第九話 彼女は距離感がバグっている。
社会適応研究会が活動を始めてから、御影玲奈を取り巻く空気は少しずつ変わり始めていた。
以前までの御影は、桁外れの家柄に整いすぎた容姿、隙のない態度も相まって、近寄り難いという印象を持たれていた。話しかければ返事はするものの、そこから会話が広がることは滅多になく、本人もまた、それを気にしている様子はなかった。
ところが最近は、俺とのやり取りを耳にする機会が増えたせいか、クラスの連中も御影が見た目ほど冷たい人間ではないことに気づき始めたらしい。むしろ真顔で妙なことを言い出すうえ、本人には冗談を言っている自覚すらない。それが分かってくると、近寄り難さよりも好奇心が勝ったのだろう。
御影から進んで誰かの輪へ入るほどではない。それでも話しかけてきたクラスメイトを追い返すような空気はなくなり、休み時間には女子数人と短い言葉を交わしている姿も見かけるようになった。
一方、小鳥遊は相変わらず自分の教室へはほとんど顔を出さず、日中の大半を情報処理準備室で過ごしている。こちらは御影ほど順調に学校へ適応しているとは言い難いが、放課後になると、ときどき俺の教室まで迎えに来るようになった。
教室の中へ入ってくることはない。
パーカーのフードを目深に被り、廊下の壁際でできるだけ小さくなりながら、こちらの様子を窺っている。人と目が合いそうになれば顔を伏せ、誰かが近くを通るだけで壁との隙間をなくすように身を縮めるため、見ようによっては警戒心の強い小動物に近かった。
そんな様子が一部の女子には妙に刺さったらしい。
「今日も来てる。かわいい」
「何か待ってるのかな」
「ほら、高槻くんでしょ」
本人に聞こえない程度の声で囁き合い、遠巻きに眺めている姿をよく見かける。小鳥遊自身は、自分が密かにマスコットのような扱いを受けていることなど知る由もない。
そうして御影がクラスへ少しずつ馴染み、小鳥遊が放課後だけ姿を見せるようになった結果、なぜか俺まで声をかけられる機会が増えた。
そのたびに不要な弁解と謎の釈明を求められるこちらとしては、たまったものではなかった。
「高槻って、意外と女の子の面倒見がいいんだね」
「誤解を招く言い方をするな」
「じゃあ、二人とは何をしてるの?」
「それを説明すると長くなる」
「やっぱり何かあるんだ」
「どうしてそうなる」
否定すればするほど怪しまれ、説明を省けば意味深に受け取られる。かといって事情をすべて話せるはずもなく、もはや何を答えても正解にはならない。
御影はそんな俺の苦労を横で眺めながら、澄ました顔で本を読んでいる。
「原因の一人として、何か言うことはないのか」
「人気者になれてよかったわね」
「最近、会話の九割がお前たちとの関係についてなんだよ」
「では、残りの一割を大切にすればいいと思う」
役に立たない助言を残し、御影は静かにページをめくった。
その日の放課後も、教室の前では小鳥遊が壁に張りつくようにして俺を待っていた。
帰り支度を済ませて席を立つと、それに気づいた小鳥遊がフードの奥からわずかに顔を上げる。その様子を見ていた女子たちが小さく沸き立ち、俺は聞こえないふりをして鞄を肩に掛けた。
また余計な噂が増える。
そう覚悟しながら廊下へ出た、そのときだった。
「春人。久しぶり」
聞き覚えのある声とともに、背後から腕が肩へ回された。
柔らかな感触と甘い香りが一気に近づき、教室と廊下の空気が揃って止まる。百八十七センチある俺の肩へ無理なく腕を回せるほど背が高く、並んでいても決して小さくは見えない。小鳥遊は驚いたように身を固くし、少し遅れて出てきた御影も、俺の肩にぶら下がる女子へ視線を向けた。
声の主は、周囲の反応など気にも留めず、俺の顔を覗き込んで笑っている。
「最近、ずいぶん楽しそうだね」
口元にはいつもの人懐っこい笑みが浮かんでいた。
けれど、肩に置かれた指先には、普段よりほんの少しだけ力が入っていた。
「近い。離れろ、夏帆」
「久しぶりに会ったのに、第一声がそれ?」
「始業式のときすれ違っただろ」
「あれは会ったうちに入らないって」
篠崎夏帆は不満そうに唇を尖らせながらも、俺の肩に回していた腕を素直に解いた。
彼女とは中学二年と三年の二年間、同じクラスだった。高校では一度もクラスが重なっていないものの、廊下や購買で顔を合わせれば話す程度の関係は続いている。休日に待ち合わせて遊ぶほど親しいわけではないが、二年間ずっと近くにいたぶん、久しぶりに話しても妙な気まずさはなかった。
もっとも、篠崎の方には、そもそも人と気まずくなるという感覚が欠けているのかもしれない。
明るめの茶色に染めた髪を緩く束ね、制服も校則から大きく外れない範囲で器用に着崩している。すらりと伸びた手足に、制服の上からでも目を引く豊かな胸元と、均整の取れたスタイル。華やかな顔立ちも相まって、ただ廊下を歩いているだけで人目を引いた。本人は意識していないのだろうが、何気なく髪をかき上げる仕草や、相手との距離を詰める振る舞いには妙に大人びた色香があり、それが否応なく周囲の視線を集めていた。
相手が男子であろうと女子であろうと態度は変わらない。人懐っこく笑い、躊躇なく隣へ並び、話が盛り上がれば遠慮なくボディータッチする。その壁のなさが篠崎の長所であり、同時に大半の面倒事を引き起こす原因でもあった。
「それで、わざわざ何の用だ」
「用がなかったら来ちゃ駄目なの?」
「少なくとも今、お前のせいで教室中から見られてる」
篠崎が教室へ顔を向けると、こちらを窺っていた何人かが慌てて視線を逸らした。あれだけ堂々と見ておいて、隠す意味があるのだろうか。
「春人、最近話題だからねえ」
「誰のせいで話題が増えたと思ってる」
「それは私が来る前からでしょ?」
笑いながら返され、言葉に詰まる。
否定できないのが腹立たしい。
小鳥遊は少し離れた場所から篠崎を警戒するように見上げていた。パーカーのポケットに両手を入れ、いつでも準備室へ逃げ帰れる体勢を整えている。
やがてスマートフォンを取り出すと、慣れた手つきで文字を打った。
『知り合いですか』
「ああ。中学からの同級生だ」
「篠崎夏帆。夏帆でいいよ」
篠崎が小鳥遊に顔を近づける。
小鳥遊はそのぶんだけ後ろへ下がった。篠崎がさらに一歩近づくと、また一歩下がる。数秒のうちに、小鳥遊の背中が廊下の壁へ到達した。
「ちっちゃいねえ。かわいい」
「追い詰めるな。怯えてるだろ」
「え、私、怖がられてる?」
『距離が近いです。怖いです』
突きつけられた画面を見て、篠崎が目を丸くする。
「あらら、はっきり言うね」
『文字なら言えます』
「面白い子だねえ」
『あなたは苦手かもしれません』
「初めて会ったばかりなのに振られちゃった」
篠崎は胸を押さえて大げさによろめいたが、小鳥遊の表情は変わらない。そのやり取りを眺めていた御影が、俺の隣で静かに口を開いた。
「高槻とは随分親しいのね」
「まあ、中学では結構話してたかな。春人、見た目のせいで最初は怖かったけど、慣れると便利だし」
「人を家電みたいに言うな」
「結構気がきくし、勉強も教えてくれるし、変な男が近寄って来ても春人見て逃げていくし」
「やはり便利なのね」
「納得するな、御影」
篠崎は俺と御影を交互に見たあと、何かを確かめるように目を細めた。
「この子が御影さん?」
「そうだけれど」
「へえ。噂には聞いてたけど、改めて見ると本当にすごい美人」
「ありがとう。あなたも、歩いているだけで周囲の視線を集めそうな容姿ね」
「……それ、褒めてる?」
「ええ。そのつもりだけれど」
一見すると穏やかな会話だったが、篠崎の笑みは普段より少しだけ固かった。御影の方も平然としているように見えて、俺と篠崎の間へ何度か視線を往復させている。
小鳥遊だけが、その二人を観察しながら黙々とスマートフォンへ文字を打ち込んでいた。
『高槻さんの二股疑惑が三股疑惑に更新されそうです』
「不吉な予言をするな」
『すでに学校内で広まり始めています』
見れば、先ほどまでこちらを窺っていた連中が、今度は机を寄せて何事かを囁き合っている。視線がぶつかると、一斉に顔を背けた。
明日から、また要らない釈明が増えるらしい。
篠崎はそんな教室の様子を眺めたあと、俺の顔を見上げた。
「……二股、ねえ」
「違うからな」
「分かってるよ。春人にそんな器用なことできるわけないし」
「それはそれで失礼ではないか?」
いつもなら声を立てて笑うところで、篠崎は口元を緩めただけだった。やがて俺から視線を外すと、御影と小鳥遊をもう一度見比べる。
「でも、そっか。こういう子たちが好みなんだ」
「何の話だ」
「なんでもない」
軽く返した声とは裏腹に、鞄の持ち手を握る指には力がこもっていた。
◇◆◇◆◇
篠崎は昔から、他人との距離を測るのが下手だった。
中学時代から、篠崎は男子の肩へ平気で腕を置き、スマートフォンを覗き込むために頬が触れそうな距離まで近づいた。本人にとっては友人同士の何気ない接触でしかないのだろうが、ただでさえ整った顔立ちに、長身で均整の取れたスタイル、制服越しにも分かる豊かな胸元まで備えている。何気ない仕草にさえ大人びた色香が漂い、思春期真っただ中の男子を勘違いさせるには十分すぎた。
実際、少し親しくなっただけで好意があると思い込み、告白してきた男子は一人や二人ではない。そのたびに篠崎は、「友達としてしか見られない」と曖昧な期待を残すことなく、相手の思い込みをばっさりと斬り伏せてきた。
高校一年の頃には、サッカー部の上級生との間で大きな騒ぎに発展したこともある。あれも篠崎の近すぎる距離感が無用な誤解を招き、拗れた相手が周囲まで巻き込んだ結果だった。
当時の俺も、噂に振り回される篠崎を放っておけず、少なからず首を突っ込んだ。何が事実で、何が後から付け足された話なのかを確かめて回り、相手と言い争いになったこともある。
もっとも、そのことを篠崎本人に話した覚えはない。あいつは最後まで、何事もなかったように笑っていた。だから俺も、それ以上は何も言わなかった。
篠崎はしばらく御影と小鳥遊を交互に眺めていたが、やがて満足したのか、俺の肩を軽く叩いた。
「じゃあ、私はそろそろ帰るね」
「結局、何しに来たんだよ」
「春人の顔を見に来ただけ。それと、噂の女の子たちをちょっと確認しに」
「確認してどうする」
「別に。気になっただけ」
篠崎はそう言って笑うと、数歩進んだところでこちらを振り返った。
「また今度、近いうちにご飯でも連れてってよ」
「どうして俺が連れていく側なんだ」
「細かいことはいいじゃん。じゃあね、春人」
こちらの返事も待たず、篠崎はひらひらと手を振って歩き去っていく。その後ろ姿が廊下の角へ消えるまで、周囲の視線は絶えることがなかった。
「彼女、あなたのことを名前で呼ぶのね」
御影が篠崎の消えた廊下を見つめながら呟く。
「中学の頃からああなんだ。深い意味はない」
「そう。別に意味まで聞いてはいないけれど」
御影は興味を失ったように視線を外し、そっけなくそう付け加えた。
『ご飯に誘われていました』
「ただの社交辞令だろ」
『あの人は本当に行くつもりだと思います』
「どうして会って数分のお前に分かるんだ」
小鳥遊は答えず、スマートフォンをポケットへ戻した。
そこで改めて周囲を見渡すと、教室の中だけでなく、廊下を通りかかった生徒までこちらを窺っていた。篠崎がいなくなったとはいえ、御影と小鳥遊を連れた俺が目立っている状況に変わりはないらしい。
「……とりあえず、部室へ行くぞ」
余計な噂が増える前に、俺は二人を促して歩き出した。
人目を避けるように先を急ぐ大男と、その後ろをついてくる二人の美少女。傍から見れば、その光景自体が十分すぎるほど怪しかったのだろう。
結局、部室代わりの空き教室へ辿り着くまで、俺たちへ向けられる好奇の視線が途切れることはなかった。




