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「ほんとにそれでよかったの?」鹿山真守は訊いた。「ひなも小さなぬいぐるみだけだったし、もっとなんでも買ってあげたのに」
「いいの」鹿山新菜は答えた。「おもちゃならほかにもたくさん持ってるし」と水でくっつくビーズの入った小さな箱をじっと見つめ、「それにこれ、いますっごくはやってるのよ」
彼らはいま富士見台の大石家へともどるタクシーの後部座席にいた。真守を真ん中に、その左側に新菜がすわり、その右側には陽菜がすわっていた。陽菜は、きっと遊びつかれ、はしゃぎつかれたのだろう、父親の胸に頭を預けるようにして眠っていた。腕には、先ほど書いた小さなぬいぐるみ、一個六〇〇円とかそれくらいの、とかげだか恐竜だかの、うす青色の小さなぬいぐるみが抱かれていた。新菜が続けた。
「ひなのそれもね」と妹の無邪気さにちょっと嫉妬し、「すっごくはやってて、その子はなかなか手に入らないのよ」
「ふーん」と真守はつぶやき、新菜の顔を見ようとしたのだが、それに合わせたかのように、彼女が窓の外を向き、結局、彼女のうしろ姿に話しかけることになる。彼女のきれいな耳のかたちが、彼女の母親のものに似ていることに、いまさらながらに気付きながら、「あのな、新菜」と。窓の外では太陽が、いままさに地平線の向こうへ沈もうとしているところであった。
「なあに? お父さん」彼女はこちらを向かなかった。彼は戸惑ったが、それでも、
「おまえ、母さんのこと考えることあるか?」
ちいさな、しろい、亀裂のような沈黙が流れた。
「うん、まあ、ときどき」あいまいな口調で新菜は答えた。
「そうか」と続けて真守は訊いた。「ふたり……陽菜とふたりで、母さんのこと話したりするか?」
ふたたび、ちいさな、しろい沈黙が流れた。
「うん。まあ、ときどき」とふたたび、あいまいな口調で新菜は答えた。
「そうか」真守は言った。「父さんはな」と彼女のうしろ姿から目をそらしつつ、「父さんはな、お前たちに母さんのことを忘れて欲しくないんだよ」と。そうして、「父さんのこともな」と、そう続けようとして、慌ててその口をつぐんだ。
また、車内に、ちいさな、しろい、あの冬の日のような、沈黙が流れた。
「ケーキ」と突然、新菜が言った。陽菜の寝息がそこにかぶった。「あのチーズケーキ、おいしかったわ」
真守は、彼女が何を言おうとしたのか、そうして自分が、彼女に何を期待していたのか分からなくなった。そのため、
「あ、あのな、新菜」と彼は言葉を続けようとし、
「あっ」とおどろく彼女に声にそれを止められた。「すっごい……」
それは、日没直前の、空や地上が、いつもの街の風景が、黄金色の、温かな光に包まれた瞬間であった。真守はそれを素直に美しいと想った。先ほどまであった小さなしろい沈黙は何処かへと消えていた。
「あ……」と真守は、なにかを、先ほどの言葉の続きを、つい言いそうになったのだが、今度ははっきり自分の意思に――ではないな、あまりに温かな街の風景のせいで、その言葉を飲み込む、忘れる、なかったことにした。自分に今さら、過ちを償う資格のないことを想い出していた。
*
ピロン。
とスマホの着信音がして柊木さんはそれを確かめた。確かめ、すこし困った顔をし、それでもすぐに、
「和登さん」と目の前のソファで眠る和登先生に声をかけた。「すまない和登さん、ちょっと起きてくれ」
「う……うん?」和登先生は目を覚ました。しょぼついた目で、「なんだい? 陽介。なにか言ったか?」
「わるいが君にお願いがある」柊木さんは続けた。
「お願い?」
「ブレッキンリッジのことは前に話したよね?」
「ブレッキ……」寝ぼけた頭のまま和登先生は答えた。「たしか……ときどき君が手伝って貰っているハッカー集団だったっけ?」
このハッカー集団については、第七話でもすこし出て来たので、その報酬形態も含めて我々は知っているが、この時代の和登先生はそこまでのことは知らない。何故なら、
「そう。結構面倒な奴らでね、なるだけ君とは関わらせたくなかったんだが」と柊木さんが彼と彼らを引き合わせないよう注意していたからである。であるが、「どうやら奴ら、監視カメラやパソコンのカメラで君の存在を認識していたらしく、今回は君も報酬の中に含めるように言って来たんだ」
「報酬?」とまだまだ頭の回らない和登先生、「ああ、まあ、別に構わないが」と気軽に安請け合いする。何故ならそれより、「それより君は、彼らに何か頼んだのかい? その、今回の大石さんの件で?」
「僕の技術じゃ分からない部分があってね」と柊木さんは答えると、「じゃあ、オッケーで返信するぞ」そう続けて訊いた。
「え? ああ、だからいいって」と彼らの望みが何かも知らぬままに和登先生。「それより君でも分からない部分ってのはなんだね?」
「よし。送信」柊木さんは言った。「鹿山真守氏の“すべての”財政状況と、それから彼の通院記録さ」
*
「すみません、義兄さん」とこれとほぼ同じころ、鹿山真守は言った。「すっかり遊びつかれちゃったらしくて――ほら、陽菜、起きて」
彼は、眠る陽菜を肩に抱き、大石家の玄関先に立っていた。彼の横には新菜が、妹の荷物、青いぬいぐるみも含めた彼女の荷物を持って立っていた。家に戻ろうか、それともまだ父親の横にいようか決めかねている様子だった。
「うーん?」と陽菜が、すこしだけ目を覚まし、「だっこー」と言ってまたねむった。真守の首にその小さな手をまわした。
「すみません、義兄さん」真守はくり返した。今度は苦笑し、陽菜を義兄に、大石真緑の夫である一蓮に受け取って貰うよう目で合図した。そうして、「義姉さんは?」と真緑の行方、居場所、あるいは機嫌について訊いた。
「みんなの夕食を」義兄は答えた。陽菜を受け取り、「真守くんも?」となかば反射的、社交辞令的に彼に訊いた。
「あ、いえ」真守は答えた。ふたたび苦笑し、「またあとで」
「え?」と義兄は訊きかけたが、「あ、ああ、そう、そうだったね」とこちらは微笑し応えた。「たしか、九時にもう一度くるんだったね」
「ええ、はい」真守は言った。ただし、新菜にも陽菜にも聞かれないようにと小声で、「すこし込み入った、大事なお話なので、皆さん落ち着かれた、子供たちもベッドに入ってからの方がよいと想いまして」
*
「和登さん」とそれからしばらくがして柊木さんは言った。「すまない和登さん、起きてくれ」
と今度はリビングのソファでなく、自室のベッドで眠り込んでいる和登先生に向かって、彼の肩を手で揺すりながら。
「うん?」と片目を開きながら和登先生は訊いた。「今度はなんだい? 陽介」部屋のカギのことはもう気にしないことにした。「例のハッカーたちから返事でもあったのか?」
「ああ、十分ほど前にね」柊木さんは答えた。見ると彼は、すっかり身なりを整えている。「おかげで謎もすべて解けた。大石さんのお宅にうかがおう」
「お宅に?」半分寝ぼけた頭のまま和登先生は訊き返した。「いまからかい?」枕もとの時計を見るとそろそろ九時になろうとしている。
「大石さんの話を想い出してくれ」柊木さんは答えた。「今日の九時だったろう? 例の鹿島氏が『大事な話がある』と夫妻を訪ねて来ると言っていたのは」
「え?」と和登先生。残る半分の頭をどうにかこうにか叩き起こしつつ、「あ、ああ、たしかに。きっと双子を引き取りたいとかそういう話だろうと大石さんは想っていて、だからこそ今日、僕らのところに相だ――」
「そう。そこだよ、和登さん」と柊木さん。ちょっと興奮しているのが分かった。「あの父親は娘たちを引き取ろうと戻って来たんじゃない――ああ、僕はなんてバカなんだろう――彼は、あの父親は、娘たちにさよならを言うために、そのためだけに、この街に戻って来たんだよ」
*
九時きっかり、大石夫妻は真守を家に入れた。待ちかねていたと言ってもよい。ソファに腰を下ろした大石夫人は、どこか喪服を想い起こさせるような黒のハイネックに黒のジャンパースカートをはいていた。夫の大石氏は、どこか落ち着かない様子で、部屋の中を行ったり来たりしては、真守にお酒でも飲まないかと訊いたりしていた。もちろん真守はそれを断わったが。
「じゃ、じゃあ、なにか温かい飲みものでも」大石氏は言った。「カフェイン抜きの。眠れなくなっても困るからね」
彼の様子や部屋の空気から真守は、彼が来る前、この家の子供たちに寝るよう言ったあと、夫妻がすでにいくつか会話をしていたことが分かった。気持ちがたかぶっていることや、はやく話の本題に入りたがっていること、それに当然、真緑が、いまだ真守に不信感を抱き、嫌悪し、いますぐにでもこの家から、いや、彼らの住むこの街から出て行って欲しいと願っていることも――って、そりゃそうですよね、義姉さん。と真守は想った。それから、
「実は――」と飲みものが出され、大石氏がソファにすわるのと同時に真守は言った。「実は今回、僕がお二人にお目にかかりたかった、お話したかったのは、新菜と陽菜、彼女たちの将来のことについてなんです」
大石夫人は腕を組み、向かいに座る真守――ではなく、彼が座るソファに付いた小さな染みを見ていた。真守は続けた。
「二年前、母親を亡くしたあの子たちをお二人が引き取ってくれたこと、これには感謝の言葉もありません」と肩に担いだ陽菜の重さや、そっと握った新菜のやわらかな手の感触を想い出しながら、「あの子たちは、本当にいい子に育ってくれました。きっとおふたりの――」
そう言いかけたところで夫人が険しい目つきで真守を見つめた。何かを言いたげな表情で。がしかし、それでも彼はくじけずに、
「きっとおふたりと、この家のやさしい雰囲気が彼女たちを――」そう話を続けようとした。したのだが、
「だったら」と突然夫人が、ふるえるような、おびえるような声で言った。「だったら、いますぐ消えて下さる? ここから、この家から、彼女たちの――」
「お、おい、みどり」大石氏が言った。どうにか彼女をなだめ、落ち着かせようとして、「いきなり、そんな言い――」
「だって、あな――」
「いいから」大石氏は続けた。「まずは鹿山くんの話を聞こうじゃないか」彼女の手を握り、「まだ本題にも入っていないんだから――鹿山くん?」
「は、はい、義兄さん」真守は応えた。
「君、さっきお酒を断わったよね?」
「は、はい、いまはもう基本飲まないようにしていますし、飲んでも一杯までと自分を――」
「自分を律するようにしているわけだ」大石氏は続けた。「もう、以前のようなことはない?」
「は、はい」真守も続けた。それでも少しウソが混じったため、「ああいうことは全て終わりました。いまでは絶対酔わな――」
「バカなこと言わないでよ」とここで、そのウソに反応するように大石夫人が口をはさんだ。「あんなことしておいて。絶対酔わない? 自分を律する? 飲んでも一杯ってなによ?」夫の手を振りほどき、『ウソ』の中身を勘ちがいしたまま、「そんな言葉、誰が信用すると想うの?」
「いえ、でも、義姉さ――」
「あなたに義姉と呼ばれたくありません」
「でも、あの頃の僕は仕事のプレッシャーがすごくて、それは光里も――」
「あの子の名前を出すのはやめて下さい。あなたの口からあの子の名前を聞きたくはありません」
真守は言葉を失って、しばらく大石夫人を見ていた。夫人は彼から目を離したまま、今はまた例のソファの染みを見詰めていた。正直真守はこのときまで、彼女がここまで亡き妻、彼女の妹・光里のことを想っているとは考えていなかった。夫人は続けた。
「私には義務があります」とまるで、白い沈黙に耐えられなくなったかのように、「それは光里に対しての義務です。あなたがあの日、あの子にあんなひどいことをしてからこっち、ここにあなたの出番はありません。あなたは部外者で赤の他人です。いないも同然です。だって光里は、私の妹なんですもの」
大石夫人の目になにかひかるものが見えたが、それがなにか、真守は結局最後まで知ることがなかった。夫人は続けた。
「『ふたりをお願い』」彼女がこちらを見た。「あの子は最期にそう言ったの。あなたにではなく私にね。あなたはそのときどこにいたの? お金? 仕事? それがなによ? ねえ、答えて。あのときあなたは、どこにいたの?」
「僕は――」と言いかけ、ふたたび真守は言葉を失ったが、その失った言葉すらも、
「いいえ、結構、聞きたくないわ」という夫人の言葉にしろい闇へと葬られた。「あの日、あの雪の日、あの子がこの家のドアを叩いたあの日のことを、私は一生忘れられません」
ここで彼女は言葉を切ると、真守の顔をジッと見つめた。見つめたまま口を真一文字に結び、まるでいま想い出したかのように鼻で息を吸い、唾を飲み込んだ。沈黙が続いた。まるでこの部屋だけ、問題の雪の日に戻ったようだった。
「ま、まあ、まあ、まあ」と沈黙を破ったのは夫の大石氏だった。彼は言った。「お酒の話題を出したのは僕が悪かったよ、すまない、みどり、鹿山くん」とどうにか話を進めよう、せめて相手の用件を確認しようと、「どうやら話が混乱しているようだ。だよね? 鹿山くん」
「え? あ……いや、はい」どうにか真守はこれに答えた。夫人の視線から逃げ、大石氏の方を向いた。「すみません、お義兄さん」
「うん、うん」大石氏もそれに応えた。「いずれにせよ君の話、今日の君の本題を聞いてみないことには、話が進まないよ。なにか用が、電話やメールでは話せない、こうやって三人にならないと話せない用があったってことだろう?」
(続く)




