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フロラヴァータ  - 3299の花たちと…記録にない、ひとりの少女の物語 - FLORAVATAお子様向けバージョン  作者: shaton


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第一章 GATE :第二話 名もなき花の傍(かたわ)らで(前編)

 「……君は、誰(だれ)だ」とたずねられても、少女は首を横に振(ふ)ることしかできなかった。喉(のど)の奥(おく)は乾(かわ)いたままで、速くなった心臓(しんぞう)も、なかなかもとに戻(もど)ってくれない。灯(あか)りの向こうの者たちは、しばらく低い声で何かを話し合っていた。やがて、いちばん背(せ)の高い影(かげ)が「ついてきなさい」とだけ言った。

 少女は白い花の方を何度も振り返りながら、その背中(せなか)を追った。はだしの足の裏(うら)に伝わる石の冷たさが、一歩ごとに「これは夢(ゆめ)ではない」と教えてくれた。

 記録の間は、少女が目覚めた広間よりも、さらに深い場所にあった。灯火(ともしび)に導(みちび)かれて長い廊下(ろうか)を下っていくあいだも、足元の花紋(かもん)は少女の歩みに合わせて淡(あわ)く灯(とも)った。前を行く管理者たちは振り返らなかったが、背中でその光を確(たし)かめているのがわかった。

 誰も口をきかない。硬(かた)い靴(くつ)の底が石の床(ゆか)を打つ音だけが、いくつも重なって響(ひび)いている。その中で、自分のはだしの足音だけが、誰の音ともそろっていないことに少女は気づいた。小走りにならないと、追いつけないのだ。すると、前を行くいちばん大きな背中が、黙(だま)ったまま、少しだけ歩みをゆるめてくれた。

 たどり着いた部屋は、丸い形をしていた。壁(かべ)に沿(そ)って背の高い棚(たな)が天井まで続き、そこに薄(うす)い石の板が、花びらを重ねるように何千枚(なんぜんまい)も並(なら)べられている。ひんやりとした空気には、古い石と乾いた苔(こけ)の匂(にお)いが混(ま)じっていた。灯火が揺(ゆ)れるたびに棚の影が伸(の)び縮(ちぢ)みして、部屋そのものが踊(おど)っているように見えた。

「転生(てんせい)の儀(ぎ)で、この神殿(しんでん)に生まれた者は、その夜のうちに、名前と、そばに咲(さ)いた花を、この花石板(かせきばん)に刻(きざ)まれる」

 低い声でそう教えてくれたのは、広間で最初に「君は、誰だ」とたずねた者だった。背が高く、肩幅(かたはば)の広い、がっしりとした体つきをしている。肩(かた)にかかる髪(かみ)のあいだには、薄紫(うすむらさき)のバラがいくつも咲いていた。ほかの者たちがこの者を「管理長」と呼(よ)んでいることを、少女は広間を出るときのやりとりから知っていた。転生の儀とは、生まれ変わりの儀式(ぎしき)のことらしい。

「今夜生まれた者の板は、まだ一枚(いちまい)も積まれていないはずです」

 管理長の隣(となり)で、若(わか)い男の管理者が、棚のいちばん上を見上げながら言った。管理長の胸(むね)のあたりまでしか背丈(せたけ)のない、小柄(こがら)で頬(ほお)の丸い若者(わかもの)だった。指先には葉っぱの筋(すじ)のような細い模様(もよう)が走っていて、灯りを持つその手が、ほんの少し震(ふる)えている。

「念のため、百夜(ひゃくや)前の分まで調べます。……ですが管理長、記録のない者がこの神殿で目覚めるなんて、聞いたことがありません」

「だから調べるのだ」

 管理長の声はおだやかだったが、それ以上の質問(しつもん)を許(ゆる)さない強さがあった。若い管理者は小さく唇(くちびる)を結び、棚へと手を伸ばした。

◇

 石板が一枚ずつ下ろされ、灯火の下に並べられていく。石と石が触(ふ)れ合うたびに、硬く澄(す)んだ音が丸い部屋に響いた。板の表面は乳白色(にゅうはくしょく)で、かすかに青みを帯び、ぬれたように光っている。

 少女は部屋のすみに腰(こし)を下ろして、その作業をじっと見つめていた。どの板にも、見たことのない文字で名前らしきものが刻まれ、そのそばに花の形が彫(ほ)られている。細い筒(つつ)のような花、星のようにとがった花、房(ふさ)になって垂(た)れ下がる花。どの花も、誰かの名前のすぐそばに寄(よ)り添(そ)うように刻まれていた。見ているうちに、少女は胸の奥が少しずつ冷えていくのを感じた。

 ここにいる誰もが、こうして自分が何者かを示(しめ)すものを持っている。名前と、花と、それを刻んだ夜。けれど少女が持っているのは、あの広間の床に咲いていた一輪(いちりん)の花だけだ。それさえ、本当に自分の花なのか、確かめる方法はなかった。

「……ありません」

 どれくらい時間がたったのか、若い管理者がようやく顔を上げた。

「今夜も、昨夜(さくや)も、百夜前までさかのぼっても。この子らしき者の記録は、一枚もありません。名前がわからないので、手がかりはあの白い花だけです。けれど、白い花といっしょに生まれた者さえ、どこにも」

 部屋の空気が、少し重くなった気がした。誰も少女の方を見なかった。けれど、見ないようにしていることが、かえってはっきりと伝わってきた。

「あの」

 少女は、自分でも驚(おどろ)くほど小さな声で言った。

「あの花じゃ、だめですか。わたしのとなりに、咲いていたんです。夢の中でも……花みたいな何かを、見た気がして」

 言いながら、それがどれほど頼(たよ)りない言葉か、少女自身がいちばんよくわかっていた。夢の中のことは、もうぼんやりとしか思い出せない。あれが本当にこの花だったのかと聞かれたら、はっきりうなずく自信はなかった。それでも、少女に見せられるものは、それしかなかった。

 管理長は、しばらく黙って少女を見つめていた。責(せ)めるような目ではない。けれど、何かを慎重(しんちょう)に確かめようとする目だった。

「花は、うそをつかない」

 そして、静かに言った。

「だが、花が何を伝えようとしているのかを読み違(ちが)えるのは、いつも私(わたし)たちのほうだ」

 それがなぐさめの言葉なのか、注意の言葉なのか、少女にはわからなかった。

◇

「――管理長」

 部屋の奥でひとり古い棚を調べていた、年老いた記録守(きろくもり)が、ふいに声を上げた。記録を守る役目をしている、腰の曲がった女性(じょせい)だ。白く乾いた髪を、細い蔓(つる)でひとつに束ねている。彼女(かのじょ)は一枚の石板を両手で抱(かか)えるようにして、灯火の下へ運んできた。

「マリエナ、何か見つかったのか」

「百夜どころではありませんよ。これは、この棚のいちばん古い段(だん)にあったものです」

 差し出された板は、ほかのどれよりも色がくすみ、長い年月のせいか、ふちが欠けていた。そして、名前が刻まれているはずの場所が、えぐり取られたように白くへこんでいた。花の彫り込(こ)みも同じように削(けず)られ、名前と花がひとつながりのくぼみになっている。そこにどんな花があったのか、もう何ひとつわからなかった。

「削られている」

 管理長が低くつぶやいた。声は落ち着いていたが、石板のふちに添えた指には、ぐっと力がこもっていた。「(偶然(ぐうぜん)か)」

「ええ、削られています。それも、一度ではありません」

 マリエナはしわだらけの指で、くぼみのふちをそっとなぞった。

「ほら、ここ。削った跡(あと)の上から、別の手で何かを刻み直して、それをまた削っている。石の粉で埋(う)めた跡もある。石の種類が違うでしょう。この白さは、この神殿の石ではありません」

 若い管理者が、息をのんだ。「(誰かが、記録を消した……?)」神殿の記録は決してまちがわない――彼(かれ)はそう教えられて育ってきた。それまで信じてきたものが、がらがらとくずれていくような話だった。

「誰がそんなことを……記録には、神殿の者しか触れられないはずです」

「だからこそ、ですよ」

 マリエナは、楽しそうにさえ聞こえる声で言った。けれど、くぼみを見つめるその目は、少しも笑っていなかった。「(まさか、おばあさまの話が……)」

「記録は正しい。けれど、記録を刻むのも、それを削るのも、同じ手なのです。リト、覚えておきなさい」

 名前を呼ばれた瞬間(しゅんかん)、若い管理者の指先の模様が、ふっと淡く光った。少女には、それが何の光なのかわからなかった。ただ、この若者の名前がリトなのだということだけは、わかった。

 その光が消えないうちに、少女は思わず立ち上がり、一歩前へ出ていた。くぼみの底に、削り残された線がひとつだけ見えたのだ。弧(こ)を描(えが)いて、途中(とちゅう)でふっと切れた線――まるで、欠けた円のような。

 そのとたん、胸の奥がどくんと鳴った。広間の壁の前で感じたのと同じだった。思い出せないのに、それでも確かに知っている。そんな、もどかしい気持ちだった。とくん、と心臓が大きく打ち、それから急(きゅう)に速くなっていく。指先がじんとしびれ、足元の床が少しかたむいたような気がした。耳の奥で、またあの声が遠くこだまする。

 ――もう一度。

 少女は思わず胸を押(お)さえた。「(まただ)」と思った。「(わたしは、これを知ってる)」けれど、何を知っているのかは、やはりわからなかった。

「どうした」

 その声に顔を上げると、管理長とリトとマリエナの目が、いっせいに自分へ向けられていた。少女は首を振ることしかできなかった。説明しようとしても、言葉になる前に、何もかもがほどけてしまいそうだった。

 マリエナだけが、少女の顔と石板とを、ゆっくりと見比(みくら)べていた。


(第二話 前編 了(りょう))


次回 第二話「名もなき花の傍(かたわ)らで」後編


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