響に至るまで、人体に危険を及ぼす過剰な感覚はすべて安全な範囲にまで自動的に弱められて脳に届くという。

 ドリームワールド技術の黎明期(れいめいき)にも、当然この種の保護機構は設けられていた。だが、実際に膨大な人々が使い込むうちに、当初の想定では抑えきれない感覚の組み合わせや抜け穴が見つかり、遂には痛ましいショック事故が起きてしまった。それでも諦めることなく技術を練り上げた末に、神経に流れるすべての信号を物理的な回路で捕捉し、強制的に頭打ちにする仕組みを確立したという経緯がある。

 現在ではこの生体保護機構の基準が法律で厳しく定められており、すべての人格OSにその要件を満たすことが義務づけられている。


「神経に流れる信号を、片端から物理的に頭打ちにする設計か。なるほど、すごい力業ね」


 レナはその堅牢なフェイルセーフの仕組みに、内心で小さく感心した。


 ルールの確認が終わると、次は「人」についての解説が始まった。この広大な世界を彩る住人たちの定義だ。


『本世界の住人は、大きく二種類に分けられます。一つはNPC(Non-Player Character)』


 説明によれば、NPCはゲームシステムによって制御される自動キャラクターだ。厳格なAI規制下にあるため、決まった台詞と限定的な反応しか返せない。村人や店主、名もなき衛兵など、背景としての役割を担う存在である。


「あー、やっぱり。NPCは相変わらず、棒読みの宿屋の主人ってわけね」


 レナは内心で苦笑した。かつての野放図なAIがもたらした混乱を経て、今や仮想世界の自動プログラムには厳しい枷がはめられている。


『そしてもう一つが、RPC(Role-Player Character)です』


 その項目を見た瞬間、レナは少し前のめりになった。

 RPC——それは、運営会社に雇用された本物の人間が操作する、役割が固定されたキャラクター。クエストの依頼人、街の重要人物、あるいはストーリーの進行に深く関わる住人たち。彼らは人間であるがゆえに自然な会話と柔軟な対応が可能だが、あくまで与えられた役割から逸脱することは許されない。


「……ふぅん、RPCね。AIが規制された世界での、人間による穴埋め。よく考えられてる」


 薄っぺらなNPCだけでは、世界はすぐに底を見せてしまう。人間が役を演じることでその隙間を埋め、世界に生きた手触りと厚みを持たせる。AIの暴走という歴史を経たこの時代らしい、苦肉の策であり、洗練された解決策でもあった。


 チュートリアルが終わり、いよいよアバターのクリエイトに移行する。

 レナはここで、たっぷりと時間をかけた。妥協する気は一切なかった。

 投影されたウィンドウの前に立ち、パラメータを一つずつ操作していく。

 髪は薄紫のロングヘア。それを高い位置でポニーテールに結い上げる。ウィンドウの中でアバターが動くたび、毛束が揺れて活発で自由な印象を与えた。現実の自分の黒髪セミロングとはまるで違う。色も形も変えることで、「別の誰か」になる感覚がより鮮明になった。

 瞳の色は、強い意志を感じさせる深い赤に設定する。ルビーのような鮮やかな色だ。

 肌の色も、色白な自分とは正反対の、健康的な小麦色を選んだ。太陽の光をたっぷり浴びたような、生命力に満ちた色合い。

 身長は百六十センチ。百七十五センチある現実の自分よりも、あえて十五センチ低く設定した。

 自分とは違う色。自分とは違う髪型。自分とは違う肌。自分とは違う背丈。

 それは単なる変身願望を超えた、無意識の祈りでもあった。自分にはない健やかさと活発さを備えた、「もう一人の自分」を生み出したいというささやかな願い。自分自身のコピーではなく、新たな世界を駆け抜けるための新しい器だ。

 服装は、黒を基調とした魔法使いのようなローブを選ぶ。顔を隠す帽子はかぶらない。初期設定の職業は、迷わずヒーラーにした。

 そして、レナの指がピタリと止まった。

 バストサイズの調整スライダー。

 すらりとした長身で痩せ型のレナは、胸のサイズもささやか——はっきり言えばAカップだった。日頃は服のシルエットが綺麗に出るからと気にしていないふりをしているが、本当はもう少しだけ豊かであってほしいという、年頃の少女らしいささやかな願望がないわけではない。

 だからといって、ただ無邪気にスライダーを右へ振り切るような真似は、彼女の論理的な思考が許さなかった。過度なグラマー化は、全体のバランスをかえって崩す。すらりとしたスレンダーな体型を活かしつつ、不自然にならない理想のプロポーションを頭の中で弾き出す。

 少しだけ迷ってから、スライダーを慎重に動かす。

 アバターの胸を、Cカップに設定する。


「バスト、ウェスト、ヒップの比率から導き出されるゴールデンカノン……うん、この骨格ならこのくらいが黄金律。決して私の個人的な願望とかじゃなくて、あくまで幾何学的な必然なんだから」


 誰に聞かれているわけでもないのに、もっともらしい言い訳を早口で呟いた。鏡像の中で少しだけふっくらとした胸元を確認し、ふふっ、と満足げに頷く。

 最後に、名前の入力画面が現れた。

 レナはしばらく考え込み、やがて仮想キーボードを叩いた。


『ルビス』


 フランス語でルビーを意味する言葉。そして、とーさんが子供の頃に夢中になって遊んでいたという、古い伝説的なゲームに登場する精霊神の名前でもある。

 深紅の瞳を持ち、小麦色の肌をした薄紫の髪の少女。

 ルビスという響きは、その姿にしっくりと馴染んでいた。

 完了ボタンを押す。


『Welcome to NewEarth.』


 視界が光に包まれ、次の瞬間、世界が反転した。


 足の裏に、柔らかな草の感触が伝わってきた。


(あ……)


 ゆっくりと目を開ける。

 視界いっぱいに広がったのは、どこまでも高く澄み渡る蒼穹(そうきゅう)

 頬を撫でる風が、ほのかに青草の匂いを運んでくる。遠くから聞こえてくる鳥のさえずりと、街の喧騒。

 息を吸い込むと、胸いっぱいに清浄な空気が満ちていくのがわかった。

 これが『NewEarth』。

 あたしの、新しい世界。

 最初の一歩を踏み出した瞬間、息を呑んだ。

 これまでのドリームワールドとは段違いの、圧倒的な没入感。現実の物理法則から解き放たれたかのような、信じられないほどの身体の軽さだった。百七十五センチから百六十センチへと低くなった視界が、すべてを新鮮な驚きに塗り替えている。手を上げれば、何の遅延もなく思い通りに上がる。走り出せば、指先の一本一本にまで風を切る感触がある。

 ルビスは何もない草原で、意味もなくくるりと回ってみた。

 黒いローブの裾が、風をはらんでふわりと舞う。

 誰も見ていない。ただ風を感じて、大地の上に立ち、自分の意志で回る。

 ただそれだけのことが、どうしようもなく嬉しかった。


「……すごい」


 思わず漏れた小さな声は、風に溶けていった。

 普段なら「ツマラナイ」と斜に構えるはずの皮肉屋の面影は、そこにはない。ただ純粋な、年相応の無防備な感嘆だけがあった。

 赤い瞳が、輝くような光を帯びて広大な世界を見渡す。

 ここから、あたしの人生で最高の瞬間が始まる。

 誰にも縛られない、本当の青春が、いま幕を開けたのだ。


タヌポンとルビス——二つのアバターが誕生しました。なりたい自分、なりたかった自分。アバター作りには、その人の願いがにじみます。背中のファスナーが閉まらないタヌポンの情けなさと、現実とはまるで違う“もう一人の自分”という器を、丹念に形づくっていくルビスのこだわり。

——あなたなら、もう一つの世界で、どんな自分になりますか?


次の話で、ついに二人が出会います。物語がいちばん大きく動き出すところです。続けてどうぞ。


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