第一章 GATE :― 第一話 白い目覚め(後編)
「……あなたは、わたしを知ってるの?」
かすれた小さな声がこぼれた。
自分の声を聞くのも、これが初めてだった。花が答えるはずはなけど、問いかけたとき、風もないのに、花びらがかすかに揺れた気がした。
ぽつん、とまた水の音が響いて、少女ははっとした。「(……聞こえる)」夢の中の声は、体の内側に直接しみ込んでくるものだった。でも今の音は違う。耳という小さな入口を通って、外から確かに届いてくる。ここには、音がある。
少女は、自分の名前を思い出そうとした。胸の内側の、いちばん奥にある引き出しを、そっと開けてみるように。けれど、そこには何も入っていなかった。名前も、どこから来たのかも、どうしてここにいるのかも。引き出しの中は、何ひとつ書かれていない、真っ白なままだった。
本当なら、怖がるところなのかもしれない。けれど怖さはまだ遠くにあって、少女の心にあったのは、とても深い静けさと、目の前の花に引き寄せられる、ふしぎな気持ちだけだった。
「(わたしには何もない。でも、この花だけは、ここにある)」
◇
立ち上がると、膝が少し震えた。一歩踏み出すと、はだしの足の裏が石を打つ。その小さな音は思ったよりずっと遠くまで響き、柱や壁にはね返って、遅れて戻ってきた。自分の足音に追いかけられているようで、少女はびくりとして立ち止まった。
すると、足元の模様がふわりと明るくなった。少女の立つ場所を中心に、白と金の淡い光が、水面の波紋のように、ひとつ、またひとつと広がっていく。まるでこの場所そのものが、少女が目覚めたことに気づいたかのようだった。
おそるおそる歩き出すと、一歩ごとに足元の花の模様――花紋が灯り、少女が通り過ぎると静かに消えていく。柱のあいだを抜けて奥へ進むうちに、少女は壁のおかしなところに気がついた。一面に刻まれた花紋の、さらに奥。石の表面ではなく、もっと深いところに、別の形が沈んでいるように見えたのだ。花ではない。花よりもずっと古い何か。輪、欠けた円、裂けた線――ついさっき、夢の中で見たばかりの形だった。
息が浅くなる。少女は吸い寄せられるように手を伸ばしかけた。そのとき、壁の奥の形が一度だけ強く脈打った。それに応えるように、少女の胸の真ん中で何かが跳ねる。痛みではない。けれど、痛みにとてもよく似た、胸がちくりとするような懐かしさだった。耳の奥で、あの声のかけらがこだまする。もう一度――ふたたび、と。
「……ふたたび?」
口に出したとたん、壁の奥の形はすうっと沈み、ただの石と花紋に戻ってしまった。見間違いだったのだろうか。目をこらしても、もう何も見えない。少女は手を下ろしたが、指先にはまだ冷たさが残っていた。
「もう一度」ということは、一度目があったということだ。わたしは前にも、ここで目覚めたことがあるのだろうか。だとしたら、そのときの「わたし」は、いったいどこへ行ってしまったのだろう。
そう考えたとたん、遠くにあったはずの怖さが、とうとう少女のすぐ近くまで忍び寄ってきた。冷たい指で背中をなぞられたような気がして、少女は思わず振り返った。
白い花は、変わらずそこに咲いていた。ずいぶん離れてしまったはずなのに、闇の中でその白だけがはっきりと見える。
気がつけば、少女は来た道を駆け戻っていた。乱れた足音が響き、花紋が慌てたように次々と目を覚ましていく。花の前に膝をつき、茎を折らないよう両手でそっと包み込む。花びらはひんやりしているのに、生きているものだけが持つやわらかさを、手のひらに伝えてきた。
そしてその内側で、何かが灯った。花が光ったのか、自分の手が光ったのかはわからない。青白い光が指のすきまから溢れて、少女の頬を照らした。この冷たい石の広間で、ようやく知った温もりが、胸の奥までゆっくりとしみ込んでいった。
光はすぐに消えたが、手のひらには、ほのかな熱が残っていた。何も覚えていない。それでも、この花がここにいてくれた。今はそれだけで、立っていられる気がした。
「わたし、ここにいるよ」
花に向けた言葉なのか、自分に向けた言葉なのか、少女にもわからなかった。
◇
そのとき、遠くで重いものがきしむ音がした。まだ少女が足を踏み入れていない奥の方で、大きな扉が開いたのだ。
続いて聞こえてきたのは、いくつもの足音だった。規則正しく石を打つ音が近づくにつれ、柱の向こうに、花の形をした灯火がいくつも浮かび上がり、ゆらゆらとこちらへやってきた。その光は、この広間の冷たい闇とはまるで違う、蜜を溶かしたような温かい色をしていた。床の花紋の光が、ひとつ、またひとつと消えていく。
少女は花を背中にかばうようにして、身を固くした。とくん、とくん、と鳴っていた心臓の音が、いつのまにか速くなっている。目覚めたとき、自分がここにいることを教えてくれたあの音が、今は「逃げろ」と急かすように打っていた。
「――花紋が反応したのは、このあたりのはずだ」
低く落ち着いた、けれど少しとまどったような声だった。
「ですが、今夜は転生の儀の予定などありません。記録にも、何も」
転生の儀――生まれ変わりの儀式。少女には、その言葉の意味もわからなかった。
「わかっている。だから確かめに来たのだ」
灯りが、少女の姿をとらえた。いくつもの光がいっせいにこちらを向く。まぶしさに目を細めながらも、少女は、灯りの向こうに立つ者たちが息をのむのをはっきりと感じた。握りしめた指先から、すうっと温もりが引いていく。手に入れたばかりのこの体が、生まれて初めて「怖い」と言っていた。長い沈黙のあいだ、雫の音だけが、ぽつんと聞こえた。
「……君は、誰だ」
やがて、最初に話していた声が、ゆっくりとたずねた。少女は答えようと口を開いたが、乾いた喉がひくりと震えただけで、声にはならなかった。胸の奥の引き出しは、やはり空っぽのままだ。答えられることは、何もない。名前も、過去も、ここにいる理由さえも。
少女は後ろへ手を伸ばし、石の割れ目に沿って張った白い花の細い根に、そっと指先で触れた。自分が何者なのかはわからない。けれど目を覚ましたとき、この花はすぐそばに咲いていた。夢の中でわたしに問いかけた、あの「何か」と同じ姿で。そして触れると、応えるように光ってくれた。偶然だとは思えない。きっとこの花は、ここでわたしを待っていてくれたのだ。どうしてかはわからなくても、それだけは信じられた。
でもそれを、どうすれば灯りの向こうの者たちに伝えられるのだろう。
灯りの向こうで、誰かが低く告げるのが聞こえた。
「――記録を。今すぐ、誕生記録を調べろ」
(第一話 了)
次回 第二話「名もなき花の傍らで」




