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フロラヴァータ  - 3299の花たちと…記録にない、ひとりの少女の物語 - FLORAVATAお子様向けバージョン  作者: shaton


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第一章 GATE :第一話 白い目覚め(前編)

 そこには、上も下もなかった。遠いも近いも、冷たいも温かいもない。時間の流れは、どこかで止まってしまったようだった。深い水の底に似(に)ているけれど、それよりずっと静かな暗闇(くらやみ)の中を、「わたし」と呼(よ)ぶには、まだ形のはっきりしない何かが、ゆらり、ゆらりと漂(ただよ)っていた。

 手を伸(の)ばそうとして、伸ばす手がないことに気づく。目を開けようとして、開くまぶたがないことに気づく。声を出そうにも喉(のど)はなく、息をしようにも胸(むね)はない。ほどけかけた糸のような心だけが、闇(やみ)の中にかすかに残っていた。

 それなのに、なぜか見えていた。

 闇の中にぽつりと浮(う)かぶ、「何か」が。

 はじめは、小さな白い点にすぎなかった。けれど見つめているうちに――見つめるための目など、どこにもないのに――それは少しずつ形になっていった。鳥が翼(つばさ)を広げたようにも、蝶(ちょう)が羽ばたいているようにも見える。薄(うす)いものが何枚(なんまい)も重なり合い、内側からほのかに光が透(す)けている。

 その周りを、十二の小さな影(かげ)がゆっくりと回っていた。輪のようなもの、欠けた円のようなもの、裂(さ)けた線、うねる波、閉(と)ざされた扉(とびら)――ほかにも、闇にまぎれてよく見えない影がいくつか。その動きには、始まりも終わりもなかった。何千回、何万回と同じ道をたどってきたような、気が遠くなるほどの古さがあった。

 さらにその外では、六つの色の光が、息をするように明るくなったり暗くなったりしていた。どれも見たことのない色なのに、とても懐(なつ)かしい。ひとつが明るくなると、「わたし」の真ん中がほんのり温かくなる。別のひとつが明るくなると、深い水に沈(しず)んだようにひやりとする。遠くを吹(ふ)き抜(ぬ)ける風を感じさせる光もあれば、雨に湿(しめ)った土の匂(にお)いを運んでくる光もある。残るふたつは、思わず目を細めたくなるほどのまぶしさと、すべての音を包み込(こ)むような深い夜の静けさだった。光が明るくなるたびに、闇のずっと奥(おく)で、何かがかすかに応(こた)えるように震(ふる)えた気がした。

 「わたし」は、ただそれを見つめていた。見つめずにはいられなかった。


 あなたは、もう一度咲(さ)きたい?


 女性(じょせい)の声にも、幼(おさな)い子どもの声にも聞こえた。声は外から届(とど)いたのではない。「わたし」の内側に、直接(ちょくせつ)しみ込んでくるようだった。優(やさ)しいのか悲しいのかもわからないその問いの中で、ひとつの言葉だけが、棘(とげ)のように引っかかった。

 「もう一度」と、声は言ったのだ。

 一度目のことなど、何も知らないはずだった。それなのに、その言葉を聞いたとたん、ないはずの胸がきゅっと縮(ちぢ)んだ。ずっと昔、どこか遠いところで、大切なものを失くした――そんな痛(いた)みだけが、何を失くしたのかもわからないまま、ふっとよみがえった気がした。

 答えを探(さが)すように、「わたし」はあの白い何かへ近づいていった。どうしても、触(ふ)れたかった。理由はわからない。けれど、あれに触れれば何かが終わり、そして何かが始まる。そんな予感だけがあった。

 指先のようなものが届きかけた、その瞬間(しゅんかん)。回っていた十二の影が、いっせいにこちらを振(ふ)り向いた。燃(も)える輪、細い弧(こ)、空を割(わ)る光、深い水の揺(ゆ)らぎ、花を編(あ)んだ冠(かんむり)、闇の底へ降(お)りていく階段(かいだん)、重たげに垂(た)れる穂(ほ)、白く満ちた器、開かれた門、まっすぐな刃(やいば)、固く閉じた蕾(つぼみ)、そしてすべてを見通すようなひとつの眼(め)。それらが重なり合い、ひとつの姿(すがた)になりかけたところで――


 世界は、白く弾(はじ)けた。

◇

 白。どこまでも白い、やわらかな水の中だった。

 さっきまでの暗い深みとは違(ちが)う。白い器に満たされた清らかな水が、すきまなく「わたし」を包み込んでいる。浮かんでいるのか、誰(だれ)かに抱(だ)かれているのかさえ、わからなかった。これは夢(ゆめ)なのか。それとも、ずっと昔の、誰かの記憶(きおく)の底なのか。確(たし)かめることもできない。白い器はときどき、ゆっくりと波打つように動いた。そのたびに「わたし」は、少しずつ明るい方へ押(お)し上げられていった。

 やがて、光の揺れる水面にたどり着いたとき、白の向こうから、ぽつん、と雫(しずく)の音がした。高いところから落ちた雫が、石を打つ音だ。少し間をおいて、もう一度、同じ音がした。それに重なるように、薄いものがそっとこすれ合う、かさり、という小さな音も聞こえた。

 それは、この白い場所で初めて聞いた、向こう側からの音だった。遠くで、けれど確かに、世界が待っている。


 少女は、目を開けた。


 最初に感じたのは、冷たさだった。頬(ほお)の下の床(ゆか)が、驚(おどろ)くほど冷たい。その冷たさは顔の片側(かたがわ)からじわりと広がり、自分の体には「肌(はだ)」があって、そこが外の世界との境目(さかいめ)なのだと教えてくれた。「(これは、石だ)」と思う。石が石だとわかる。冷たいものが冷たいとわかる。そんな当たり前のことに、少女はほんの少しほっとした。

 次に、息をした。胸が、ふくらんだのだ。ひんやりと湿った空気が鼻から喉を通り、体の中へ流れ込んでくる。息を吐(は)くと、それに応えるように、とくん、と何かが打った。とくん、とくん。規則(きそく)正しく続くその響(ひび)きが自分の心臓(しんぞう)の音だと気づくまで、少し時間がかかった。夢の中には、胸などなかった。今は、ある。

 続いて、体の重さがずしりと戻(もど)ってきた。頬にかかった髪(かみ)が、息をするたびに揺れて、ふわりとくすぐったい。

 指を曲げて床をなでると、爪(つめ)の先が細い溝(みぞ)に引っかかった。その手を目の前に近づけてみる。暗がりの中に、細くて白い指が浮かび上がった。握(にぎ)って、開く。もう一度、握って、開く。「(これが、わたしの手)」夢の中では、どこを探しても見つからなかったものだ。そうしてひとつずつ自分を確かめながら、少女はゆっくりと体を起こした。

 そこは薄暗(うすぐら)い場所だったが、真っ暗ではなかった。天井は、見上げても見えないほど高く、何本もの柱が、闇の奥へ列になって続いている。柱にも、床にも、壁(かべ)にも、花の形の模様(もよう)が刻(きざ)まれていた。その模様は、眠(ねむ)っている生き物の寝息(ねいき)のように、ごく淡(あわ)く光っては消え、消えてはまた光っていた。

「(あれ? 甘(あま)い香りがする)」

 昼の光を浴びて開く花の香りではない。もっと深くて、少し湿り気のある、夜にだけ咲く花の香りだ。なぜか少女には、それがわかった。そっと吸(す)い込んでみると、熟(う)れた果実のような濃(こ)い甘さの奥に、雨上がりの葉っぱのような、少しだけ苦い匂いが混(ま)じっている。

 ここは、ただ暗いのではない。夜なのだ。そしてここには、夜に目を覚ます命が、ひっそりと生きている――少女は、そう感じた。

 そのとき少女は、すぐそばに咲いている花に気がついた。

 石の床の割れ目から細い茎(くき)が伸び、幅(はば)の広い白い花びらがいくつも連なっている。顔を近づけると、夜の花の甘い香りとは違う、澄(す)んだ淡い匂いがした。蝶が羽ばたいているような形。真ん中だけがほんのり色づいているところ。「(夢で見た、あの『何か』と同じだ)」そう気づいた瞬間、息が止まった。

 「(知っている)」と思ったからだ。

 いや、「知っている」なんて言葉では、とても足りない。胸の底から込み上げてきたのは、泣きたいような、笑いたいような、久(ひさ)しぶりに会えた誰かの顔を見たときのような懐かしさだった。けれど少女には、「久しぶり」と呼べるような過去(かこ)が、ひとつもなかった。

「……あなたは、わたしを知ってるの?」

 かすれた小さな声が、唇(くちびる)からこぼれた。


(第一話 前編 了(りょう))


次回 第一話「白い目覚め」後編


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