第一章 GATE : 第五話 大守護者(だいしゅごしゃ)の試し(後編)
その瞬間、少女の体の奥で、何かが目を覚ました。
◇
光だった。
少女の手首の内側から、泉のほとりの庭でルクシエルが見つけたのと同じ、形の決まらない淡い光がにじみ出した。けれど今度は消えなかった。光は手首から腕へ、腕から背中へと広がり、少女の全身を包み込む。青白い、あの花と同じ色の光だった。
振り下ろされた槍が、少女の背中の上で止まった。いや、止められた。触れる寸前で、見えない何かにはじかれたように跳ね返り、若い衛士――守りの役目の兵士――の手を離れて、弧を描いて飛んでいく。乾いた音を立てて地面に落ちたその柄は、真ん中から、きれいにふたつに裂けていた。
そして、庭の色が変わった。
セレフィアの白い光が満ちていたはずの庭で、少女の体を中心にして、失われていた色が、波紋のように戻りはじめたのだ。白くなっていた花びらに薄紅が差し、淡い黄色がよみがえり、踏みつけられた茎の緑が、ゆっくりと深さを取り戻していく。消えかけていた少女の影が、青白い光の中で、くっきりと地面に落ちた。
影を消す光と、色を取り戻す光。ふたつの光がぶつかり合う境目で、空気が細かく震えていた。
少女は、その光の中で、一瞬だけ、何かを見た。地面に落ちた自分の影の中に、細く鋭い線が一本、走ったのだ。空を割るような、ひと筋の光。夢の中で、十二の影のひとつとして見た形。耳の奥で、あの声が遠くこだまする。
――もう一度。
光は、来たときと同じように、とつぜん消えた。
少女は、花の上におおいかぶさったまま、荒い息をついていた。そっと身を起こすと、体の下で、あの一輪の小さな花が、何事もなかったかのように、薄紅色の花びらを朝日に向けて開いていた。
◇
庭は、静まり返っていた。
若い衛士は、裂けた槍を、あっけにとられたように見下ろしたまま、その場に立ちつくしている。まわりを囲んでいた衛士たちの中には、思わず腰の武器へ手をかけている者もいた。生垣の向こうの街の者たちは、息をのんだまま、誰ひとり声を上げない。ただ、研究院の記録係が夢中で筆を走らせる音だけが、かすかに聞こえていた。
セレフィアの盾からは、いつのまにか光が消えていた。
彼は、長いあいだ黙って少女を見つめていた。その顔から、何を思っているのかを読み取ることはできなかった。けれど、盾を握る左手が、わずかにこわばっているのを、少女は見た。
「……答えろ」
ようやく、セレフィアが口を開いた。
「今の力は、守るためのものか。それとも、壊すためのものか」
少女は、裂けた槍を見た。それから、自分の体の下で咲いている、小さな花を見た。
「……わからない」
正直に、そう答えた。
「自分でも、何が起きたのか、わからない。でも……花がふまれるのは、いやだった。それだけ」
セレフィアの目が、ほんのわずかに見開かれた。
彼の目が、ゆっくりと庭を巡った。踏み荒らされ、ちぎれ、それでも少女を中心に色を取り戻しつつある花々。そして、庭の入口の向こうに見える、廊下の壁の傷だらけの防具へ。
「武器を持つ理由は、ふたつしかない」
セレフィアは、誰に言うでもなく、低くつぶやいた。
「守るためか、攻めるためかだ。……私は今、どちらのために、あの若い衛士に、この子へ槍を向けさせたのだろうな」
その言葉の意味は、少女にはまだわからなかった。けれど、そうつぶやいたセレフィアの横顔は、どこか苦しそうに見えた。自分の力を何のために使えばいいのか、この大きな男も迷っているのかもしれない、と少女は思った。
「大守護者殿」
クラウゼが、静かに歩み出た。
「試しは、もうこれで十分ではないでしょうか」
「十分ではない」
セレフィアは首を振った。
「力があることはわかった。だが、それが何なのかは、何ひとつわかっていない。わからない力は、わかる力よりもずっと危ういのだ」
衛士たちが、その言葉にかすかにうなずく。一方で、生垣の向こうからは、ひそひそと別の声がもれ聞こえてきた。「花を守ったんだぞ」「あんな子を試すなんて」怖がる者と、かばう者。同じ光景を見ていたはずなのに、誰もが違うものを見ていた。
セレフィアは、少女の前まで歩み寄った。見上げるほどの背丈だった。けれど、もう、群れを割った衛士たちのような冷たさは感じなかった。
「君の名は」
少女は、答えられなかった。きのうと同じように、唇を開き、閉じた。
「……ないのか」
「……はい」
「ならば、覚えておけ」
セレフィアの声は、厳しかった。けれど、その奥に、何か別のものが混じっていた。
「守護院は、名のない者を記録できない。記録できない者は、守護院の守りの外にいる。何かが起きても、私たちは君を守ることができない。……私は、守れないものを抱えるのが、何よりも嫌いだ」
少女は、セレフィアを見上げた。
この大きな男は、ただ自分を疑って試したのではなかった。その奥にあったのは――守れないことへの、おそれだった。
名前がない。それは、きのうまでは、さびしさのことだった。呼ばれないこと。振り返れないこと。光れないこと。けれど今、目の前の大守護者は、名前がないことを、守れないことだと言っている。名前は、自分のためだけのものではないのかもしれない。誰かが自分を守ろうとしてくれるとき、その手がかりになるものでもあるのだ。
「(名前が、ほしい)」
胸の中の願いが、きのうとは少し違う重さを持って、そこに沈んでいた。
◇
張りつめた空気が、ようやくほどけかけたときだった。
くすくす、と、誰かが笑う声がした。
少女は顔を上げた。ルクシエルも、セレフィアも、衛士たちも、声の出どころを探してあたりを見回す。けれど、庭のどこにも、笑っている者の姿は見えなかった。
ふわり、と、風が吹いた。
庭じゅうの、踏みつけられた花々が、いっせいに揺れた。折れた茎までが、何かに呼ばれたように、かすかに動く。庭のすみずみから、ちぎれた花びらが風に乗って舞い上がり、まるで誰かの手に招かれるように、一か所へ集まっていく。
「まあまあ、ひどいありさまねえ」
笑いを含んだ、鈴を転がすような声が、今度ははっきりと、頭の上から降ってきた。
舞い上がった数えきれない花びらが、少女たちの頭の上で渦を巻いている。その渦の真ん中で、何かが、小さく、きらきらと輝いていた。
「わたしの庭で、朝からこんなに花を泣かせたのは、どなたかしら?」
セレフィアの顔が、みるみるこわばっていくのを、少女は見た。大守護者が、初めて見せる顔だった。
(第五話 了)
次回 第六話「百花の大妖精」




