第八話 今日の朝はいつもよりも騒がしい。
翌朝、俺は普段より三十分早く起きた。
同居人が一人増えても、一日の時間は増えない。二人分の朝食と弁当を用意し、洗濯機を回しても、客室から小鳥遊が起きてくる気配はなかった。
六時半を過ぎたところで、扉を三度ノックする。
「小鳥遊。朝だぞ」
返事はない。
もう一度声をかけてから扉を開けると、小鳥遊はベッドではなく、机に突っ伏して眠っていた。毛布を肩へ掛け、開いたノートパソコンを枕代わりにしている。
「何時まで作業してたんだ……」
肩を軽く揺らすと、小鳥遊はゆっくり顔を上げた。
眼鏡を外した顔を正面から見るのは、これが初めてだった。
長い前髪の下に隠れていた目は大きく、眠気を含んだ瞳には儚げな印象がある。鼻筋や唇も驚くほど整っており、普段のフードと丸眼鏡が、その容姿を意図的に隠しているようにさえ見えた。
御影が誰もが振り返る華やかな美少女なら、小鳥遊は誰にも見つからない場所へ隠れていたことの方が不思議な美少女だった。
「……小鳥遊?」
本人だと分かっているのに、思わず確認してしまった。
小鳥遊は机の上を探り、眼鏡を掛ける。途端に、昨日見た姿へ戻った。
『おはようございます』
「おはよう。学校へ行くぞ」
『今日は休みます』
「理由は?」
『眠いです』
「認められない。起きろ」
再び机へ伏せようとしたため、ノートパソコンを閉じる。
『横暴です』
「着替えも食事も忘れる人間に言われたくない。顔を洗って着替えろ。朝食はできている」
◇◆◇◆◇
七時を少し過ぎて、小鳥遊は制服姿で現れた。
シャツの裾は片側だけ外へ出ており、リボンは傾き、髪も大きく跳ねている。
「鏡は見たか?」
首を横へ振る。
シャツとリボンは自分で直させ、髪だけは洗面所で濡らして整えた。小鳥遊はドライヤーの音を嫌がり、目を閉じたまま俺に頭を預けている。
「朝から寝るな」
『寝ていません』
「目を閉じているだろ」
『眼鏡がないので、開けても見えません』
「そういう問題じゃない」
身支度を終え、朝食を食べさせる。学校で必要になりそうな教科書と筆記用具、ノートパソコン、財布、スマートフォンだけを鞄へ入れた。
小鳥遊はほとんど教室へ登校していないため、時間割も提出物も把握していない。何が必要か分からない以上、足りないものは学校で確認するしかなかった。
「忘れ物があっても、今日は諦めろ」
『パソコンがあります』
「授業をすべてパソコンで解決しようとするな」
『大半は解決できます』
「学校はそういう場所じゃない」
本人が納得した様子はなかったが、どうにか予定時刻に家を出られた。
◇◆◇◆◇
駅までの道で、小鳥遊は俺の少し後ろを歩いていた。
並んで歩けばいいと思うのだが、本人がその位置を選んでいるなら無理に変える必要もない。多少の気まずさを覚えながら、そのまま好きにさせていた。
駅へ近づき、人通りが増え始めた頃、シャツの背中をわずかに引かれる感触がした。
振り返ると、小鳥遊が俺のシャツを指先で摘んでいる。
「何をしている」
『はぐれないようにしています』
「同じ制服を着た百八十七センチの人間を見失うか?」
『高槻さんの後ろは安心します』
「どうして?」
小鳥遊は真面目な顔で文字を打った。
『大きな壁みたいです』
「褒めていないだろ」
『それに、高槻さんが歩くと、みんな避けます』
「道を譲ってくれているだけだ」
『威圧感で人混みが左右に割れます。効率的です』
「俺を除雪車みたいに使うな」
小鳥遊に馬鹿にされている気がしたが、本人の表情はいたって真剣だった。シャツを掴む指を離す様子もない。
「高槻?」
学校へ向かう道の途中で、知った顔に呼び止められた。三浦だった。
三浦の視線が、俺の背後にいる小鳥遊へ動く。
二人が顔を合わせるのは初めてだった。小鳥遊はすぐ俺の後ろへ隠れ、シャツを掴む指へ少しだけ力を込めた。
「その子、もしかして二年五組の小鳥遊さん?」
三浦が尋ねる。
その瞬間、小鳥遊の肩が少し跳ねた。
「なぜ分かった」
「いやね、ほとんど教室棟には来ないんだけど、情報処理準備室に凄腕のプログラマーがいるって有名だから。その子はよくパーカーを着ていて丸眼鏡、小柄で、ほとんど喋らない。聞いていた条件との一致率が高いからね」
本人と初めて会った人間が、当然のように自分の情報を並べている。
小鳥遊が警戒するのも無理はなかった。
三浦は少し身を屈め、小鳥遊の顔を覗こうとした。彼女はそれに合わせて俺の背中へ完全に隠れる。
「隠れ美少女だとは聞いてたけど、ふうん、なるほどね」
「朝から本人をじろじろ観察するな。そして、気色の悪いことを言うな」
「いや、褒めてるんだけど」
俺のスマートフォンが震えた。
『この人は誰ですか』
「同じクラスの三浦。害はない」
『この人があの三浦さんですか。なぜか私のことを知りすぎています』
「人の噂や交友関係には、やたらと詳しいんだ」
『情報屋ですか』
「だいたい合っている」
三浦が不満そうに眉を上げる。
「二人で俺の悪口を言ってない?」
「事実を説明しているだけだ」
「御影みたいなこと言い始めたな」
三浦は改めて、俺と小鳥遊を見比べた。
「それで、どうして二人で登校してるの?」
「偶然会った」
「どこで?」
「家の近く」
「高槻の家の近くで、小鳥遊さんと?」
「ああ」
「それで、高槻のシャツを掴んでる?」
「人混みを効率的に進むためらしい」
「…………ふぅん」
「……遅刻するぞ」
歩く速度を上げる。
三浦は面白そうに笑いながら隣へ並んだ。
「何か隠してる?」
「何も」
「じゃあ、何で急に逃げるの?」
「前へ進んでいるだけだ」
「高槻、お前って嘘をつくとき説明が雑になるよな」
「何も嘘はついていない」
三浦はそれ以上追及しなかった。ただ、明らかに面白いものを見つけたと言わんばかりの顔をしている。
一方、小鳥遊は学校へ着くまで俺の背後から一度も出ず、ときどき三浦が近づいていないか確認していた。
◇◆◇◆◇
昇降口でしばらくバトルした末、教室に行きたがらない小鳥遊を仕方なく情報処理準備室まで送り、自分の教室の前まで来た。
教室内を見ると御影はすでに席に着いていた。少し前までなら常に空席だった彼女の席は、やっと本来の形を取り戻しつつあるようだった。
そして今朝はやけにクラスメイトたちがざわめき合っている気がした。
「三浦、さっき高槻と一緒にいた小さい子、誰?」
「二年五組の小鳥遊さん。なんか仲睦まじげに高槻と二人で登校してた」
「手、繋いでた?」
「いや、高槻のシャツを後ろから掴んでた。ただ本人は偶然会っただけって言ってるけど、絶対に何か隠してるんだよなあ」
入口に立ったまま見つめている俺に一人が気づき、会話がぴたりと止まった。
彼、彼女たちは気まずそうに目を泳がせると、誤魔化すようにこちらへひらひらと手を振り、散り散りに自席へ戻っていく。俺も釈然としないものを抱えたまま、自分の席へ向かった。
御影は本を開いていたが、今の話は聞こえていたらしい。
「おはよう、高槻」
「おはよう」
「今朝、小鳥遊さんと一緒に登校していたそうね」
「朝からずいぶん楽しそうに盛り上がってたな」
「ええ。あなたが何か隠しているらしい、という話も聞こえたわ」
「人の事情でよくもまあ、あそこまで楽しめるもんだ」
御影は本を閉じ、俺を見た。
表情は普段と変わらない。ただ、ページを押さえる指先だけが、わずかに強く紙を挟んでいる。
「私の家へ来た翌週には、小鳥遊さんへ手を出したの?」
「出していない」
「随分と手が早いのね」
「だから違う。あいつとは家庭の事情で一緒になっただけだ」
「家庭の事情?」
「詳しくは言えない」
同居していると教室で説明すれば、さらに騒ぎが大きくなる。
しかし、言葉を濁したせいで、御影の眉がわずかに寄った。
「言えない関係なの?」
「その言い方をするな」
「チャラ男」
「そんな言葉をどこで覚えた御令嬢さんよ。それに何を根拠に言っているんだ」
「私の家へ出入りしながら、別の女子と親しげに登校していた」
「お前の家には生活指導で行っているだけだ」
「……そう」
御影は本を開き直した。
「まぁ、私には関係ないことね」
「なら最初から聞くな」
「契約相手が問題を起こせば、私への指導にも影響するでしょう」
「問題は起こしていない」
「二股も?」
「一股目から存在しない」
御影はそれ以上、何も聞かなかった。
◇◆◇◆◇
放課後、社会適応研究会の準備場所として借りた小会議室で、御影と活動内容を整理していた。
正式な同好会として認められるには五人必要だが、現在の参加者は御影一人。代表者欄へ勝手に名前を書かれた俺も、まだ了承した覚えはない。
三十分ほど経ったところで扉が控えめに叩かれた。
開けると、小鳥遊がノートパソコンを抱えて立っている。
「どうした」
『帰りたいです』
「先に帰ってもいいぞ」
『道が分かりません』
「今朝通っただろ」
『高槻さんの背中しか見ていませんでした』
御影が椅子を一つ引いた。
「ここで待てばいいわ。今日は見学する約束だったでしょう」
小鳥遊は御影と室内を交互に見たあと、少し迷ってから入った。
俺の隣へ座り、足元のコンセントへノートパソコンを接続する。
「なぜ隣なんだ」
『高槻さんの近くが安心します』
向かい側で、御影の指が止まった。
「小鳥遊さん」
小鳥遊が顔を上げる。
「高槻のことが好きなの?」
「御影。朝からその話を引きずるな」
『分かりません』
「分からない?」
『昨日から一緒に暮らし始めたばかりなので』
室内が静かになった。
御影が、ゆっくり俺を見る。
「一緒に暮らしているの?」
「……親同士が勝手に決めた。一時的に預かっているだけだ」
「二人きりで?」
「親父は海外だ」
「そう」
御影は申請書へ視線を落とした。紙の端を押さえる指へ、わずかに力が入っている。
「何だ、その反応は」
「別に。ただ、三浦君の二股疑惑は、完全な誤解でもなかったのね」
「一股目も二股目も存在しない」
「私は数に入っているの?」
「なぜ少し嬉しそうなんだ」
「嬉しくはないわ」
御影は申請書を小鳥遊の前へ置いた。
「社会適応研究会へ入らない?」
切り替えが早かった。
『何をする部ですか』
「料理、洗濯、掃除、買い物など、社会生活に必要な能力を指導するわ。学校生活や人間関係も対象よ」
小鳥遊が俺を見る。
『高槻さんが教えるんですか』
「いや、俺に人へ指導できるほど大した能力はない。御影が勝手にそう言ってるだけだ」
「でも、主に高槻が教えるわ」
「勝手に決めるな」
『料理も?』
「必要なら」
『朝の準備も?』
「それは家で覚えろ」
『片づけも?』
「活動内容に入れていいと思うわ。私にも必要だから」
生活能力のない令嬢と、食事や身支度さえ一人では危うい天才プログラマー。社会適応研究会という名前に、これほど適した二人もいない。
『人と話さなくてもいいですか』
「必要な連絡ができれば、方法は問わないわ。チャットでも構わない」
『毎日来なくても?』
「活動は週二回。オンライン参加でもいいし来られない日は無理しなくてもいいわ」
『高槻さんもいますか』
「いるわ」
「まだ了承していない」
小鳥遊はわずかにためらったあと、おずおずと申請書を受け取った。
『入ります』
「散々誘っておいて、今さら聞くのもおかしいけれど……本当にいいの?」
『はい。高槻さんに生活を教えてもらえます』
「俺を目的に入るな」
『私が高槻さんの仕事を手伝う場所にもできます』
「依頼主の許可が取れた場合だけだぞ」
『分かっています』
小鳥遊は参加者欄へ自分の名前を書いた。
小鳥遊琴葉。
署名を確認した御影の口元が、わずかに緩む。
「これで三人ね」
「だから、俺はまだ入ると――」
「高槻」
「何だ」
「私たち二人だけで、社会へ適応できると思う?」
二人の顔を交互に見比べる。やがて、まあ無理だよな、と諦め混じりのため息がこぼれた。答えは考えるまでもなかった。
「……一か月だけだ」
「何が?」
「試験活動の間だけ、代表を引き受ける。その後は別の人間を探せ」
「分かったわ」
御影の返事には、探すつもりが一切感じられなかった。
小鳥遊の画面にも文章が表示される。
『よろしくお願いします、部長』
「その呼び方はやめろ」
こうして社会適応研究会には、不本意ながら三人揃ったことになった。
社会に適応できない人間が二人と、なぜかその面倒を見ることになった人間が一人。
残り二人まで増える必要はない。
そう願ったが、最近の俺の願いは、だいたい逆の形で叶うことになっていた。




