第一章 GATE :第三話 始原花門(しげんかもん)(前編)
神殿の外へ向かう長い廊下は、奥へ下っていったときとは、まるで違う場所のように感じられた。少女が一歩進むごとに、壁の花紋の光り方が、だんだんゆっくりになっていく。そのかわりに、どこからともなく流れ込んでくる空気が、少しずつ温かくなっていった。
冷たい石の匂いの向こうに、少女の知らない匂いが混じりはじめていた。湿った土と、日に温められた葉と、数えきれないほどたくさんの花の匂いだった。
足には、出かけるときにリトがくれた、やわらかな草編みのはき物をはいていた。石の冷たさしか知らなかった足の裏が、少しくすぐったい。
両手の中の白い花は、ほどけた根を少女の指にやわらかくからませたまま、静かに息をしているようだった。落とさないように、つぶさないようにと気をつけるあまり、少女の肩には、いつのまにか力が入っていた。それに気づいたリトが、隣を歩きながら小さく笑った。
「そんなに固く持たなくても、その花は逃げないと思うよ。自分から君のところへ来たんだから」
少女はこくりとうなずいた。けれど、指の力を抜くことはできなかった。この花だけが、今の自分と世界とをつないでいる、たったひとつの糸のように思えたのだ。
前を行くクラウゼは、一度も振り返らなかった。その少し後ろを、杖をついた記録守――記録を守る役目の者――のマリエナが、ゆっくりと歩いていた。
マリエナが街までいっしょに行くと言い出したとき、クラウゼははっきりといやそうな顔をした。けれどマリエナは「古い石のことは、古い者にしかわかりませんよ」とだけ言って、さっさと支度をすませてしまったのだった。
◇
長い廊下の終わりに、それはあった。
門と呼ぶには、あまりにも大きかった。見上げても、てっぺんが見えないほどの高さだ。その扉が、何枚もの大きな花びらのように重なり合って、閉じている。
扉の表面には、足元からはるか高いところまで、びっしりと花が彫り込まれていた。咲いている花、蕾のままの花、散りかけの花。下の方の彫り物は、くっきりとして新しい。けれど上へ行くほど線が浅くなり、風や雨ですり減って、ついには何の形なのかもわからなくなっている。
「始原花門だ」
クラウゼが、門を見上げたまま言った。
「この神殿が建てられるよりも前から、ここにあったと伝えられている。開くには、決められた言葉がいる」
クラウゼは門の前に進み出ると、両手を胸の前で重ねた。そして、低く澄んだ声で、何かを唱えはじめた。少女には意味のわからない言葉だった。けれど、まるで歌のように、上がったり下がったりする声だった。
その声が、廊下の高い天井へ吸い込まれていく。それにつれて、門に刻まれた花々の溝に、ごく薄い光が、細い水のように流れ込んでいった。
けれど、その言葉が半分にも届かないうちに、少女の手の中で花が光った。
ゆうべと同じ、青白い光だった。少女は思わず息をのんだ。その瞬間、花の光は、クラウゼの声が流し込んでいた薄い光を押しのけるようにして、門の溝を一気に駆け上がっていった。
足元から高いところへ。根から茎へ、茎から花へ。刻まれた花のひとつひとつが、下から順に青白く灯っていく。そして門全体が、地の底から響くような、低いうなりを上げた。
そのふるえは、足の裏から膝へ、膝から胸へと伝わってきた。そして、いつのまにか少女の心臓の音と、同じ速さで打っていた。はるか頭の上から、細かな石の粉が、白い雪のようにさらさらと降ってくる。
重なり合っていた扉の花びらが、いちばん内側の一枚から、ゆっくりと外へ反り返りはじめた。一枚が開けば、その外の一枚が、さらにその外の一枚が、あとに続いていく。石でできているはずの花びらが、やわらかくしなった。
花びらと花びらのあいだに生まれた細いすきまから、外の光が糸のように差し込んできた。光の糸は一本、また一本と増えていき、やがて束になって、薄暗い廊下の床に金色の筋を描いていった。
その筋の先は、どれもまっすぐに、少女の足元へと伸びていた。温かな風が吹き込み、少女の髪をやわらかく持ち上げる。それは「開く」というより、「咲く」という言葉のほうがぴったりの光景だった。
唱える声がとちゅうで途切れ、クラウゼは目を見開いた。胸の前で重ねていた両手が、ゆっくりとほどけて下がっていく。「(私の言葉ではない)」と、クラウゼは思った。「(門は、この子に応えている?)」
長い年月この神殿を預かり、数えきれないほどこの門を開いてきた。そのクラウゼでさえ、一度も見たことのない開き方だった。いつもの言葉で開くのは、下の方の花びら数枚だけだ。上の花びらまで動くところなど、前の管理長からさえ聞いたことがない。
記録にない少女。自分から根を離れた花。そして今、言葉を待たずに咲いた門。ひとつだけなら、偶然と呼べた。だが、三つ重なれば――
少女は、門のいちばん上を見上げていた。すり減って形をなくしていたはずの古い彫り物の中で、ほんの一瞬、ひとつの輪が薄く光ったのが見えたのだ。
燃えるような、輪。夢の中で見た、あの形。胸の奥を、細い糸で引かれたような気がした。
「……言葉を、最後まで唱えていないのに」
リトが、あっけにとられたようにつぶやいた。いつのまにか、半歩後ろへ下がっていた。そのことに自分で気づいて、慌てて足を戻す。「(怖がっちゃいけない)」と、リトは自分に言い聞かせた。
ゆうべ、柱の陰から見守っていた少女は、膝を抱えて花のそばに座る、心細そうな子どもにすぎなかった。けれど今、光の筋の真ん中に立つその小さな背中は、リトの知っているどんな者とも違って見える。それでも、ゆうべ「怖い」と打ち明けた自分に、「わからない」と正直に答えてくれたのは、確かにこの子だったのだ。
マリエナだけが、驚いた様子も見せずに門を見上げていた。けれど、杖を握るその指には、関節が白く浮き出るほど強く力がこもり、かすかに震えていた。
「(おばあさま。あの話は、本当だったのですね)」
小さいころ、眠る前に何度もせがんでは聞かせてもらった、古い古い話。あのころは、ただのおとぎ話だと思っていた。
「昔、祖母から聞いたことがあります。この門は一度だけ、誰の言葉もなしに、ひとりでに開いたことがあるのだと」
「そんな記録は、どこにもない」
クラウゼが、硬い声で言った。マリエナは小さく肩をすくめた。
「ええ。ですから、わたしは『聞いた』と申し上げたのですよ」
少女は、ふたりの顔を見比べた。記録にないこと。けれど、誰かが覚えていること。そのどちらが本当なのか、少女には決めることができなかった。
ただ、自分に向けられる目が、ついさっきまでとはどこか違ってしまったことだけは、はっきりとわかった。おそれと、とまどいと、遠い何かを懐かしむような色。そのどれもが、自分ではない誰かを見ているようだった。少女は、花を抱く腕に、そっと力をこめた。
胸の奥で「(前にも、一度)」という言葉が、小さな棘のように残った。
(第三話 前編 了)
次回 第三話「始原花門」後編




