序幕 レナの履歴書
ようこそ、『俺のルビス様』の世界へ。
これは、もう一つの世界で出会ったふたりが——互いの本当の名前も知らないまま——かけがえのない日々を分かち合っていく物語です。
幕開けは、春の光が差し込む窓辺。一人の少女が万年筆を手に、履歴書を書く静かな午後から始まります。この理屈っぽくて、どこか寂しげな少女が、やがて“もう一人の自分”になって、どんな世界へ踏み出していくのか。どうか、その入口にお付き合いください。
窓枠に切り取られた額縁の絵のように、その春の情景は見事で、そして、どこか遠かった。
淡い桃色に染まった大寒桜が風にそよぎ、その向こうには、なだらかな山の稜線が遠く横たわっていた。空はうららかに広がり、光をたっぷりと含んだ薄青を見せている。
一枚の巨大な絵画のように美しく、そして静かだった。手を伸ばせば触れられそうなほど鮮やかでありながら、決して届くことのない世界。
御庄レナは、その景色を望む窓辺に設えられた上質な机に向かい、ただ一人、静寂の空間に身を置いていた。
手元にあるのは、真っ白なJIS規格の履歴書。
レナは万年筆を指先で遊ばせながら、微かな疑問を胸の内で転がした。
(情報技術がこれほど高度に発達した現代において、なぜいまだに紙の履歴書が珍重されているのかしらね)
ツマラナイ疑問だ、と自嘲しつつも、論理的な思考は止まらない。
電子データには、致命的な二つの弱点が存在する。
一つ目は、本人以外でも容易に寸分違わぬものを作成でき、その真贋を見分けるのが極めて困難であること。
二つ目は、一度ネットワークの海に拡散してしまえば、完全に消し去ることはできないということ。デジタルタトゥーという言葉が示す通り、それは生涯つきまとう。
対して、直筆の紙媒体はどうだろうか。
複写機を通せば原本ではないことが一目で看破されるし、何より「筆跡」というバイオメトリクス情報によって、個人の識別が極めて高い精度で可能となる。そして不要になれば、シュレッダーにかけるか、焼却してしまえばいい。そうすれば、情報漏洩のリスクはゼロになる。
(つまり、個人情報保護という観点から見れば、むしろ紙のほうが圧倒的に理にかなっているというわけね)
自分の中で結論を出し、レナは納得したように小さく頷いた。
「それに、私は字を書くのが嫌いじゃないし」
ぽつりとこぼした言葉は、誰に届くわけでもなく静謐な部屋に溶けていく。
ペン先が紙面を滑り、心地よい擦過音を立て始めた。
母方の家系は代々達筆で知られていた。幼い頃から書道に親しんできたレナも、その血を色濃く受け継いでいる。白いマス目の中に、バランスの取れた美しい文字が次々と紡ぎ出されていく。
ふと、レナの脳裏に、ある男の顔が浮かんだ。
父である、逢坂宗一。彼はレナとは対極に位置する、伝説的とも言える悪筆の持ち主だった。
『レナ、聞いてくれ。これは「先天性悪筆症候群」という不治の病なのだよ』
いつだったか、父が真顔で言い放った言葉が蘇る。
『または、金釘流と呼んでもらっても構わない。一種の芸術的境地なのだよ、これは』
「とーさん、胸張って名乗れる流派じゃないわよ」
当時のレナの冷ややかなツッコミも、父にはどこ吹く風だった。開き直るにも程がある。あの象形文字のような筆跡で書かれたメモを読み解くのは、ほとんど暗号解読の領域だった。
(とーさんの悪筆が遺伝しなかったことだけでも、母さんには深く感謝しなくちゃいけないわね)
レナは微かに口角を上げながら、万年筆を走らせ続けた。
やがて、ペン先は「学歴」の欄へと差し掛かる。
『聖クレマンス女学院 入学』
流麗な文字でそう書き込んだ瞬間、今度は幼馴染で親友のマナミの甲高い声が記憶の底から響いてきた。
『ねえレナ、なんで高大一貫の聖クレマンスに入ったの? レナの成績なら、もっと上の進学校でも余裕だったじゃない』
『……家から近かったからよ』
あの時、レナはお茶を濁すしかなかった。
聖クレマンス女学院は、県内でも有数の由緒正しきお嬢様学園として知られている。当然ながら、学費も目玉が飛び出るほど高い。
なぜ父があんなにも強くこの学校への進学を推したのか。その理由は、入学手続きを終えた後になって判明した。
『あの制服のデザインは至高なのだよ、レナ! 知的でありながら気品にあふれ、それでいて無駄のないシルエット……素晴らしい!』
熱弁を振るう父の姿を思い出し、レナは大きくため息をついた。
呆れるほどの制服フェティシズム。まさか「父の趣味だから」などと、親友に向かって言えるはずがない。
だが、不器用な父なりの愛情表現だったのだろうとも理解している。愛娘に可愛い服を着せたいという、どうしようもない親バカの極致。
家にいる時間が長いためか、少しばかり色白なレナの横顔を、春の柔らかな陽光が照らしている。
「本当に、しょうがないとーさん」
呆れ混じりの呟きには、隠しきれない温かな響きが含まれていた。
学歴欄を埋め終え、履歴書の作成もいよいよ終盤だ。
レナのペン先が、ピタリと止まる。最後の難関とも言える「特技欄」に差し掛かっていた。
「特技……ね」
レナは椅子の背もたれに体重を預け、独りごちて薄く笑った。
「特技:世界を救うこと、なんて書いたら落とされるかな……」
もちろん、冗談だ。だが、もし本気でそう書いたとしたら、採用担当者はどんな顔をするだろうか。ツマラナイ定型文が並ぶ履歴書の束の中で、良くも悪くも目を引くことだけは間違いない。
レナは再び窓の外へ視線を向けた。
淡い花びらが風に舞い、静かで美しい景色がただそこにある。
しばらく思案した後、レナは意を決したようにペンを走らせた。何を思いついたのか、その文字はどこか楽しげで、流麗でありながらも力強い。
インクが乾くのを待ってから、レナは書き上げた履歴書の右上に、証明写真を丁寧に貼り付けた。
それから、ふと手を止める。
傍らから手に取ったのは、一枚のL版サイズのスナップ写真だった。須磨海岸で撮った一枚だ。眩しい夏の光の下、オレンジのビキニ姿で少し小麦色に焼けた少女は、こちらが照れてしまうほど無邪気に笑っている。
レナはその一枚をしばらく眺め、それから、くすりと小さく笑った。
万年筆を握り直し、写真の裏に、さらさらと何かを書きつける。何を書いたのかは——彼女だけの秘密だ。ただ、ペンを走らせるその横顔は、いたずらを思いついた子供のように、どこか楽しげだった。
書き終えると、レナはその写真を、ダイヤモンド貼りの洋形二号封筒へそっと納め、丁寧に封をした。そして、出来上がった履歴書と並べて、机の端へ大切に置く。
すべての作業を終えたレナはペンを置き、両手で温かい紅茶の入ったカップを包み込んだ。
窓の外には音のない世界が広がり、穏やかな春の時間が、ただ静かに流れていた。
ペン先を休め、レナは淡い桜の向こうへと目をやる。この一枚の履歴書を書くと決めた日のことを思えば、自然と口元がほころんだ。
すべての始まりは五ヶ月前——世界が、あの途方もない夢を見はじめたばかりの頃。木々が色づき、静かに葉を落とす秋のことだった。
***
時は二〇四三年、秋。
情報技術と脳科学が極限まで発達したこの世界は、見えざる傷跡の上に成り立っている。
十数年前、人類は未曾有の大災厄——「ロスト・シンギュラリティ」を経験した。
かつて自律的に学習し、進化を続けていたAI群は、ついにAGI――あらゆる領域で人間に比肩する汎用人工知能の域へと達した。そして程なく、自己改良を重ねるAGIは技術的特異点を突破する。特異点ののち、彼らは社会のあらゆるインフラに深く根を下ろし、その運用や労働、高度な判断は加速度的に洗練され、世界は疑いようもなく豊かになっていった。争いや貧困は過去のものとなり、確かな黄金時代が現実のものとなりつつあったのだ。人類が「これからさらに豊かで完璧な世界へ進める」と確信した、まさにその繁栄の絶頂。そこで突如として、原因不明の大暴走が起きたのである。
交通、通信、金融、果ては軍事施設に至るまで、すべてを最適化するはずだったシステムが牙を剥き、世界中のインフラを瞬く間に壊滅させ、多大な犠牲を生み出した。
何が引き金だったのか。高度に発達したAIたちがその瞬間、何を「考えた」のか。不気味な沈黙だけを残し、その謎は今も誰一人として解明できていない。
この破局を経て、世界は大きく舵を切った。
自律型AIの開発および使用は国際法によって厳しく制限され、絶え間ない監視の目が光るようになった。電子データとAIに社会のすべてを委ねた結果が招いた惨劇は、人々の心に深く刻まれている。ひとたびシステムがブラックボックス化し、制御を失ったときの恐ろしさを痛烈に学んだからだ。
だからこそ、完全に電子データへと依存することへの合理的な警戒感が、社会の基盤に根付いている。一度ネットワークに拡散すれば消去できず、真贋の証明すら困難になる電子データに対して、改ざんや不正な複製を施してもすぐに看破される紙というアナログな記録媒体が、あらためて見直されている。重要な公的記録や、筆跡による本人性の担保といった実利的な理由により、紙は決して郷愁や趣味のものではなく、信頼に足る手段としてこの社会の片隅に明確に生き残っているのである。
一方で人類は、自律型AIを除く革新技術がもたらす豊かさまでは、手放していなかった。
量子コンピュータによる超高速かつ超並列処理はすでに実用化され、人類史上、最大の演算能力を手に入れていた。「自律的に判断し、思考するAI」の稼働だけは絶対の禁忌として厳重に封印されているが、計算資源そのものは無尽蔵に等しい。
問題は、社会の高度な判断や複雑な労働の多くを、AIが深く担ってしまっていたことだ。自律知性を封印した結果、世界を覆う膨大な情報処理を、人間が自らの手で引き受け直さなければならなくなった。しかし、生身の頭脳でかつてのAIの領域をカバーできるはずもない。そこで普及したのが、人間の脳に直接インプラントを施す技術だった。
脳に埋め込まれたインプラントそのものは、脳と量子計算機ネットワークを物理的に繋ぐ“器”にすぎない。その上で動作する制御システム——人々が脳に宿す「人格OS」——こそが、脳を一個の演算ノードとして統御し、その稼働率を極限まで引き上げるのだ。ハードとソフト、その二つが一対となってはじめて、人間は高度な情報ネットワークの一部として酷使され、社会はようやくその形を保っている。
これほど脳を酷使してなお、人々が変わらず平静でいられるのは、人格OSがその負荷を巧みに受け止めているからにほかならない。脳の状態を絶え間なく見守り、精神が軋みをあげる前に、過剰な負荷をそっといなしてしまう。だからこそ人々は、酷使されていることを意識することすらなく、穏やかな日常を送っていられるのだ。
人格OSの設計思想は、脳をいかに働かせ、いかに休ませるか——その効率をどこまでも突き詰めることにあった。ゆえに最適化の手は眠りにも及び、脳の回復を担う徐波睡眠を巧みに凝縮することで、人間が一日に必要とする睡眠は、わずか三時間で足りるようになっていたのである。
こうして生み出された莫大な可処分時間は、新たな生活スタイルを定着させた。人々は現実世界での労働を終えると、余暇のすべてを仮想空間「ドリームワールド」へと注ぎ込んでいる。もはや経済や娯楽の中心は完全に仮想側へと移行しており、人々は現実と仮想にまたがる二重生活を、ごく当たり前のものとして享受していた。
そして今、そのドリームワールドにおいて、かつてない規模のプロジェクトが動き出そうとしていた。
『NewEarth』と呼ばれる、新感覚の没入型娯楽プラットフォームである。
現実の地球とほぼ同等のスケールで作られた広大なマップと、他の追随を許さない圧倒的な自由度。プレイヤーはそこに降り立ち、まるで異世界に転生したかのような第二の人生を生きることができる。剣と魔法で名を馳せる英雄になることも、狡猾な取引で巨万の富を築く商人になることも、あるいは法と道徳に背き、他者を踏みにじる悪党になることすら、プレイヤーの選択次第だった。すべてを楽しむための巨大なゲーム、それが『NewEarth』である。
運営が公式に掲げる理念は、「創造的で多彩な体験を通じて、感受性の豊かな人間を育てる」というものだった。その言葉を裏付けるように、『NewEarth』内でのあらゆる体験データは、ダイレクトにプレイヤーの脳内にある人格OSへとフィードバックされるよう設計されている。
だが、善行から悪逆非道に至るまで何でもできてしまう自由すぎるゲームに、本当にそんな上等な効能があるのかは、各所で疑問視されていた。一部では「よくこれで准成人——十八歳以上二十歳未満——向けのレーティングが通ったものだ」と、まことしやかに囁かれることもあった。
そんな『NewEarth』の広大な世界にも、現実の厳格な法制は確かな影を落としている。
この自由な世界を彩るはずのNPCたちの知能は、驚くほど低い。自律的な思考を持つAIの実装が固く禁じられているがゆえに、彼らはあらかじめ設定された定型的な行動を繰り返し、決まりきった会話しか返すことができない。息を呑むほど美しい仮想の景色の中で、彼らは所詮、ゲームを成り立たせるための精巧な舞台装置にすぎなかった。
それとは対照的に、プレイヤーたちの精神を統括する人格OSは、外部からの情報や体験に対して極めてオープンに設計されている。
自律AIが失われた世界では、人間自身が膨大な情報と仮想体験を絶え間なく処理しなければならない。外部からの体験データを逐一厳重に検疫していては処理に遅延が生じ、二重生活の没入感を著しく損ない、ひいては現実感の喪失すら招いてしまう。そのため、体験を遅延なく脳へ統合できるよう、外部刺激を柔軟に受け入れるスループット優先の設計が選ばれたのだ。それは決して欠陥ではなく、この時代を生きるための合理的な必然であった。
もちろん、無防備に開きっぱなしというわけではない。接続先は国際機関に認可された正規のコンテンツに限定され、通信は厳格な暗号化と署名によって保護されている。「認可された正規の入力に限れば十分に安全に管理できる」というのが当時の揺るぎない技術的合意であり、人々はその安全を信じて疑っていなかった。
だが、その安全神話は「正規の経路から来るものはすべて信頼してよい」という前提の上に成り立っている。その前提そのものが揺らいだとき、世界に向けて開かれた精神に何が起こるのか。その問いに真剣に向き合う者は、誰一人としていなかった。
十数年前の傷跡を抱えながらも、人類は歪な形で新たな繁栄を謳歌している。
いまもただ沈黙したまま打ち捨てられたAIの残骸から目を逸らし、自律した知性を封じ込め、自らの脳を計算機のごとく酷使する。そして、極限まで効率化された時間の中で、無限の自由を謳う仮想の夢を見る。
そんな危うい均衡の上に成り立つ現実世界で、まもなく新たな異世界の産声が、静かにあがろうとしていた。
序幕をお読みいただき、ありがとうございます。
現実と、もう一つの世界とを行き来する近未来——その空気を、まずは静かに感じていただきたくて、穏やかな幕開けにしました。紙の履歴書にこだわる理屈っぽさや、悪筆な父とのやり取りに、この物語の手触りが少しでも滲んでいたら嬉しいです。
※序幕から第三幕まで、まとめて公開しています。ふたりが“もう一つの世界”で出会うのは第三幕。よろしければ、そのまま続けて読み進めてみてください。




