第一章 GATE :第三話 始原花門(しげんかもん)(後編)
胸の奥で「(前にも、一度)」という言葉が、小さな棘のように残った。
◇
開ききった門の向こうから、光が溢れ込んできた。
あまりのまぶしさに、少女は思わず目を閉じた。まぶたの内側が赤く染まる。次の瞬間、音と匂いがいっせいに押し寄せてきた。
風の音。葉がこすれ合う音。遠くや近くで重なり合う、たくさんの話し声。そして、息をするたびに胸いっぱいに広がる、甘くて、すがすがしくて、少しほろ苦い、数えきれない花の香り。
おそるおそる目を開けて、少女は言葉をなくした。
足元のずっと下に、街が広がっていた。けれどそれは、少女が「街」という言葉からぼんやり思い描いていたものとは、まるで違っていた。
家々は、石を積んで建てられているのではなかった。大きな大きな茎から枝分かれするように育っていて、屋根は何重にも重なった葉や花びらでできている。建物と建物のあいだには太い蔓が橋のように渡され、その上を誰かが軽やかに行き来していた。
そして、そこに生きている者たち。
光を透かす翼を背中に持った者が、蔓の橋の上をゆうゆうと飛び越えていく。その下では、少女の手のひらほどの小さな者たちが、薄い羽を震わせて花から花へと飛び回り、小鳥のように笑い合っている。道のはしには、体の形が水面のように揺らいで、向こうの景色がうっすら透けて見える者が立っていた。
誰もが違っていた。姿も、大きさも、歩き方も。それなのに、誰もがごく当たり前のように、同じ朝の中で暮らしていた。
「……っ」
少女は、花を胸に引き寄せた。足が、門の敷居から一歩も動かなかった。
広すぎる。明るすぎる。多すぎる。ついさっきまで、世界は冷たい石の広間と、一輪の花だけでできていたのに。
「怖いですか」
いつのまにか隣に立っていたマリエナが、おだやかにたずねた。少女は首を振りかけて、それから、正直に小さくうなずいた。
「それでいいのですよ。初めて外を見たら、誰だって怖いものです。怖くないのは、ちゃんと見ていない者だけです」
◇
クラウゼの案内で、少女たちは坂を下り、街の中を進んでいった。
足元は石畳ではなく、固く踏みしめられた根の道だった。その両側には市場が広がり、ずらりと店が並んでいる。朝露を小さな入れ物に集めて売る店。色とりどりの種を、はかりで量って売る店。蜜の甘い匂いを漂わせる店。
「ここに暮らす者たちはみな、花の本当の姿が、それぞれの形をとって生まれた者だ」
歩きながら、クラウゼが少女に向かって、ぽつりと口を開いた。
「翼を持つ天使、小さな羽の妖精、決まった形を持たない精霊。私たちはそれを系統――生まれによる大きな仲間分け――と呼んでいる。系統は、全部で五つある」
少女は、あらためて通りを見わたした。行き交う者たちが、ときどき少女の抱える花に目をとめ、それから少女の顔を見て、ふしぎそうに首をかしげた。
「おや、神殿から来た子かい」
種を売る店の前で、小さな羽を持った店主が、ひょいと少女の目の高さまで飛び上がってきた。髪の毛のかわりに細い花糸が揺れていて、声は鈴の音のように高い。
「門をくぐる子はたいてい、まず自分の花名を名乗るもんだけどね。あんた、名前は?」
少女は、答えられなかった。唇を開いては閉じ、また開いて、けっきょく何も言えずにうつむいた。
店主はきょとんとした。それから少女の手の中の花をのぞき込んで、ふうんと鼻を鳴らした。
「白い花……このあたりじゃ見ない花だねえ」
「見ない、だって?」
隣の店で蜜を量っていた、年をとった者が、ゆっくりと振り返った。体の輪郭が、ゆらゆらと揺れている。
「わしは見たことがあるよ。ずっと昔……いや、いつだったかな。夢だったかもしれん」
店主は「またじいさんの昔話が始まった」と笑って、自分の店先へ戻っていった。けれど少女は、その場から動けなかった。
見たことがない、と言う者がいる。見たことがある、と言う者もいる。同じことをたずねても、答える者によって、答えは違う。この世界は、ひとつの問いに、ひとつの答えを返してはくれないのだ。
通りのあちこちで、誰かが誰かの名前を呼んでいた。呼ばれた者は振り返り、笑い、手を振って答える。そのたびに、呼ばれた者の体のどこかで、淡い光がふっと灯るのが見えた。
「(名前って、あんなふうに光るんだ)」
うらやましい、と思った。そう思ってしまった自分に、少し驚いた。
そのときだった。すぐ後ろで、誰かが澄んだ声で名前を呼んだ。その響きがあまりにもまっすぐだったので、少女は考えるより先に振り返っていた。
でも、その声が向けられていたのは、少女ではなかった。薄い羽を持った小さな子が、少女の横をすり抜けるようにして、声の方へ飛んでいく。待っていた誰かの腕の中へ、その子は飛び込んだ。その肩のあたりで、ぽっと、花が開くような光が灯った。
少女は、振り返った格好のまま、しばらく動けなかった。頬が、じんわりと熱くなった。呼ばれてもいないのに振り返ってしまったことが、ひどく恥ずかしかった。
その恥ずかしさが少しずつ引いていったあと、もっと静かで、もっと冷たいものが、胸の底に沈んで残った。
「(わたしを呼ぶ声は、どこにもないんだ)」
耳を澄ますと、通りは名前でいっぱいだった。そのひとつひとつが、迷うことなく、誰かのもとへ届いていく。その真ん中に立つ少女は、まるで川の流れの中に置かれた小石のようだった。水はいくらでもまわりを流れていくのに、ひとしずくも、小石のために立ち止まってはくれない。
少女は、手の中の花に目を落とした。
「……あなたには、名前があるの?」
ささやくようにたずねても、花は答えなかった。
ふと、夢の中で聞いたあの声を思い出す。もう一度咲きたいかと、あの声はたずねた。けれど、少女の名前を呼びはしなかった。あの声でさえ、わたしを呼ばなかったのだ。
少女は、小さく唇を開いてみた。自分で自分に、何か名前をつけてみればいいのではないかと思ったのだ。けれど、喉の奥で形になりかけた音は、どれも誰かから借りてきたもののように薄っぺらで、口に出す前に消えてしまった。
名前は、自分ひとりで決めて、自分ひとりで口にしても、きっと光らない。呼んでくれる誰かがいて、初めて灯るものなのだ。
「(呼ばれたい)」
その思いは、あまりにも小さく、あまりにも正直だった。誰かに呼ばれたい。その声に、迷わず振り返りたい。振り返った先で、ここにいるよと光りたい。そのための、わたしだけの名前がほしい。
「(わたしは、何になるんだろう)」
少女は花を抱き直した。白い花は何も言わず、ただ朝の光を受けて、かすかに揺れていた。
◇
街の真ん中にある広場へさしかかったときだった。
細く透きとおった音が、ひとつ鳴った。「(……呼ばれた?)」
鐘の音に似ていた。けれど、もっと細く、冷たく、氷の中に閉じ込められた小さな泡が、雪どけといっしょにはじけるような音だった。
広場を行き交っていた者たちが、ふと足を止める。少女もまた、思わず顔を上げた。
広場の向こうで、光が満ちていた。まぶしく輝いているのではない。ただ、その一角だけ、足元に落ちていた影が薄くなり、やがて消えていくのだ。花々の色が白っぽくうすれて見え、空気そのものが、しんと静まり返っていく。
その光の真ん中に、誰かが立っていた。胸元に白い花と鐘の形の小さな飾りをつけたその誰かは、まっすぐにこちらを見つめていた。
「――その花を抱えた子」
澄んだ声が、広場を越えて届いた。
「あなたでしょう。さっき、言葉もなしに門を開いたのは」
(第三話 了)
次回 第四話「雪鐘の白光」




