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「ステージ4だって?」とそうして、時間は少し前後して、和登先生はそう訊き返した。「場所は?」


「膵臓だね」柊木さんは答えた。手もとのスマホをポチポチしつつ、「転移も進行も早く見つかりにくい部位だ。症状に気付いて検査を受けた時にはすでに手術も出来ない状態になっていたらしい」


「担当医の見解は?」


「余命一年から一年半」


「大石さんはそれを?」


「もちろん知らないし、鹿山氏本人もそれを知らせるつもりはないだろう」


 いま彼らは、和登先生の運転で大石家へと急いでいた。もちろん車は、廃車になる前の和登先生の愛車、スバルの二代目フォレスター……と言いたいところだが、


「しかし和登さん、この代車のシートどうにかならんのか? 座面も背もたれもかまぼこみたいに平坦で、そのくせ位置も妙に高い。膝は落ち着かんし、腰に悪いよ、これは」


「カーブのたびにツルツル滑るしな。ブレーキフィールも遊びが多いし、アクセル踏んでも加速はもっそり、ふにゃふにゃしていて気持ちが悪い」


「なんでこんな車にしたんだ?」


「他に選択肢がなかったんだよ――って、ああ! ピラーが寝過ぎて前が見えん!」


 と、どこの車とは言いませんし、これでも初代や二代目に比べればそこそこ改善したんですよ、と一応のフォローを入れてあげたくはなる世界初の量産ハイブリッド車、その三代目に彼らは乗っていた。


「まったく。なにが『未来に間に合いました』だ――修理に出した車はいつ戻ってくるんだい?」


「あと二週間ってとこかな――今後はあんまり無理させるなよ、長く乗っていたいんだ」


「ああ、うん、わかった、大事に乗ろう」


     *


「なんだい? これは」とそうして、ふたたび時間は前後して、大石氏は訊いた。「これをふたりに?」


 それは、滑らかなケント紙で出来た白い角形の封筒だった。どこのオフィスにもあるような、契約書や請求書、改まったビジネス文書なんかを入れる、あの、内側に不透明加工を施しているような白い封筒だった。ただし、先ほど大石氏も言ったように、その宛て名の部分には、取引先の企業や銀行、役所や税務署などの名前はなく、鹿山真守の二人の娘、新菜と陽菜の名前が書かれていた。決して上手いとは言えない手書きの文字で。真守が答えた。


「まずはお義兄さんとお義姉さんに。時期が来たら、おふたりから彼女たちに」


「時期?」大石氏は訊き返した。封筒の口は糊付けがされ中は見えない。天井ライトに透かし見ようとしても、「USBメモリ……と手紙? それになにか紐のようなものが……」とボヤとした影が見えるだけであった。であったが、


「紐?」とそれでも突然、隣にすわる大石夫人がその身をふるわせた。「紐ですって?」


 彼女は、声にもならない声で小さな叫びをあげると、ソファから立ち上がり、夫の手から鹿山真守の封筒を取り上げた。


「紐ですって!」とふたたび、声にならない叫びをあげた。「なんで! なんで! なんで!」


 実際のところ彼女は、感情、本能のレベルでは、彼の姪ふたり、新菜と陽菜が、目の前に座るこの男、実の父親であるこの男のことを求め、必死で許そうとしていることを知っていた。がしかし、それは、彼女の中のある偏見、あるいは想い込み、彼女の妹、光里がずっと不幸だったのではないか、あの雪の日、この家の扉を叩くずっと以前から彼女は、この男に地獄に突き落とされていたのではないかという漠然とした不安、姉としてそのことに気付いてやれなかったのではないかという、決して取り戻すことの出来ない時間と世界線、そこへの後悔と罪悪感に、決して見てはいけないもの、決してあってはならないもののように彼女には想われていた。妹を殺したのは自分ではないのか? こんど姪たちを見殺しにするのは自分なのではないか? そう。彼女はつぶやいた――まだらの、


「まだらの?」とちいさく。ただし今度ははっきりと、「まだらの紐?」と声に出して。


     *


「ちょっとひな、押さないでよ」と鹿山新菜は言った。もちろん声は押し殺して。


「でもでも、にな」鹿山陽菜は訊いた。彼女にしては珍しく、こちらもきちんと声を押し殺して、「お父さん、なんだって?」


 彼女たちはパジャマ姿で寝室から脱け出し、一階に下りる階段の途中に座っていた。もちろん電気は付けずに。夕方の父親と伯父の会話から、今夜ふたたび父親がこの家に来ることを理解していたからである。新菜が答えた。


「まだ分かんないよ」とリビングの方に耳をそばだてたまま、「おばさんがおこってるのは分かるけど……」


「あたしたちと暮らしたいとかかなあ?」と続けて陽菜は訊いたが、これは彼女得意の爛漫さというよりは、決して来ない未来を願う殉教者の望みのようなものであった。「いっしょにさ、このおうちでさ」と誰にも見せない、気づかれないなみだを、ひとりこぼしそうになりな――って、あ、いや、ちがった、そうじゃなかった。なぜなら――、


「なあ、おい、陽介、さすがにピッキングはまずくないか?」と、この家の玄関先から、知らない男性、と言うかおじさんのひそひそ声が聞こえて来たからであり、また、


「しかし和登さん、大石夫人は電話に出ないし、時間的に鹿山氏との話し合いは始まっているはずだ」とまた別のおじさんのひそひそ声も聞こえて来たからである。しかも、「昼間の夫人の様子だと彼の話をまともに聞けない可能性の方が高い。もしもそのまま交渉決裂なんてことになったら、一番の被害者はあの双子ってことになるぞ」


 とどうやらこのおじさん達は、彼女の父親、それに伯母さん、彼女の大好きなみんなを助けに来てくれたようなのである。そう。彼女は走り出していた。


「な? なに? ひな?」という姉の言葉も無視して、「だめよ、かってにドアをあけちゃ」


 カチャッ。


 とちょっとだけ勇気を出して。そこには晩い春の夜の月と、花の空気が満ちていた。彼女は訊いた。そこに立つ背の高いおじさんに。


「おじさん、だれ?」と。「お父さんをたすけにきてくれたの?」と。


 すると、背の高いおじさんは、すぐに彼女を誰だか気付くと、


「鹿山……陽菜ちゃんだね?」と不器用な笑顔を彼女に見せた。「僕は柊木陽介」と彼女の目線の高さまでしゃがみながら、「探偵だよ」とそうして、「安心して。お父さんも伯母さんも、そうして死んだお母さんも、ずっとずっと、君たちを愛してくれていたんだから」


     *


 そう。それは、和紙で出来た糸を綿や麻などの素材と混ぜて作られた和紙混紡、厚手の特殊な紙だった。少しざらつき、しっとりとしたぬめりと硬さがあり、恐怖に駆られた大石夫人が、それを破り引き裂こうとしても、中の繊維がそれに抗い、おいそれとは破れてくれない紐だった。そのため彼女は爪を立て、更なる力をそれに込めようとした。が、ここで、


「大丈夫、大丈夫だよ、みどり」と夫の大石氏に身体ごと抱きしめられそれを止めた。「あれはきみのせいじゃない。すくなくともそんな風に僕は考えない。きみはよくやっている。それを破る必要なんかない」


 もちろん彼も、“それ”、鹿山真守の封筒から出て来た“それ”、小さなUSBと一枚のメモと一緒に出て来た“それ”、がなにかを知っていたわけではなかった。なかったが、夫人の取り乱した様子や、テーブルの向こうにいる真守の様子から、“それ”が破いてはならないもの、いま、“それ”を破けば、このふたりの関係、あるいは夫人とその亡くなった妹の関係、そうして彼らと彼らが預かっている双子の女の子たちとの関係が、もうどうしようもない、取り返しのつかないものになってしまうのではないか、そんな直感が彼を、右のような行動へと移したのである。そうして、


「わたし、わたし、わたし……」と彼女は彼の肩に顔をうずめた。彼女は、そうすることで、両方の目を圧迫することで、“それ”を見ないよう、“それ”が見せようとする過去の後悔・記憶を視界からシャットダウンしてしまおうとでもしている様子であった。ちからの消えた彼女の手から“それ”は抜け落ち、まるで死んだヘビのように床へと落ちた。


 そう。それは、幅6cm、長さ30cmほどの紙の紐であった。表面には無数の二次元バーコードやドット模様、それにランダムな英数字、きっと真守が書いたであろう、緻密な手書きの注記やメモ書きなどがあった。そう。それは確かに、どこか死んだヘビにも似た、白地に黒の『まだらの紐』であった。


「真守くん」大石氏は言った。夫人を抱きしめたまま、「すまない。やっぱり今日は帰ってくれ」


「え、でも」としかし真守は一瞬、自身に残された時間のことを想い、食い下がろうとした。したのだが、「あ、だったら」――義兄さんだけでも――そう言いかけ、しかしそれでも結局、それを止めることにした。義姉のこんな様子を見た後では、さすがの彼にも今日これ以上のことを言えるとは想えなかったからである。「じゃ、じゃあ、また日を改め――」


 であるが、ここで、


「あ、いえ、ちょっと待って下さい。鹿山さん、大石さん」と、そうここで、扉のそばからひとりの名探偵が彼らに声をかけた。「鹿山さんには時間がない。それは皆さんも同じだ」


 彼の横にはこの家の双子が、父と伯母を心配するような顔で立っていた。名探偵・柊木陽介は続けた。


「そう。これは傷や痛みと言うよりは皮膚が裂けたようなものです」ともちろんこれが、探偵の領分を超えているかも知れないなとは想いつつ、それでも、「くっつけるものもないまま放っておけば、それはどんどんとひろがり、最後には修復不能となる――鹿山さん」


「は、はい」真守は応えた。突然の訪問者に驚き、


「ご病気のこと、おふたりには?」という彼の言葉に更におどろいた。「――お伝えしていないんですね?」


「病気?」大石氏が訊いた。「いったい、なんの?」


「膵臓がんです。ステージ4の」柊木さんは答えた。荒療治は知っての上だった。「彼はそれを誰にも言わず、この家を、街を去るつもりだった――そうですね? 鹿山さん」


 この問いに鹿山真守は答えられなかった。いや、泣きそうな目でこちらを見る新菜ちゃんと陽菜ちゃんの表情に声を出せなかったと言った方が正確かも知れない。柊木さんは続けた。


「大石さん」と今度は目をつむったままの大石夫人に、「目を開けて、目の前にいる男性と、床に落とした“それ”を見て下さい」と、こちらも荒療治は知っての上で、「彼は悪魔でもなければ地獄の使者でもないし、床に落ちた“それ”も、ただの紙、あなたが恐れる『まだらの紐』なんかではないはずだ」


 と、ここで一瞬言葉は途切れ、そうして、そのまま、ここでも何故か、あのちいさな、しろい亀裂のような沈黙が、彼らを襲った。いや、襲いそうになった。けっこうぎりぎりだった。勇気を出したのは大石夫人だった。彼女は訊いた。


「だったら?」と我らが名探偵に、「だったら“それ”は、その紐は、いったいなんなの?」


「これですか?」名探偵・柊木陽介は答えた。床に落ちた“それ”を拾い上げながら、「こいつは所謂『コールドウォレット』。紙で出来ていますから、『ペーパーウォレット』ってやつですね」


     *


「ペーパーウォレット?」とそうしてここで私は訊いた。「……って、なんでしたっけ?」


「僕もよく分かりませんけどね」和登先生は答えた。すっかり冷えたココアを飲みながら、「仮想通貨……を使う? おろす? ために必要……な? なんかそいつがカギになって、なんか上手いことお金を出すとか出さないとか――」


 って、うん。なんかこの機械音痴のふたりじゃよく分からないままだったので、私のスマホのAIに訊いてみることにしたところ――、


『ペーパーウォレットとは、仮想通貨の送金や受取に必要な「秘密鍵」や「アドレス」を紙に印刷、オフラインで保管する方法』で、


『紙の紛失・焼失・盗難、インクの劣化により内容が読めなくなるなどのリスクはある』ものの、


『インターネットから完全に遮断されているためハッキングによる盗難リスクがなく』そうしてまた、


『日常的な売買というよりは、長期の保有に向いている方法でっす♡』


 と言うことらしいのだけど……って、結局なんだかよく分からない。なので私は、


「なるほどー」と分かったふりでうなずくと、「それで結局、鹿山さんはこれでなにを?」そう和登先生に訊いた。


「ああ、はい、それは」彼は答えた。「鹿山はそこに、娘さんたちが大きくなるまでに必要な十分なお金を入れておいたらしいんですよ」


     *


「仮想通貨バブルが弾けたのが二〇一七年末、と言うことは、その年に利確し使い込んでしまった人たちの追徴・督促が確定するのは今年の二月から三月の確定申告期――ですよね? 大石さん」


 と柊木さんは銀行員の大石さんに訊いた――らしいんだけど、私の頭には難し過ぎるので、和登先生の事件録にあった内容をそのまま切り貼りしつつ、以下続けますが――どこか間違ってたら、ごめん。


「え、ええ、はい」大石さんは答えた。「うちのお客さまにも何人かいましたが、ここで完全に破産するか、腹をくくって再起の道を歩むかで皆さんかなり悩んでいました」


「そう。それで鹿山さんも、持たれていた資産のほとんどすべてをそれら税金の支払いに使用し、無一文状態になった」と柊木さん。「ただし、一部だけ、一番手堅い資産だけは、利確せず――日本円には換金せず、娘さんたちの未来のために残した」


「ああ」と大石さんが想わず声をあげた。「暗号資産の場合、未利確状態なら追加の所得税が発生しないからか――」


「そう。いまここで日本円に換金すればその半分は国に取られ――ほんとクソったれですな――残った半分も、生活費その他ですぐに消えてしまうでしょう。しかし――」


「しかしウォレットに送金・隔離したままにしておけば、いずれ価値が持ち直し新菜ちゃんたちの資産になる――と真守くんは考えたわけか」


「そう。そうして、しかるべき時期が来れば換金、正しい手続きで申告もし、それでも雑所得や所得税で娘さんたちが破産しない計画を鹿山さんは練られた。自身は実質無一文となり、余命いくばくもない中でね――いやはや、驚くほどの時間と勇気と忍耐ですよ」


「ああ」とふたたび大石さんは声をあげ、「なんてことだ、真守くん」とテーブルに落ちたままのメモとUSBメモリを見つめながら鹿山さんにこう訊いた。「君は、今日、それを僕たちに説明――いや、僕たち夫婦に頼みに来たんだね」



(続く)


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