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フロラヴァータ  - 3299の花たちと…記録にない、ひとりの少女の物語 - FLORAVATAお子様向けバージョン  作者: shaton


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第一章 GATE :第二話 名もなき花の傍(かたわ)らで(後編)

 マリエナだけが、少女の顔と石板とを、ゆっくりと見比(みくら)べていた。

◇

 その夜のうちに、少女は広間へ戻(もど)ることを許(ゆる)された。少女が自分から、そう願ったのだ。管理長は少し迷(まよ)うように眉(まゆ)を寄(よ)せたが、やがてうなずき、リトを見張(みは)り役として残していった。

 白い花は、変わらず床(ゆか)の割(わ)れ目に咲(さ)いていた。少女はそのそばに膝(ひざ)を抱(かか)えて座(すわ)り、青白く光っては消える花紋(かもん)を、ぼんやりと眺(なが)めていた。少し離(はな)れた柱の陰(かげ)には、リトが灯火(ともしび)を抱えて立っている。見張られていると思うと心細かったが、ひとりきりではないことに、どこかでほっともしていた。

「……怖(こわ)くないんですか」

 ふいに、柱の陰から声がした。少女が振(ふ)り向くと、リトは気まずそうに目をそらした。

「記録にない者なんて、ぼくは初めて見た。正直に言うと、少し、怖い。でも……君のほうが、ずっと怖いんじゃないかと思って」

 少女は、答えにつまった。怖いのかどうか、自分でもまだよくわからない。ただ、名前も記録もないまま冷たい石の上に座っていると、自分という存在(そんざい)が、夜の闇(やみ)に少しずつ溶(と)けて消えてしまいそうな気がした。

「わからない、です」

 ようやくそう答えて、少女は隣(となり)の花を見た。

「でも、この花のそばにいると、少しだけ、ここにいていいような気がするの」

 リトは何も言わなかった。けれど、抱えていた灯火をそっと少女の方へ近づけると、それきり、柱の陰から出てこなかった。

 夜は、ゆっくりと更(ふ)けていった。どこか高いところで雫(しずく)が落ちる音と、夜に咲く花の甘(あま)い香りだけが、目覚めたときと変わらずそこにあった。少女は膝にあごをのせたまま、記録の間で見た石板のことを思い返していた。細い筒(つつ)のような花、星のようにとがった花。そのひとつひとつに寄り添(そ)っていた名前は、きっと誰(だれ)かに呼(よ)ばれるための名前だ。呼ばれるたびに、その持ち主は「自分はここにいる」と確(たし)かめてきたのだろう。

 少女には、呼ばれる名前がない。けれど、あの削(けず)られた石板の誰かにも、昔は名前があったはずだ。刻(きざ)まれて、削られて、また刻まれて、それでも最後には何も残らなかった名前が。そう思うと、会ったこともないその誰かが、なぜかとても身近に感じられた。

「(あなたは、だれだったの)」

 心の中でつぶやいても、答えはない。少女は花の茎(くき)にそっと指を添えたまま、何度かまばたきをした。まぶたが、とても重い。体の奥(おく)から、じわりとだるさが広がってくる。これが「眠(ねむ)い」ということなのだと、少女は初めて知った。

 目を閉(と)じると、あの上も下もない暗闇(くらやみ)がすぐそこまで戻ってきた気がして、少女は慌(あわ)てて目を開けた。「(また、あそこへもどってしまったら)」けれど、指先に触(ふ)れた茎はひんやりとして、確かにここにあった。その感触(かんしょく)にすがるようにして、少女はもう一度、そっと目を閉じた。そして、いつのまにか浅い眠りに落ちていた。

◇

 夜明けの少し前、管理長が戻ってきた。その顔には、ひと晩(ばん)じゅう眠っていない疲(つか)れがにじんでいた。

「神殿(しんでん)だけでは、君のことを決められない」

 管理長は少女の前に膝をつき、目の高さを合わせてそう言った。灯火が、すぐ目の前の顔を照らし出す。少女は、思わず目を見開いた。

 落ち着いた低い声と、見上げるほど大きな体。広間で初めてその声を聞いたときから、少女はてっきり、この者を男だと思い込(こ)んでいた。けれど、手を伸(の)ばせば届(とど)くほど近くで見るその顔は、女性(じょせい)のものだった。目じりの細いしわも、疲れの奥に残るおだやかなまなざしも、見上げてばかりいたこれまでは、少しも目に入っていなかったのだ。少女の驚(おどろ)きに気づいたのか、管理長はほんの少しだけ目を細めた。

「名乗るのが遅(おく)れたな。私(わたし)はクラウゼ。この神殿を預(あず)かる者だ。夜が明けたら、始原花門(しげんかもん)を開く。門の外の街には、神殿よりも古い記録を持つ者たちがいる。君にも、いっしょに来てもらいたい」

 門の外。その言葉に、少女の胸(むね)は小さく跳(は)ねて、それからすっと冷えた。ここではない場所。まだ見たことのない世界。そして何より――少女は、隣の白い花を見た。この花は、床の石に根を張(は)っている。連れていくことはできない。

「(置いていくの?)」

 声に出さずに、少女は花に問いかけた。行きたくない、と言ってしまいたかった。けれど、ここにとどまったところで、記録のない自分に何ができるのだろう。答えを探(さが)すなら、行くしかない。わかっているのに、指先が花から離れようとしなかった。

「……いっしょに、来てくれる?」

 気がつけば、そうささやいていた。

 そのときだった。花の根元で、石がかすかに鳴った。割れ目に沿(そ)って張っていた細い根が、眠りから覚めるように、ゆっくりとほどけていく。根はやわらかく丸まりながら、少女の手のひらへと寄り添ってきた。白い花は少しもしおれることなく、少女の両手の中に収(おさ)まっていた。

 後ろで、リトが息をのむ音がした。クラウゼもまた、目を大きくして、かすれた声でつぶやいた。

「神殿の花が……自分から、根を離れた……?」

 少女は、手の中の花を胸に抱いた。花びらの冷たさの奥に、目覚めたときと同じ、かすかな温(ぬく)もりがあった。

 遠く、神殿のいちばん外れで、何か大きなものが目を覚ますような、低く長い響(ひび)きが鳴りはじめていた。


(第二話 了(りょう))


次回 第三話「始原花門(しげんかもん)」


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