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第一幕 ツマラナイ日常

神戸の高台の家に暮らす、御庄レナ。頭が良すぎるがゆえに、現実のすべてが「ツマラナイ」。

そんな彼女が指折り数えて待っているのは、もうすぐ解禁される“本物の”仮想世界——。

 神戸(こうべ)の閑静な高台に建つ御庄家。

 邸宅は、華美な装飾こそないが、上質で落ち着いた佇まいを見せている。手入れの行き届いた庭の木々はわずかに秋の色を帯び、広々としたリビングの窓からは、街並みとその向こうに広がる港までが見渡せた。

 二階の一角にあるレナの自室。

 机の上には読みかけの分厚い技術書が三冊。その中央に鎮座するノートPCの画面では、レナが走らせた自作のプログラムが、黒いコンソールに文字列を滝のごとく吐き出している。


「……うん、ここのループ処理はこれで最適化できたわね」


 独り言をつぶやき、キーボードを叩く。この机の前こそが、レナにとって世界で一番居心地のいい場所だった。


(学校行くより家でコード書いてた方が建設的でしょ)


 それが、もうすぐ十八歳になるレナの持論だった。

 同じ年頃のクラスメイトたちと、無意味な同調圧力の中で騒がしく過ごす時間など、彼女からすれば非効率の極みだ。自分の部屋で技術書を読み解き、PCに向かってシステムのアーキテクチャを解析している時間の方が、ずっと有意義に決まっている。

 成績は常に上位。特に数学と情報処理に関しては、学年首位の座を一度も譲ったことがない。だが、レナにとってはそれすら「教科書の範囲内なら当然」のことに過ぎなかった。彼女の本当の興味は、そんな枠組みの外にある。

 独学でのプログラミング。仮想世界のシステム設計の解析。与えられたものをただ消費するのではなく、その裏側にある構造そのものを覗き込むこと。


 そのとき、手元の端末がリズミカルに震えた。

 画面に浮かんだのは、幼馴染のマナミからのメッセージだ。


『レナ、聞いてよー。うちのクラスの委員会企画、マジで無駄だらけで頭おかしくなりそうなんだけど』

『どうせまた、手作業でデータを集計するとか言い出したんでしょ』

『正解! もう日が暮れちゃうよ。効率化のコード組んで、送ってよー』


 レナはふっと小さく笑い、流れるような指さばきでコードを作成し、返信を打つ。


『だから最初からスクリプト組めって言ったじゃない。ちょっと待って、今投げるから。ローカルで走らせて』

『神! さすが御庄先生。レナがいたら秒で論破してあのアホな企画ごと潰せるのに(笑)』

『別にそのために生きてるわけじゃないけど。送ったわよ』

『ありがとー! 助かった!』


 マナミは、レナが「昔からそういう子」だとよく理解している。

 群れることを好まず、論理と効率を重んじる。だからこそ、こうして気負うことなく日常の愚痴や他愛のない話題をメッセージで投げかけてくるのだ。レナにとって、マナミとのこの軽妙なやり取りは決して嫌いなものではなかった。


 メッセージアプリを閉じると、ふたたび部屋に静寂が戻る。

 レナは背もたれに寄りかかり、小さく息を吐いた。


「……ツマラナイ」


 レナの口癖だった。

 テレビのバラエティも、流行りのドラマも、レナにとっては驚くほどツマラナイ。特に、半成人向けに厳しく規制されたドリームワールドのコンテンツには辟易していた。


『てかさ、最近のVRコンテンツってホントつまんなくない?』


 先日のマナミとのやり取りを思い出す。


『規制ガチガチだもんねー』

『安全な範囲の冒険なんて、誰も傷つかないし、裏切らないし、悪事も働けない。そんなのは冒険じゃなくてただの観光ツアーでしょ。予定調和しか起きない世界なんて、ツマラナイだけよ』

『レナってホントひねくれてるよね。でも、わからなくはないかも』


 御庄家は裕福だ。レナが望めば、新作の機材も、海外の高価な専門書も、最新のVRデバイスも、大抵のものはすぐに手に入る。

 だが、だからこそ「手に入らないもの」だけが、今のレナにはひときわ輝いて見えた。


 コンコン、と控えめなノックの音が響いた。


「お嬢様。お邪魔いたします」


 静かにドアを開けて顔を出したのは、家政婦のミユキだった。レナが小学校に上がる頃からこの家で働いている彼女は、物静かで品があり、もはや第二の家族と言っていい存在だ。


「本日の夕食に、何かご希望はございますか」

「ミユキさんのおまかせでいいわ」

「かしこまりました。お口に合うよう、秋の食材でご用意いたしますね」


 短いやり取りの間に、ふわりと温かな空気が漂う。彼女の作る料理は、高級レストラン顔負けの超一流だ。過剰に干渉することもなく、常に品の良い距離感で見守ってくれる。そんなミユキの佇まいが、レナには心地よかった。


 ミユキが下がった後、今度はスマートフォンが着信を告げた。

 画面には「とーさん」の文字。多忙な実業家である父・逢坂宗一は、週に二、三度しか顔を合わせない。今は海外へ出張中のはずだが、こうしてマメに連絡を寄越してくる。


「あー、レナか。変わりないか」


 電話に出るなり、不器用な声が響いた。


「昨日も同じこと聞いたでしょ、とーさん。変わらないわよ」

「そうか。……元気か」

「元気。それも昨日言ったわ」

「何か欲しいものはあるか。出張先で珍しいデバイスを見つけたんだが」

「新しい機材なら先週届いたばかりでしょ。今はいいわ」

「そうか。よし、じゃあまたかける」


 通話時間、わずか三十秒。


「コミュニケーションの引き出しが少なすぎるでしょ……」


 レナは呆れたように端末を見つめてため息をついた。だが、電話を切った後の彼女の口元は、自分でも気づかないうちにわずかに緩んでいる。

 口下手で不器用だが、父が自分を溺愛していることは嫌というほど伝わってくる。そしてレナもまた、そんな父を無下に扱う気はなかった。


 午後。

 レナは立ち上がり、窓辺へと歩み寄った。

 高台にあるこの部屋からは、神戸の街並みと、遠くで陽光を反射してきらめく海が見える。空には穏やかな秋の雲がゆっくりと流れていた。

 絵葉書のように美しい景色。だが、彼女にとってその風景は、いつも「ガラス越し」だった。

 インドア派のレナにとって、外界の景色はあくまで眺めるためのものだ。そこに飛び込んでいきたいという関心は薄い。部屋の中で完結する知的な遊戯の方が、よほど彼女の興味を惹きつける。


 机に戻り、ニュース端末を流し見する。

 次々と更新されるタイムラインの情報を、優秀すぎる頭脳が一瞬で処理していく。そしてレナは、心の中で短く辛辣な評価を下す。


(この記事、論拠が一つもない。単なる個人の感想を、さも事実みたいに書かないでほしいわね)

(この話題のアプリ、やってることは十年も前の焼き直しじゃない。UIでごまかしてるだけ)

(誰かの炎上なんて、どうでもいい。情報としての価値はゼロ)


 頭の回転が速すぎるがゆえに、世間に溢れるコンテンツについては「処理するまでもなく結論が出てしまう」。

 だから、ツマラナイのだ。

 この現実の日常において、彼女はその明晰な頭脳を持て余していた。それが御庄レナという少女の抱える、贅沢で退屈な憂鬱だった。

 彼女が時間を忘れて夢中になれるのは、難解な技術書を読み解くときと、ロジックを考えてコードを組んでいるとき。そして——仮想世界の構造を、ただ遊ぶのではなく「裏側から」覗き込むときだけ。


 だが、そんな退屈な日々も、もうすぐ終わる。


 十月一日。

 今日、世界中でひとつの巨大なプロジェクトが産声を上げた。

 『NewEarth』。

 地球と同スケールで構築された、かつてないほど広大な仮想世界。

 トレーラー映像を初めて見たとき、レナは珍しく身を乗り出し、食い入るように画面を見つめた。


「これは……本物かもしれない」


 無意識にこぼれたつぶやき。ただの観光ツアーではない、真の意味での「もう一つの世界」。英雄として名を馳せることも、狡猾な盗賊として生きることもできる、圧倒的な自由度。

 そこには、彼女が求めてやまない「未知」が広がっているはずだ。


 しかし、その扉はまだ、レナの前に開かれていない。

 『NewEarth』は、准成人レーティング——十八歳以上二十歳未満——で解放される。

 現在十七歳のレナには、まだアクセス権限がないのだ。

 部屋の壁に掛けられたカレンダーに視線を移す。

 レナの誕生日は、十月七日。


「あと六日」


 カレンダーの数字を指先でそっとなぞりながら、彼女は静かに笑みを浮かべた。

 待ち遠しくて仕方がない。胸の奥で、年相応の高揚感が跳ね回っている。

 退屈な秋の午後。

 だが、新しい世界の幕開けを待つその前夜は、こんなにも眩しく輝いていた。


皮肉屋で、論理的で、ちょっぴり生意気。でも、その退屈の裏には、まだ見ぬ世界への抑えきれない期待が渦巻いています。親友マナミとのテンポのいいやり取りや、不器用な父との距離感も、彼女の素顔がのぞく場面です。


次の話で、いよいよあの世界の扉が開きます。続けてどうぞ。


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