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そう。それは今から七年前、二〇一九年の四月初旬。春もうららかな午後から始まる。
この日、和登先生は当直明けの完全休みの日で、午前中の申し送りと外来が終わった十二時過ぎにそのとき勤めていた病院を退勤、帰宅後ひと息吐いた一三時三十分頃、ひとりのベッドへともぐり込んだのだが、
「夜勤明けのところすまない、和登さん」と、一時間もしないうちに部屋に侵入して来た柊木さんに起こされたのだという。「新谷夫人がすごい勢いで僕のところまで来てね。食後の昼寝を邪魔されたとかなんとか」
「邪魔?」和登先生は訊き返した。たしかに今日はお昼寝日和だが、「またなにか変な実験でもしたのかい?」
と、しょぼついた目といくぶんうらめしそうな表情で柊木さんを見上げると、彼はすっかり身なりを整えている。どうやら何かを燃やしたり爆発させたり増殖させたりしたわけではなさそうだが、
「いや、お客さまだよ」と柊木さんは答え、「どうやら四十くらいのご婦人が突然やって来て僕に会いたいと言っているらしいんだが――」
「住所しか分からず、新谷夫人の扉を叩いたのか」と和登先生は続ける。両手で顔をごしごしさせつつ枕もとの時計を見るとまだ十四時にもなっていない。「いいかげん電話やメアドをもっとオープンにしたらどうだい? ホームページを立ち上げるとかさ――『柊木陽介探偵事務所』」
「ふん」と柊木さん。鼻で笑って、「そんなことしたら浮気調査と信用調査で日々が過ぎてしまうよ、そんなの君もいやだろう?」
このころすでに、和登先生にとってのなによりの楽しみは、柊木さんの仕事に同行し、彼の調査の仕方や推理の立て方、いかにして謎を解き犯人を追い詰めて行くか、それを最後まで見届け記録することになっていた。だからこそ、
「すると、そのご婦人の依頼は浮気や信用調査じゃないんだな?」と眠い目をこすりながら和登先生は訊ねるわけだし、
「まだはっきりとは分からないがね」と微笑を湛えながら柊木さんは返すわけである。「新谷夫人の直感では、なにかもっと複雑な事情を抱えているに違いないとのことだったし、実際これが本当にとてもおもしろい事件だったら、君はきっと最初から立ち会いたかったというだろう?」
*
「お待たせしてすみません」とそれから十分もしないうちに柊木さんは言った。「私が柊木陽介です」そうして、「こちら親友でパートナーの和登先生。ときどき調査の手伝いをしてくれています」ともちろんその横には、急いで背広に着替えた和登先生もいた。「さ、どうぞおかけになって下さい」
女性は名前を大石真緑と言い、富士見台で主婦をしているとのことだった。背が高く痩せ型で、あか抜けた感じはしないが美人と言っても差し支えなかった。年は三十七。丁寧に積み上げて来たであろう清潔感と品があり、また、と同時に、家や家族を必死に守って来た女性特有の一本芯の通った力強さも感じられた。感じられたのだが、
「よければ熱いコーヒーでも淹れましょう」と柊木さんも心配するとおり、こんないい天気の日に彼女は、まるで氷のようにピンと張りつめた空気を持ち、その寒さで彼女の手や足は今にも震え出しそうであった。「お話はそれからでも――」
がしかし、
「あ、いえ、おかまいなく」と女性は応える。「心配させてしまい申しわけありません」と立ち上がろうとする和登先生を止めて、「妹のことを、二年前に亡くなった妹の、彼女の最後の姿を想い出し、それで、つい――」
改めて彼女をよく見ると、髪には白いものがちらほら混じり、目尻の皺は年よりも深く、うまく隠したはずの疲れややつれが、身体の節々からにじみ出てくるようだった。すると、
「コーヒーなら私が」と彼女を案内して来た新谷夫人が言い出した。どうやら彼女もこの夫人の様子が気になったのだろう、すぐに部屋には戻らず、柊木さん達の到着を待っていたのだった。「お二人は大石さんのお話を」
*
「私には光里という三つ違いの妹がおりました」と大石夫人の話は始まった。「彼女は、先ほどもお話しましたとおり、二年前の冬に亡くなっております」
「二年前?」柊木さんが確認した。「二〇一七年のことですね。具体的な月は?」
「あ、これはすみません」大石夫人は答えた。「二〇一七年の十二月。三十日のことです」
「こちらこそすみません」と柊木さん。「つい職業病のようなもので」
「そう、そうでしたわね」大石夫人は微笑しつつも硬い声のまま応えた。「黒島さまからあなたのお話はうかがっていたのに、ついつい、いつものように話してしまって」
この『黒島さま』とは、柊木さんが和登先生に出会う前、ある盗難事件を解決してあげた金持ちの老婦人のことだが、大石夫人は彼女からここの住所と柊木さんのことを聞いたのだという。
「ああ、まあ」柊木さんも応えた。「黒島さまには私も勉強させられましたがね」少し苦笑し、「こちらも仕事を始めたばかりで根掘り葉掘りと、婦人が嫌がるようなことまで聞いてしま――あ、でもご安心を。いまはそのあたりを弁えておりますし、そのための和登先生でもありますから」
最後のセリフに和登先生は内心すこし驚いたが、すぐに微笑を作ると大石夫人に向けた。なにか気の利いたことでも言おうとして、
「それに今日は私もいますからね」とコーヒーを淹れ戻って来た新谷夫人にその言葉を盗られた。「柊木さんがなにか失礼なこと言ったら、私が引っぱたいてあげますよ」
「あ、ありがとうございます」とふたたび夫人は微笑し、温かいコーヒーをその手に受け取った。「そう言って頂けると助かります」
ようやく場が和んで来た様子だった。柊木さんが言った――ですから、
「ですから、どうか安心して、お話の続きを。私も和登先生も、それから今日は新谷さん(注1)も、喜んであなたのお役に立つよう尽力しますよ」
「ああ!」想わず夫人は声をあげた。「そう言って頂けただけで、ここまで来た甲斐もあるというもの」としばし背を曲げ、目をうるうるさせながら、「本当に、本当に……」とくり返し、くり返し。
よほど大きな不安を抱えていたのだろう、先ほど見つけたやつれや疲れのその奥に、もっと大きな精神的ストレス、何者かに対する恐怖あるいは憎悪のようなものがあるように和登先生には感じられた。彼女は続けた。
「しかし、柊木さん」すっくと背筋を元に戻して、「実は、私が感じている不安というのは、とても漠然としたもので、気になることも大変奇妙というか些細というか、他の人に話しても分かって貰えない事柄ばかりなのです」と。それから、「ですから夫も、そんな私の言葉を、女特有の考え過ぎの妄想――とそんな風にでも捉えているのか、あまりしっかりとは聞いてくれないのです」と。
すると、この言葉に柊木さんは、「ですから、どうぞご安心を」と言って答えた。
「ですから、どうぞご安心を。黒島さまから聞いているかも知れませんが、私とこの和登先生は、この数年、いくつもの奇妙な事件と遭遇して来ましたが、それらの多くは最初、それこそ普通の人なら見逃すような、ほんの些細な違和感、ちょっとした日常の変化、そういった物事を発端として我々の前に姿を現しました。ですから、たとえ最初は不思議に、些末に、それこそ妄想のように聞こえる事柄だとしても、私も和登先生も、あなたのおっしゃることはすべて、細大もらさずお聞きし、脳裏に刻み込むつもりですよ」
彼のこの言葉に、夫人は深くうなずくと、いよいよ話の続き、今日来た目的、彼女を悩ますあるものについて語った。
「ええ、はい」とコーヒーをひと口すすってから、「私を不安にさせるもの、それは、そう、『まだらの紐』なのです」
*
「ねえねえ、今日は? 今日はこのあとどうするの?」と小さな、九才くらいの女の子が訊いた。「昨日はすぐに帰っちゃったけど、今日はこのあともずっと一緒にあそべるんでしょ?」
すると、そんな彼女を、今すぐにでも椅子から飛び上がりそうな彼女をたしなめるように、
「ちょっと、ひな」とこちらも九才くらいの女の子が言った。「ちゃんとすわって。声もおさえて、まわりの人が見てるわよ」
「えー」ひなと呼ばれた女の子は応えた。「ちゃんとすわってるし、そんなに声も大きくないじゃない」と先ほどと同じ声量で。
ここは、石神井公園駅前からほど遠くないフランス料理店『カルト・ブランシュ』。彼女たちはいま、その奥のテーブル席に隣り合わせで座っていた。目の前には美味しそうな料理がたっぷりと並べられ、それもあらかた食べ終わり、テーブルをはさんだ向こう側には、彼女たちの父親、鹿山真守が座っていた。双子の妹・ひなに反論された姉のになは、ちょっと顔をけわしくすると、
「あのね、ひな」と彼女と同じかそれ以上の音量で更なる反論をしそうになったが、
「まあまあ、にな」とそんな彼女を真守が止めた。「これくらいなら大丈夫さ」ともちろん妹の方にも、「だけどね、ひな」と優しく言って聞かせながら、「もっとレディにふるまって欲しいかな、せっかくのデートなんだし」
このセリフに姉のになは、「仕方ないなあ」という表情で真守に応え、妹のひなは、きっと“デート”の一語に反応したのだろう、座り直すと背筋を伸ばし、「それで?」とすました声で真守に訊き直した。
「それで? 今日はこのあとどうなさるおつもりなの? 鹿山さま」
すると、
ぷっ。
とそんな彼女の態度に真守より先に笑ったのはこの店の女主人であった。彼女は言った。
「お待たせ致しました」とどうにか笑いを押し殺し、「デザートのガトーフロマージュでございます。お嬢さま」
とそれでも、いかにも子供が好きでたまらないといった表情で、
「本当にかわいらしいお嬢さまたちですね」と真守には、ラム酒のシロップがたっぷり入ったサヴァランを出しながら、「きっと将来が楽しみでしょう? お父さま」
「うん?」真守は応えた。店主の顔を見上げ、「あ、ああ、もちろん」とはっきりとした笑顔をつくって、「ふたりの将来が楽しみで仕方ありませんよ、ぼくは」
*
「それじゃあ真田紐なんかはどうだい?」和登先生が言った。「あれにもまだら模様のものはあるし、あるいはキャンプなんかに使うパラコード。あれにもきっとまだら模様のものはあるだろう」
「それでどうやって殺したって言うんだい? 和登さん」柊木さんは訊き返した。「大石夫人の話をちゃんと聞いてたかい? 彼女の妹・鹿山光里さんの死は、あくまで心労による持病の悪化、精神と体調を崩したことが原因なのは間違いないらしい。まさか真田紐かなんかで首を絞めたとか言い出さないよな?」
こちらは、場面戻った柊木さんのマンション。問題の依頼人・大石夫人はすでにおらず、ここの大家の新谷夫人も、彼女を途中まで見送ると自分の部屋へと戻っていた。ただし、
『彼女の件を大至急!』とのラインを二人に寄越してから。『お家賃が遅れていることお忘れなく!』
「しかし、『紐』だろ?」和登先生は答えた。「『それに殺された』と言われても、そういう使い方くらいしか想いつかないよ、僕は」
「だからこその謎じゃないか」と柊木さん。机の上のノートパソコンでなにやらずっと調べ物をしている。「それを解いてこその探偵だよ」
「ふむ」すると和登先生。ふたたび少し頭をひねると、「ひょっとしたら大石夫人の聞き間違いじゃないか? 『ひと』を『ひも』と聞き間違えたとか、『まだらのひと』」
「『まだらのひと』?」ふたたび柊木さんは訊き返した。「それは一体なんだい?」
「よく分からんがそうだな、水玉模様のバンダナを巻いていたとか、フェイスマスクを被っていたとか、そういう――」
「そういう人物が妹さんを襲った?」
「襲ったとは言わないよ。彼女の食べものや飲みものに毒を盛ったり、あるいはなにかの脅迫を――」
「直接? そんな目立つ格好でかね?」
「うーん?」と和登先生。更に腕組み頭をひねると、「あっ!」と大きな声をあげた。
「なんだい?」柊木さんが訊いた。
「毒ヘビはどうだい?」
「毒ヘビ?」
「インドコブラやクサリヘビ、あるいはアフリカアダーなんかは、くすんだ茶色に斑点模様で、遠目には確かに『まだらの紐』に見えないこともないだろ? その毒が妹さんの――」
「あのな、和登さん」あきれ、たしなめるように柊木さんは言った。「十九世紀末の推理小説じゃあるまいし、そんなものが答えだったら、僕らは読者に石を投げられるよ」
うん。まあ、石を投げられるとしたら、主に作者の私ですが――和登先生が訊いた。
「うーむ? こいつは難問だなあ」と少しうなって、「それで? 君はさっきから何を調べてるんだい?」
「うん?」柊木さんは答えた。「いつも通りさ。依頼内容の裏取りと、登場人物の確認」
「大石さんと妹の光里さん?」
「光里さんの夫の鹿山真守氏と彼らの双子の娘たち。新菜ちゃんと陽菜ちゃん」
「あとは大石さんの旦那さんと、彼らのふたりの子ども――まずはそれくらいかい?」
「そうだね。裏も大体取れたし、ちょっと状況を整理しておこうか」
うん。状況はこうだ。
*
「まずは今回の依頼人、大石真緑さんから」と柊木さんは続けた。「彼女は現在富士見台で主婦をしており、一才年上の夫・一蓮さん、それに小学生の息子の陸くん、娘の絵美ちゃんがいる」
「旦那さんは地味だが堅実な銀行マンだと言ってたね」
「そうだね。その関係で彼女も彼女の妹・光里さんも、今回問題となっている男・鹿山真守氏に会ったと言っていた」
「最初はそいつも、普通にまじめな男だったんだろ?」
「うん。鹿山氏と光里さんの結婚は今から十年前の二〇〇九年。その頃の彼は、都内のIT企業で地道に働く普通のエンジニアだった」
「ふたりの子供もその頃生まれた?」
「二〇一〇年の五月だね。来月で九才か。大石さんの記憶でも、この頃の鹿山氏は『ごく普通のやさしい父親』だったらしい」
「それが変わったのはいつ頃?」
「二〇一六年の後半かな? 所謂ICO、仮想通貨バブルってやつに彼も手を出し、あるいは巻き込まれたようだね」
一応補足しておくと、二〇一七年に起きた仮想通貨バブルとは、前年にあったビットコインをめぐるいくつかの動き――巨額ハッキングを乗り越えたことによる信頼性の向上や供給が絞られたことによる希少価値の上昇など――が土壌あるいは引き金となり、二〇一七年一月には一BTC (ビットコイン)あたり約十万円だったものが、四月の日本の改正資金決済法の施行等もあり、同年十二月の十七日には一BTCあたり約二二〇万円まで上昇、過去最高値を記録するまでとなる、まさに『バブル』と呼ぶにふさわしい狂乱、バカ騒ぎ、地に足つかないクソ野郎どもの饗宴のことである。柊木さんは続ける。
「そこで鹿山氏は地道なエンジニアから海外ファンドやトークン発行のプロモーターに転身、数億円規模の暗号資産や現金を手中に収める」
「双子は六~七才。小学校入学か」
「高価な服やおもちゃを与えられてはいたそうだが、父親は家に戻らず、家族を顧みず、たまに戻って来ても母親とケンカばかりしていた」
「まったく。それが母親――光里さんの心労の原因、持病の悪化、急死へと繋がるわけか。そのとき旦那は?」
「彼は彼でやばい状況に追い込まれていた。バブルが破裂、いや崩壊を始めたんだ」
最高値を記録した十二月十七日のわずか五日後、利確売りが殺到したビットコインは、一時一二〇万円台にまで下がる(約45%の)大暴落を記録。
「さらには、中国等の各国政府が『取引禁止/規制強化』の動きを伝えたり、それと同時期に新たな巨額ハッキング事件が発生したりと」
暗号資産・仮想通貨は世間の信用を完全に失い、市場は所謂『仮想通貨の冬(暗号資産冬の時代)』へと突入、二〇一八年末には一BTCあたりの価値は三十万円台まで下落。
「そうして」とここで柊木さん。軽いため息を吐くと、「世界の多くの『億り人』『仮想通貨長者』と同様、鹿山氏も相場暴落と追徴課税で破産状態となり、東京から逃げ出すことになった――と言うのが、まあ、彼の資料から分かることだね」
「なるほど」和登先生はうなずいた。「それで大石さんが彼らの双子を預かることになったわけか――彼女のあの疲れた顔の意味がようやく分かったよ」
「救いは、その双子の姉妹がとてもいい子たちだということだね」
「ああ、『それこそが救いです』とも言ってたな。『妹を想い出す』とも」
「うん」とここで柊木さん。ふたたび小さくため息を吐き、「だけれど、だからこそ彼女は、ふたたび現れた鹿山氏が、娘たちを連れ去りはしないか、彼女たちを妹と同じ目に会わせはしないかと、そこにも気を揉むことになるわけだな」
(続く)
(注1)
未亡人である新谷さんを「夫人」と呼び続けることは、本来の日本語ルールからすると失礼に当たらないこともないが、これは彼女が、亡夫のことをまるでいまも生きているかのように話すため、和登も柊木もすっかり騙され、「新谷夫人」と呼び続けていたのが定着したものである。であるので、真実を知って以降彼らは、取り敢えず、第三者の前では「新谷さん」と呼ぶように注意している。




