お嬢様の回3
朝、町はもう限界だった。
目を覚ました瞬間に分かった。
これは平和な朝の音じゃない。
鳥のさえずりではなく、怒鳴り声と金属音と、なぜか太鼓の音が混じっている。
太鼓?
窓を開けると、通りを衛兵が全力で走っていた。
「本日も異常なし! だが油断するな!」
異常がないなら走るな。
俺は頭を抱えたまま外に出る。
すでに町は疲れ切った戦時体制だった。
目の下にクマを作った商人。
剣を研ぎすぎて刃が薄くなっている鍛冶屋。
理由もなく腕立て伏せをしている冒険者。
全員、何と戦っているのか分かっていない。
原因は一人だ。
「おはようございます!」
元気な声。
振り向かなくても分かる。
「今日は空気がピリッとしてますわね!」
それはお前のせいだ。
お嬢様は今日も楽しそうだった。
昨日までの混乱など存在しなかったかのように、
軽やかな足取りでこちらに来る。
「今日はどちらへ?」
「……できれば、人が少ないところに」
「まあ! でしたら外れの倉庫街ですわね!」
なぜ、そういう場所を知っている。
倉庫街は、人が少ない代わりに、視線が多かった。
なぜなら全員が張り込んでいるからだ。
「怪しい動きは?」
「ありません!」
「でも警戒を!」
意味が分からない。
「この町、備えが万全ですのね」
お嬢様が感心する。
倉庫の影で誰かがガッツポーズをした。
評価されている。
なぜ。
「冒険者さん」
来た。
「この町、何も起きないのに、皆さん真剣ですわ」
その瞬間、周囲が凍る。
誰かが小声で言った。
「……“何も起きない”を強調された」
誰かがうなずく。
「嵐の前触れだ」
違う。
ただの感想だ。
その直後だった。
鐘が鳴った。
まただ。
「何かあったのか!?」
衛兵が走る。
「報告! 異常ありません!」
「よし、警戒を強めろ!」
意味が分からない。
俺はお嬢様の前に立った。
「……できれば、今日は静かに観光しましょう」
「まあ! 配慮してくださるんですの?」
違う。
俺の胃のためだ。
昼。
町は異常がないことに疲れ果てていた。
冒険者は座り込んでいる。
商人は虚ろな目で空を見る。
町長は会議所の椅子で動かなくなっている。
「とても平和ですわね」
お嬢様が、悪気なく言った。
誰かが膝から崩れ落ちた。
「冒険者さん」
まただ。
「この町、ずっとこのままですの?」
俺は少し考えてから答えた。
「……だいたい、こんな感じです」
「素敵ですわ!」
拍手が起きた。
もう驚かない。
夕方。
お嬢様は満足そうに空を見上げた。
「たくさん見ましたわ。とても楽しかった」
町中が、ほっと息を吐いた。
「そろそろ、王都へ戻ります」
その言葉で、
町が一瞬だけ静かになった。
本当に一瞬だけだ。
「帰られる!?」
「無事でよかった……!」
「何も起きなかった……!」
なぜか感動が広がる。
お嬢様は俺を見る。
「案内、ありがとうございました」
そう言って、
小さな袋を差し出した。
中身は、
過剰なくらいの礼金だった。
町の全員が息を呑む。
「……いただけません」
俺は即答した。
「まあ?」
「これ以上、評価が上がると、俺が住めなくなります」
一瞬の沈黙。
そして、笑い声。
町が、ようやく普通の空気に戻った。
馬車が去る。
静かになる町。
誰かが言った。
「……結局、何だったんだ?」
誰も答えられなかった。
夜。
掲示板には、最後の貼り紙が追加されていた。
「※教訓
・平和を疑いすぎない
・お嬢様は悪くない
・一番疲れるのは案内役」
名前は書かれていないが、俺のことだ。
部屋に戻り、ベッドに倒れ込む。
戦っていない。
何も守っていない。
何も解決していない。
それでも、
町は今日も無事だ。
俺は天井を見つめ、つぶやく。
「……もう、何も来るな」
その願いが叶わないことを、
この町で暮らす俺は、
よく知っていた。




