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フロラヴァータ  - 3299の花たちと…記録にない、ひとりの少女の物語 - FLORAVATAお子様向けバージョン  作者: shaton


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第一章 GATE :― 第一話 白い目覚め(後編)

「……あなたは、わたしを知ってるの?」

 かすれた小さな声がこぼれた。

 自分の声を聞くのも、これが初めてだった。花が答えるはずはなけど、問いかけたとき、風もないのに、花びらがかすかに揺(ゆ)れた気がした。

 ぽつん、とまた水の音が響(ひび)いて、少女ははっとした。「(……聞こえる)」夢(ゆめ)の中の声は、体の内側に直接(ちょくせつ)しみ込(こ)んでくるものだった。でも今の音は違(ちが)う。耳という小さな入口を通って、外から確(たし)かに届(とど)いてくる。ここには、音がある。

 少女は、自分の名前を思い出そうとした。胸(むね)の内側の、いちばん奥(おく)にある引き出しを、そっと開けてみるように。けれど、そこには何も入っていなかった。名前も、どこから来たのかも、どうしてここにいるのかも。引き出しの中は、何ひとつ書かれていない、真っ白なままだった。

 本当なら、怖(こわ)がるところなのかもしれない。けれど怖さはまだ遠くにあって、少女の心にあったのは、とても深い静けさと、目の前の花に引き寄(よ)せられる、ふしぎな気持ちだけだった。

「(わたしには何もない。でも、この花だけは、ここにある)」

◇

 立ち上がると、膝(ひざ)が少し震(ふる)えた。一歩踏(ふ)み出すと、はだしの足の裏(うら)が石を打つ。その小さな音は思ったよりずっと遠くまで響き、柱や壁(かべ)にはね返って、遅(おく)れて戻(もど)ってきた。自分の足音に追いかけられているようで、少女はびくりとして立ち止まった。

 すると、足元の模様(もよう)がふわりと明るくなった。少女の立つ場所を中心に、白と金の淡(あわ)い光が、水面の波紋(はもん)のように、ひとつ、またひとつと広がっていく。まるでこの場所そのものが、少女が目覚めたことに気づいたかのようだった。

 おそるおそる歩き出すと、一歩ごとに足元の花の模様――花紋(かもん)が灯(とも)り、少女が通り過(す)ぎると静かに消えていく。柱のあいだを抜(ぬ)けて奥へ進むうちに、少女は壁のおかしなところに気がついた。一面に刻(きざ)まれた花紋の、さらに奥。石の表面ではなく、もっと深いところに、別の形が沈(しず)んでいるように見えたのだ。花ではない。花よりもずっと古い何か。輪、欠けた円、裂(さ)けた線――ついさっき、夢の中で見たばかりの形だった。

 息が浅くなる。少女は吸(す)い寄せられるように手を伸(の)ばしかけた。そのとき、壁の奥の形が一度だけ強く脈(みゃく)打った。それに応(こた)えるように、少女の胸の真ん中で何かが跳(は)ねる。痛(いた)みではない。けれど、痛みにとてもよく似(に)た、胸がちくりとするような懐(なつ)かしさだった。耳の奥で、あの声のかけらがこだまする。もう一度――ふたたび、と。

「……ふたたび?」

 口に出したとたん、壁の奥の形はすうっと沈み、ただの石と花紋に戻ってしまった。見間違(みまちが)いだったのだろうか。目をこらしても、もう何も見えない。少女は手を下ろしたが、指先にはまだ冷たさが残っていた。

 「もう一度」ということは、一度目があったということだ。わたしは前にも、ここで目覚めたことがあるのだろうか。だとしたら、そのときの「わたし」は、いったいどこへ行ってしまったのだろう。

 そう考えたとたん、遠くにあったはずの怖さが、とうとう少女のすぐ近くまで忍(しの)び寄ってきた。冷たい指で背中(せなか)をなぞられたような気がして、少女は思わず振(ふ)り返った。

 白い花は、変わらずそこに咲(さ)いていた。ずいぶん離(はな)れてしまったはずなのに、闇(やみ)の中でその白だけがはっきりと見える。

 気がつけば、少女は来た道を駆(か)け戻っていた。乱(みだ)れた足音が響き、花紋が慌(あわ)てたように次々と目を覚ましていく。花の前に膝をつき、茎(くき)を折らないよう両手でそっと包み込む。花びらはひんやりしているのに、生きているものだけが持つやわらかさを、手のひらに伝えてきた。

 そしてその内側で、何かが灯った。花が光ったのか、自分の手が光ったのかはわからない。青白い光が指のすきまから溢(あふ)れて、少女の頬(ほお)を照らした。この冷たい石の広間で、ようやく知った温(ぬく)もりが、胸の奥までゆっくりとしみ込んでいった。

 光はすぐに消えたが、手のひらには、ほのかな熱が残っていた。何も覚えていない。それでも、この花がここにいてくれた。今はそれだけで、立っていられる気がした。

「わたし、ここにいるよ」

 花に向けた言葉なのか、自分に向けた言葉なのか、少女にもわからなかった。

◇

 そのとき、遠くで重いものがきしむ音がした。まだ少女が足を踏み入れていない奥の方で、大きな扉(とびら)が開いたのだ。

 続いて聞こえてきたのは、いくつもの足音だった。規則(きそく)正しく石を打つ音が近づくにつれ、柱の向こうに、花の形をした灯火(ともしび)がいくつも浮(う)かび上がり、ゆらゆらとこちらへやってきた。その光は、この広間の冷たい闇とはまるで違う、蜜(みつ)を溶(と)かしたような温かい色をしていた。床(ゆか)の花紋の光が、ひとつ、またひとつと消えていく。

 少女は花を背中にかばうようにして、身を固くした。とくん、とくん、と鳴っていた心臓(しんぞう)の音が、いつのまにか速くなっている。目覚めたとき、自分がここにいることを教えてくれたあの音が、今は「逃(に)げろ」と急(せ)かすように打っていた。

「――花紋が反応(はんのう)したのは、このあたりのはずだ」

 低く落ち着いた、けれど少しとまどったような声だった。

「ですが、今夜は転生(てんせい)の儀(ぎ)の予定などありません。記録にも、何も」

 転生の儀――生まれ変わりの儀式(ぎしき)。少女には、その言葉の意味もわからなかった。

「わかっている。だから確かめに来たのだ」

 灯(あか)りが、少女の姿(すがた)をとらえた。いくつもの光がいっせいにこちらを向く。まぶしさに目を細めながらも、少女は、灯りの向こうに立つ者たちが息をのむのをはっきりと感じた。握(にぎ)りしめた指先から、すうっと温もりが引いていく。手に入れたばかりのこの体が、生まれて初めて「怖い」と言っていた。長い沈黙(ちんもく)のあいだ、雫(しずく)の音だけが、ぽつんと聞こえた。

「……君は、誰(だれ)だ」

 やがて、最初に話していた声が、ゆっくりとたずねた。少女は答えようと口を開いたが、乾(かわ)いた喉(のど)がひくりと震えただけで、声にはならなかった。胸の奥の引き出しは、やはり空っぽのままだ。答えられることは、何もない。名前も、過去(かこ)も、ここにいる理由さえも。

 少女は後ろへ手を伸ばし、石の割(わ)れ目に沿(そ)って張(は)った白い花の細い根に、そっと指先で触(ふ)れた。自分が何者なのかはわからない。けれど目を覚ましたとき、この花はすぐそばに咲いていた。夢の中でわたしに問いかけた、あの「何か」と同じ姿で。そして触れると、応えるように光ってくれた。偶然(ぐうぜん)だとは思えない。きっとこの花は、ここでわたしを待っていてくれたのだ。どうしてかはわからなくても、それだけは信じられた。

 でもそれを、どうすれば灯りの向こうの者たちに伝えられるのだろう。


 灯りの向こうで、誰かが低く告(つ)げるのが聞こえた。

「――記録を。今すぐ、誕生記録(たんじょうきろく)を調べろ」


(第一話 了(りょう))


次回 第二話「名もなき花の傍(かたわ)らで」


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