第一章 GATE :第二話 名もなき花の傍(かたわ)らで(後編)
マリエナだけが、少女の顔と石板とを、ゆっくりと見比べていた。
◇
その夜のうちに、少女は広間へ戻ることを許された。少女が自分から、そう願ったのだ。管理長は少し迷うように眉を寄せたが、やがてうなずき、リトを見張り役として残していった。
白い花は、変わらず床の割れ目に咲いていた。少女はそのそばに膝を抱えて座り、青白く光っては消える花紋を、ぼんやりと眺めていた。少し離れた柱の陰には、リトが灯火を抱えて立っている。見張られていると思うと心細かったが、ひとりきりではないことに、どこかでほっともしていた。
「……怖くないんですか」
ふいに、柱の陰から声がした。少女が振り向くと、リトは気まずそうに目をそらした。
「記録にない者なんて、ぼくは初めて見た。正直に言うと、少し、怖い。でも……君のほうが、ずっと怖いんじゃないかと思って」
少女は、答えにつまった。怖いのかどうか、自分でもまだよくわからない。ただ、名前も記録もないまま冷たい石の上に座っていると、自分という存在が、夜の闇に少しずつ溶けて消えてしまいそうな気がした。
「わからない、です」
ようやくそう答えて、少女は隣の花を見た。
「でも、この花のそばにいると、少しだけ、ここにいていいような気がするの」
リトは何も言わなかった。けれど、抱えていた灯火をそっと少女の方へ近づけると、それきり、柱の陰から出てこなかった。
夜は、ゆっくりと更けていった。どこか高いところで雫が落ちる音と、夜に咲く花の甘い香りだけが、目覚めたときと変わらずそこにあった。少女は膝にあごをのせたまま、記録の間で見た石板のことを思い返していた。細い筒のような花、星のようにとがった花。そのひとつひとつに寄り添っていた名前は、きっと誰かに呼ばれるための名前だ。呼ばれるたびに、その持ち主は「自分はここにいる」と確かめてきたのだろう。
少女には、呼ばれる名前がない。けれど、あの削られた石板の誰かにも、昔は名前があったはずだ。刻まれて、削られて、また刻まれて、それでも最後には何も残らなかった名前が。そう思うと、会ったこともないその誰かが、なぜかとても身近に感じられた。
「(あなたは、だれだったの)」
心の中でつぶやいても、答えはない。少女は花の茎にそっと指を添えたまま、何度かまばたきをした。まぶたが、とても重い。体の奥から、じわりとだるさが広がってくる。これが「眠い」ということなのだと、少女は初めて知った。
目を閉じると、あの上も下もない暗闇がすぐそこまで戻ってきた気がして、少女は慌てて目を開けた。「(また、あそこへもどってしまったら)」けれど、指先に触れた茎はひんやりとして、確かにここにあった。その感触にすがるようにして、少女はもう一度、そっと目を閉じた。そして、いつのまにか浅い眠りに落ちていた。
◇
夜明けの少し前、管理長が戻ってきた。その顔には、ひと晩じゅう眠っていない疲れがにじんでいた。
「神殿だけでは、君のことを決められない」
管理長は少女の前に膝をつき、目の高さを合わせてそう言った。灯火が、すぐ目の前の顔を照らし出す。少女は、思わず目を見開いた。
落ち着いた低い声と、見上げるほど大きな体。広間で初めてその声を聞いたときから、少女はてっきり、この者を男だと思い込んでいた。けれど、手を伸ばせば届くほど近くで見るその顔は、女性のものだった。目じりの細いしわも、疲れの奥に残るおだやかなまなざしも、見上げてばかりいたこれまでは、少しも目に入っていなかったのだ。少女の驚きに気づいたのか、管理長はほんの少しだけ目を細めた。
「名乗るのが遅れたな。私はクラウゼ。この神殿を預かる者だ。夜が明けたら、始原花門を開く。門の外の街には、神殿よりも古い記録を持つ者たちがいる。君にも、いっしょに来てもらいたい」
門の外。その言葉に、少女の胸は小さく跳ねて、それからすっと冷えた。ここではない場所。まだ見たことのない世界。そして何より――少女は、隣の白い花を見た。この花は、床の石に根を張っている。連れていくことはできない。
「(置いていくの?)」
声に出さずに、少女は花に問いかけた。行きたくない、と言ってしまいたかった。けれど、ここにとどまったところで、記録のない自分に何ができるのだろう。答えを探すなら、行くしかない。わかっているのに、指先が花から離れようとしなかった。
「……いっしょに、来てくれる?」
気がつけば、そうささやいていた。
そのときだった。花の根元で、石がかすかに鳴った。割れ目に沿って張っていた細い根が、眠りから覚めるように、ゆっくりとほどけていく。根はやわらかく丸まりながら、少女の手のひらへと寄り添ってきた。白い花は少しもしおれることなく、少女の両手の中に収まっていた。
後ろで、リトが息をのむ音がした。クラウゼもまた、目を大きくして、かすれた声でつぶやいた。
「神殿の花が……自分から、根を離れた……?」
少女は、手の中の花を胸に抱いた。花びらの冷たさの奥に、目覚めたときと同じ、かすかな温もりがあった。
遠く、神殿のいちばん外れで、何か大きなものが目を覚ますような、低く長い響きが鳴りはじめていた。
(第二話 了)
次回 第三話「始原花門」




